# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 青と白の世界 | 雪篠女 | 1000 |
2 | もう・・・ | カルシウム | 699 |
3 | パンツ | こらむ | 623 |
4 | 平野さんに対するデート招致についての結果報告(松井 H23) | 霧野楢人 | 1000 |
5 | まくらん草紙 | なゆら | 947 |
6 | 寝入る音色 | 緋熾 | 956 |
7 | 翼人の夏 | 彼岸堂 | 1000 |
8 | 万年のダンデライオン | 金武宗基 | 449 |
9 | うらじゃ | しろくま | 182 |
10 | 紙魚 | こるく | 1000 |
11 | Eve | 伊吹羊迷 | 996 |
12 | 陥る | よこねな | 991 |
13 | フクシマ・福島・ふくしま | euReka | 1000 |
14 | ぎざ、ぎざ | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
15 | 『砂丘越えて』 | 吉川楡井 | 1000 |
私は空を見上げていた。見上げた先には、キャンパスに青い絵の具をぶちまけて、白い絵の具を自由奔放に延ばしたような景色が広がっている。
鼻腔を潮の匂いが擽り、耳には波の音が心地よく響き渡っている。
太陽を野光を浴びながら堤防の上に転がっていた、長く空を見上げていたので、背中が少し痛くなってしまった。
体を起こすと広がるのは、引いては返す波。そしてその波の下に広がる白。
まるで白いキャンパスの上で青と白の液体が、キャンパスを汚さずに動き回っているようで、そんな想像をすると、急に胸が躍った。私は靴下やら靴を堤防の上に脱ぎ捨てて、白いキャンパスの様な砂浜の上に飛び降りた。
サクっと音がして、暖かい砂の何ともいえぬ心地よい感触が足の裏に広がり、それに私は目を細めてもう一度空を見上げる。
見上げた先には、青と白の世界で、真っ直ぐ見つめる先にも青と白の世界。
ただ一人、私ははしゃいで砂浜を走った。砂を蹴って進むたびに、ギュッと音がして、それに波の音が混ざる。それを聞いてると走っているのに疲れを感じないし、胸はさらに躍る。
夏が始まったことがうれしくて、年甲斐も無くはしゃいでしまっている自分に対して、苦笑いをしてしまう。
その苦笑いはどこかツボにはまってしまって、お腹が痛くなるまで笑い、波打ち際に転がった。
寄せては返す波は冷たいような暖かい様な不思議な感覚で、それが面白くてまた笑った。
濡れるのも気にせずそのまま、波打ち際に転がって目を閉じていると、足音が聞こえてきて、その音は少しずつ大きくなる。
「あーぁ、下着まで透けちゃってるよ?ブラ丸見えじゃんかー」
そして足音はぴたっと止まって、その主があきれたような声でつぶやいたので、私は目をぱっと開けて、案の定、こっちを覗き込んでいる友人の身体を引っ張って、同じように波打ち際に転がした。
友人は怒る訳でも無く、“はぁ、まったくこっちもずぶぬれの透け透けだよ”とつぶやいた。
季節は夏。服なんてすぐ乾くよと、私がいうと、友人は諦めたようにため息を付く。
「あなたは夏が好きよねぇ」
「そうとも、夏は私のエネルギーだよ」
そんな意味不明な会話も楽しい。
夏は始まったばかり、今年の夏は何があるだろう。この青と白の世界は私にどんな景色を見せてくれるだろう?
