第113期 #10

まぬがれ

 夜更。抹茶牛乳を床にこぼしてしまったので拭いた。白かった布巾が向こう側から草色に変わっていった。
 二階に上がってまっくらな兄さんの部屋の机の一番上の引出から兄さんの日記帳を取りだした。兄さんは八年も前にこの実家から引っ越してしまったので電燈は切れっぱなし放うたらかし。
 ぼくも去年から一人暮らし。昨日帰省してきて兄さんの日記帳を見つけた。めくる。
 ――美とはまぬがれ。あの人は私の愛をまぬがれたから美しい。
 ぼくの好奇心は強かった。携帯電話アプリのフラッシュライトで刺すように夜をこじあけながら、兄さんの記録を新米主婦のフロア水拭の真剣さで読み抜いた。

 ぼくは自分の部屋にもどり綿掛をめくりあげぬるりと布団に入りこんだ。すぐに体温で掛敷の間にぬくもりが。電話を掛ける。
 出た。
 兄さんと付きあうくらいだ、彼女も好奇心が尋常じゃないんだろう。
 日記にあった彼女の連絡先が今も健在だったことに感動しながらぼくは丁寧な挨拶を二言三言。
「兄は結婚しました」
「そういう人です」
 ぼくが彼女の心を絡めとろうと発した投縄のような一言を彼女はするりと抜けた。
 いけしゃあしゃあ正々堂々簡潔なこたえ。彼女は廻りくどさからまぬがれていた。若干惚れ、まさか兄さんと穴兄弟なんてと思い、気づいた頃には一昨日に別れた恋人のお陰でぼくはこんなにもへどもどしてるんだなと分かり、今さみしい。
 離れていった恋人を今こんなにも美しいと思うのは、やはりぼくの恋愛感情からまぬがれたからなんだろうか。美しい。どこかなにかの一点でもいいから、染まらなければ美しい。あるいはまだらの染めだとしても、まぬがれている部分に注目することさえできれば美しい。
 兄さんの恋人が語りだした。

 あの人はたくさん言葉を並べて私のことをなんだりかんだり言ってたけど、でも結局あの人は自分ことが大好きでたまらなくて、自分の言葉でぬりこめた私のことが好きだっただけ。

 空耳のように話を聞いていたから、彼女、本当はまったくちがうこと喋っていたかも。ともかく八年も前のことを彼女はうわごとのように連綿と。
 ぼくは布団の中でもぞもぞしながら自分のお尻をさわりなでまわして、恋人のいない生憎の空白を埋めた。
 電話口の向こうの彼女に訊ねた。
「あなた結婚は?」
「まだ」
「どうして?」
「思い出が好きだから」
 どうして思い出が? とまた訊ねた。
「不自由しないもの」
 と返された。



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