第113期 #11

興行

1948年、戦争に負け3年が経っていた。私は13歳、新制中学に入学した年である。
当時、野師の父は仲間の葛西と組み函館市内で映画の巡業をしていた。
 会場は寺の講堂、公民館、地区の集会場等であった。父は地元の顔役との興行権の交渉、巡業の立案計画、会場の確保等を仕切っていた。前座の演芸も担当し、漫談で笑わたり、タップダンスを踊っていた。
 葛西は映画技師と弁士を務めた。占領米軍が放出した16?_映写機(ナトコ)とアメリカの喜劇映画フィルムを数巻を使い回していた。
 神経症の兄と短慮の私は、宣伝と木戸を受け持った。分け前を巡り父は葛西と何度も揉めた。
 結局、水揚げから上納金と会場費を差し引き、父50?l、葛西33?l、兄と私が17?lで落ち着いた。私達の取り分17?lは父か吸い上げた。
葛西は父を[兄貴]とよんでいた。父も葛西も露店での[啖呵売]が本職であり、人心掌握に長けていた。笑いの壷を心得ていた。
私の敬愛る兄は、神経症のため通学経験はなかった。私は興行が夕方からなので、放課後会場に直行した。
担当の宣伝は、兄と二人でメガホンで近隣に、会場と当日の出し物を触れて回った。興行の成否は私達の客寄せにかかっていた。
木戸には時々、仁義も知らぬ下衆野郎が現れ強請をかけた。父や葛西を煩わすことなく、私が撃退した。足を棒にして客寄せする苦労を虚仮にする不当が許せなかった。上納の見返りに地元顔役が送った配下がいた。いざとなれば、裁いてくれる筈である。しかし私の強気は,加勢を期待しての虚勢ではなかった。道理に外れたことは許せなかった。
市内で入場料の安い映画館がいくつか現れ、映画興行は1年程で終わった。父は葛西と訣別し演芸興行を興したが失敗であった。
〜了〜



Copyright © 2012 高橋信也 / 編集: 短編