友人の手を握り、そんな風に思いを馳せながら、私は目を閉じた。
もう生きていても何もならない。
下を見れば足がすくむような高さに俺がいるのが分かる。ここはおそらく地上から約30メートルはあるだろう。ここから飛び降りればすべてが終わる。
俺は静かに目を閉じた
半年前
俺は不動産会社に勤めていた。だがこの不況の流れに逆らえず、倒産をしてしまった。
この時、俺はもう40を過ぎていた。
再就職を望もうとしてもどこも雇ってくれる所なんて無い。結婚はしていない。親族は父だけだった。だが、父はもう70を超えていた。
俺はもう誰にも頼ることが出来なかった。
倒産して4ヶ月
俺に電話が来た。内容はこうだった。
父が亡くなった。
道路で倒れていたのを近所の人が見つけたそうだ。その電話を聞いて、俺はそのとき持っていた一万円を使って、父の元に駆けつけた。
父を見た。泣いたような跡がまだ残っていた。父は死ぬとき泣いたのだろうと思った。理由は分からない。永遠に分からないのだ。
父の葬儀が終わった。俺はもうどうすればいいか分からなかった。40を超え、結婚はしておらず、親族も、もういなくなってしまった。貯金はもう0。
もう・・・何をしたいのか分からなくなった。
気づけば2ヶ月が過ぎていた。ホームレスの生活にも慣れてしまっていた。俺はふいにこう思った。
・・・生きていてもしょうがないんじゃないか・・・
そんな衝動に駆られて俺は我を忘れて走った。
走って
走って
とにかく走って・・・
そして俺はビルの屋上にいた。
目を開ける。
もう思い残すことはない。
この価値のないこの世界からおさらばしよう。
俺は・・もう・・・
・・・もうこの世にいても意味がないのだから・・・
「あの、パンツなんですけど」
という声がしたので、振り返ってみればパンツを手にした女の子がいた。僕は駐車場で身をかがめて探しものをしているところだった……まさにパンツを、いや、せめてトランクスって言ってほしかった。
「ああーすいません、探してたんですよ」僕は照れ隠しに頭をボリボリかきむしった。また癖が出てるな。テンパるといつもこうだ。にしても、見知らぬ男のパンツをよく拾ってくれたもんだ。見るからに人の良さそうな子。パンツさえも輝いてみえる。
「落っことしちゃったんですか?」彼女はアパートを見上げながらにこりと笑った。
「干しているときによく落とすんですよ……日に日にパンツがなくなる」
「まさか今、穿いてないとか?」天使のような笑みで僕の股間をのぞく彼女。
「あ、バレました?」僕は教科書通りの返事をする。
「だと思いました」
「どういうことですか、それ」
あまりに低級な返ししかできない自分に苛立ちながらも、ちょっとした出会いに心が浮き立った。なんて名前の子だろう。年は同じくらいかな……どこの学校だろうか?
「それじゃあ、またパンツ落ちてたら拾っておきます。……パンツだけですけど」
「いや、それ以外もお願いしますよ」
彼女は風のようにふわりと去っていった。……こんなにパンツを連呼した会話を今までに何回しただろう。下着なんて見えないからとお粗末に扱うものじゃない、そう、見えないものこそ大切なんだ。僕はボクサーパンツに穿き替えよう、とひそかに決心した。
考察
松井によって試行されたデート招致を平野は全て断ったが、この結果は過去に平野を対象として行われた全実験についていえるものである(戸川 H21、他)。過去の全実験を見てみると、デート招致の試行回数には2回から12回までのばらつきがあり、その全てにおいて招致成功率が0%であるということは、他の女性を対象とした実験の報告内で多く指摘されている「デート招致回数と招致成功率との間には正の相関があるという法則性」(後藤 H5、他)に従っていない。したがって、平野はデートへのお誘いについては全面的棄却を一般的対応とし、上記の法則性を超越した女性であると考えられる。
また一部の報告では「対象女性が実験者を嫌っている場合、デート招致の試行回数に関わらず招致成功率は0%となる」(内村 H5)、さらに「対象女性が実験者を嫌っているか全く関心を抱いていない場合、デート招致の試行回数を増やすことは実験者に対する対象女性の嫌悪感を増幅させる」(内村 H6,H7)ということが指摘されているが、平野は松井に対して良好な感情を抱いているということが予備調査によって明らかにされており(松井 H22)、また今回の実験における64回という試行回数が、松井に対する平野の嫌悪感を増幅させるとは考えられない。
また、今回を含め、これまでの平野を対象とした実験では、デート招致の内容およびシチュエーションに特別な工夫は施されていなかったが、それらの工夫によってデート招致を成功させた例が、他の女性を対象とした実験報告のなかに存在する(戸川 H22)ため、平野対象の場合でも、上記の工夫を施した上でのデート招致を検討してみる価値はあると考えられる。(次こそは!)
