第114期 #7

忘却

 とある忘れられた街に忘れられた小さなコンサートホールがあった。そのホールでは毎週末になると忘れられたオーケストラが忘れられた音楽たちを奏でた。そんな調子だったので、客なんか入るわけもなく、今日も客席には私とたった一人の老人しかいなかった。その老人は大柄で、よく日に焼けていて、麦わら帽子を被っていた。恐らく地元の農夫であろう。しかしながら、そのような場違いな存在にも誰も気など止めやしない。私たちもまた忘れられた聴衆であった。
 前奏曲を終えると、奏者達はそそくさと舞台袖に下がって行く。私はいつものように交響曲が始まるまでの十五分の休憩で、用を足すため席を立った。私が席へ戻ると、私の隣席にいつの間にか老人が移動していた。私は軽く会釈し、席に着いた。
「先週も来ていたね」
「はい」
「どうだろう、この楽団の何がそんなに気に入ったのかね」
 私は少し考えてから答えた。
「正直、この楽団の演奏技術は並以下です。酷いものだ。でも、今時こんな忘れられた楽曲を取り上げる楽団は世界中どこを探しても存在しないでしょう。私はそういう部分に親しみを覚えました」
 老人は私の答えを聞くとほう、と小さく唸り、遠い目をして舞台を眺めた。そして、嗄れた声で語り始めるのだった。
「私はかつてこの楽団の棒振りだった。それこそ随分昔のことだ。その頃はまだこの街も活気に溢れていて、満員の観客を前に私たちは毎晩のように演奏をしたものだった。でも、今となっては私を覚えているものなどいやしない。全部忘れられてしまった」
「それは」
 私は言う。
「とても悲しいことです」
「どうだろうね」
 老人は言う。ジリリと鳴る襤褸チャイムが休憩の終了を告げる。
「忘れられるということも悪いことではないのかもしれない」
 そう言い残し、老人は自分の席へと引き返していった。
 奏者達が再び舞台上に戻ると、指揮者が閑散とした客席に向かって深く一礼をした。そして、顔を上げると私たちにウィンクをしてみせるのだった。老人は呵々と笑い、待っていたとばかりに大きな拍手を指揮者と楽団に送る。私もそれに従った。
 そのオーケストラはそれから一年後に、自然の流れで解散となり、もはや存在すらなくなってしまった。しかし、私は記憶の中でいつでも彼らのことを思い出し、そこで奏でられた忘れられた音楽に耳を傾けることが出来た。そんな風に記憶に残る音楽は後にも先にも決してありはしなかった。



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