指導教官から
客観的視点に基づかれた論述は評価に値する。しかしながら、本報告でデート招致回数と招致成功率との間に対応関係がみられないことについては詳細な考察がなされておらず、これについては高橋(H9)が次のように指摘した法則性の例外を参考にされたい。すなわち、「対象女性に特定の恋人が存在している場合、招致回数-招致成功率の相関関数における係数は0となる」。この指摘を支持している報告は非常に多い(内村 H8、他)ため、精神的打撃リスク軽減のためには、さらなるデート招致試行の前に、平野における恋人の有無を検証する必要があるといえよう。
評価:可
追伸:現実を見なさい。
(内村)
幸福を形にすればベーコン、その上に乗っている目玉焼き、とろとろのが割れて流れ出す黄身、それをトーストですくってたべる。
塩こしょう少々、ソーセージは茹でてある、マスタードをつけ、かじりついて音がなる。音が響いている。
BGMはビル・エヴァンスがいい、ビレッジバンガードでのライブ版で繊細なピアノの調べがそっと流れていればいい。贅沢は言わない。それほどよいステレオじゃなくてもいい。CDとMDが再生できる、少し前までどこの家にもあったようなコンポでいい。
ヨーグルトには林檎のフルーツソース、に蜂蜜をかけてまぜたの。甘さはひかえめにすればなほよし。薄いカフェオレ、牛乳がたっぷり入っててぬるいぐらいの、熱いのはダメ、猫舌だからすごくぬるくて、出されてすぐに飲まないとつめたくなってしまうようなぬるいの。それをそおっと飲む、音を立てないように。
スコット・ラファロのベースソロがはじまる。相変わらずはねるなあ、とつぶやきたる。なんのこと?とあなたはつぶやく。なんでもないって、とあたしは答える。カフェオレ、もういっぱいいただこうかしら。トーストを食べ終わってしまう。もう少し、お腹が満たされていない。だから、ビスケットを取り出す。特別なものでなくてもいい。ほら、ビスケットがないのならリッツでいいじゃない。なにも乗せなくても十分おいしいから大丈夫、一枚、二枚、食べたらすぐにお腹は満たされていく。見事なり。
太陽が出てくる。どうして太陽は希望とかそういうポジティブなイメージが付いてまわるんだろう。太陽も、辛い時だってあるだろうに。あたしは太陽に同情する。同情するぐらいなら笑ってほしいと太陽は言う。そんなら笑ってあげようか、とあたしは言う。なんなの?とあなたは怪訝そうに聞く。だからなんでもないってほんと気にしないで、とあたしは答える。あたしは忙しいの、あなたにばかりかまっていられないのごめんなさいだけど大好きよ、と思う。胸の奥でつぶやきたる。やさしいあなたはなんにも言わない。
久しぶりに新聞を読もう。世の中のニュースが知りたし。みんなが夢中になっている話題が知りたし。演奏が終わり、拍手が聞こえる。ビル・エヴァンスはかるく手を挙げてそれに応える。次の演奏がはじまる、その少し前の静けさこそ、いとをかし。
いつからだろう。
寝るときは音楽を聴きながらが当たり前になっていた。
音楽を聴きながらでないと眠れない。
音楽が私を夢の世界へと誘ってくれるような気がしていた。
突然眼を覚ました午前2時47分。
イヤホンを外すと、一気に夜の音が流れ込んできた。
──。
頭の中に音が満ちる満ちる満ちる満ちる満ちる音が私を呑み込んで音に私が呑み込まれて音が音が音が音が音が音が音が音が音が音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音──。
イヤホンを付けなおす。
恐怖が私の輪郭をあやふやにする。
私という存在の否定。
音という絶対の肯定。
私は初めて気づかされた。
この世界は音に支配されている。
音に満ちた世界に私の逃げ場はない。
そう思うと、恐怖は怒りに変わった。
こんな曖昧模糊としたモノに世界を支配されて、何事もないように生きていたのか。
世界というのはこんなにも脆く儚く崩れてしまうモノなのか。
ああ、もうなんなんだ。この耳に流れ込んでくる音楽とかいう異形は。
まるで自分は完成しているかのように。
まるで私は未完成とでも言わんばかりに。
壊してやりたい。
この形の無い何かを原型も残らないぐらいに破壊して破壊して破壊してやりたい。
そうだ。そうだそうだそうだそうだそうだそうだそうだそうだ。気づいたぞ。簡単じゃないか。私が音を発すればいいじゃないか。こんな簡単なことに気づかないなんて。よし言うぞ。簡単なことさ。ただ一文字“あ”でもいい“ん”でもいい。たったの一文字で世界はこの支配から解放されるんだ。言うぞ。言うぞ。言うぞ。
「──」
やったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやった。やってやったぞ。私はやったんだ。音を台無しにしてやったんだ。これで音の支配なんて無くなった。私の世界は私のモノだ。私は私だ。私が私私私私私私私私私私私私私。
──。
なんだ今の音は。
ここは私の世界だ。音なんてあるはずないのに。許さない許さない許さない。今の音は私の中から聴こえた。そうここから聴こえたんだ。止めてやる止めてやる止めてやる止めてやる。どうすれば止まる?そう、こうすれば──
世界の終わる音がした。
東京の上空で熱線ぶっ放しながら飛び回っていた俺もついに自由を奪われた。もう熱線ぶっ放すのは時代遅れなんだと。バカ言え、俺は熱線撃ちたくて空飛んでたんじゃねぇ。
「そこらへんがわかってねぇ」
「新入り、その話は十回以上聞いたぞ」
上司のジジイが安煙草の煙を吐く。てめぇこそ禁煙って百回以上言われてるぞ。
胸糞悪くなった俺は『翼竜』の並ぶデッキに逃げた。360度を透明な障壁で囲んでいるここは空を簡単に見渡せる。田園調布上空4500キロメートルは今日も青い。向こうの空には巨大でカラフルな浮島が存在している。高級空宅街だか何だか知らんが、飛ぶ以外の目的で空にいる奴はクズが相場だ。今の俺も含めて。
現代の空は閉じている。なんとか平和条約様のおかげだ。やれパスポートだやれ国境線だやれ領空侵犯だ。何のために俺達はこの空をもう一度青色にしたと思ってんだ。
「これじゃあ昔と同じだろうが」
と、巨大な何かが上空を通り過ぎていく。デッキが影に覆われる。
「貴族の船だな」
ジジイがわかりきってることを言う。
ごぅんごぅんと風情のない音をたてながらガレオン船を真似た意匠の船が進んでいく。
ぼおっとそれを眺めて、届くわけない罵声を放とうとした。瞬間。
船から何かが飛び降りたのが見えた。豆粒みたいなそいつを眼球内のスコープで確認する。女だ。ガキだ。自殺か?
ほぼ反射的に俺は自分の『翼竜』に乗り込んでいた。
「ジジイ! 後で塞げよ!」
それだけ言い残してエンジンを入れる。ドラグーンジャケットが全身を包み込むのと、俺の『翼竜』が一瞬で加速して窓を突き破り空に飛び出すのは同時だった。
風を裂き、落下コースと並び、速度を合わせて、横殴りにキャッチする。
ガキは救命用のシェルタージャケットを着けていた。生存維持装置は無事なようだ。
「遊空するにはちょっと装備がショボいんじゃねぇか?」
ガキは目をぱちくりさせて俺を見ている。
「死にたかったのか?」
「飛びたかったのだけど」
真顔でそう返してきたので思わず苦笑した。
「あれはな、落下するって言うんだよ」
「でもこうでもしないと、今の時代自由に飛べないでしょう?」
不敵な笑顔を見せるガキ。
なんてこった。いい感じでクレイジーだ。
「……今の時代が嫌いか?」
「今の空が嫌いよ」
「こりゃあ運命的だな」
夏の空は雲がでかい。
絶好の領空侵犯日和だ。
「行くか? 自由な空」
「連れてって」
たんぽぽの香りを思い出した。
白い子犬が脳裏に淡く浮かぶ。
下校時の門の外であやしげなおじさんが
ひよこを売っていた。
三日後にはいなくなるあの人だ。
「×××だよ。××××」
何て言ってたかは思いだせない。
夏にはくわがた、春には雑種の子犬なんかも売っていたのだろうか。
子供心にはあやしげさより小動物の誘惑のほうに
心が走らされた。
おいそれと小遣いから買えるわけでもない。
すぐに死ぬ。すぐに。そいつらは。
虎と馬を同時に買ったことなのだ。
みのむしの簑。とかげ。かまきり。
そんなやつらと友達だったんだぜ。思いだせよ。
ドンッ!!!ガゴガー!!
大地が揺れる、大地が割れた。地響き、津波。
曼陀羅が降ってきた。
千の風よりも、万の陀羅尼である。
深い闇と共に夜明けをもってきた。
風が吹き抜ける。緑と青と紫と黒が混ざった風だ。
津波の後には荘厳な菩薩が
地球の直径の四倍の高さに
金、銀、瑪瑙のきらびやかな
命の塔として
地の底からりくぞくと躍り出た。
死者と共に。
死者が生者を照らし、生者が死者を輝かせた。
万年の夜明け。
赤い火灯る
静寂の中にひそめく鼓動
砂塵、舞う
血潮、漲る
波打つ大気
人の火照り
いざ行かん
右、左、頭、腰
あの子とこの子と手を取り合って
回って回って、無数の輪に
可愛いあの子はどこにいるか
かき分けかき分け
心傾くあの人の隣
奪ってもぎ取る我もの、彼の手を
疲れぬ体、彼方の方へ
声を張り上げ、再度謡う
神の宿る火 心灯して 温羅を呼べ 温羅を呼べ
……
夜の校舎を行く。今日も巡回だ。僕はいつもと同じコースを順々に回っていく。最初は、理科室、次に家庭科室、どんどんと教室を回り、体育館を経由し、最後にいつものように図書室の前に立つ。今日も彼女は待っているだろう。一応、礼儀としてドアをノックしてから、僕は中へと入る。
窓際の席に、彼女はいつものように座っている。何をするでもなく、ぼんやりと窓の外を眺めている。窓から差し込む月明かりが、彼女の顔を照らし、彼女の白い肌をより一層映えさせる。机の上には、楕円形の缶がこれもいつものように置かれ、それがとても大切なものであることを示すかのように、綺麗な赤いリボンが巻かれている。
「やぁ」
「こんばんは」
彼女は僕の方を向いてニコリと笑う。
「今日も来たのね」
「仕事だから」
「そうね」
僕は彼女の向かいの席へと、座る。
「今日もやるんだね」
「ええ」
「どうして」
彼女は少し迷ったように考えてから、言う。
「仕事だから」
「なるほど」
僕は彼女が、徐に缶に巻かれたリボンを解くのを眺めている。彼女の一挙一動のあまりの美しさに、僕は息を飲まずにはいられない。そんな僕のことを、見透かしているかのように、彼女は僕の方をちらりと見てはいたずらに笑う。
「じゃあ、開けるよ」
「うん」
彼女が蓋を開けると、缶の中から素早く無数の虫たちが飛び出していく。紙魚だ。彼女は夜の図書室で紙魚を放す。すぐに、紙魚たちは思い思いの方向へと進み、本を貪り始める。暫くの間、薄暗い図書室には、紙魚たちが本を齧る音だけが響き渡る。僕たちはその音に、ただ耳を澄ます。
「何故、ここで虫を放すんだい?」
僕は言う。
「意味なんてものはいらないから」
彼女は言う。
「どういうこと?」
「そのまんま」
彼女は笑う。その笑顔を見ると、僕はもはや、何も言うことができなくなる。彼女が言うからにはそういうことで、それ以上でも以下でもないのだろう。僕はただ頷く。紙魚たちは本を貪り続ける。
「また明日も来るよ」
僕は席を立つ。
「うん」
彼女は言う。
ドアを開け、僕は図書室を後にする。振り返るなど、野暮なことはしない。そこにもう、彼女がいないことはわかっている。紙魚なんてものも、存在はしていない。僕は再び、夜の校舎を一人で行く。わかっていても、明日もここに来てしまうのだろう。そう、仕事だから。僕の耳の奥では、紙魚がじりじりと本を貪るあの音だけが、いつまでも響き続けている。
隣を歩く彼女の吐き出す白い息が、柔らかく闇に溶けていくのを、横目で見ていた。
大晦日の夜の空気はなんとなく厳粛で、かつ浮ついている。日付が変わり、年が明ける。ただそれだけのことなのに、僕や、世界全体が、わくわくして、そわそわして、どうしようもなく落ち着かないのだ。
二人で並んでゆっくり歩く。いつもなら寂しそうに見える人気の無い路地や街灯も、興奮のせいか、なんだか素晴らしい道に思えた。
初詣に行こうと提案したのは彼女だった。僕は驚いて反対した。妊娠七ヶ月目を迎えようとしている彼女は、立ったり座ったりするだけでも一苦労といった様子で、とても初詣に行けるような状態ではなかった。それにもし、人ごみの中で転んでしまったりでもしたら――結局は、半ば彼女に引っ張られるようにしてアパートを出たのだけれど。
「ねえ、私のおばあちゃんがよく言ってたんだけどさ」
彼女の言葉に合わせて白い息が立ち昇り、溶ける。
「神社にある鈴の付いた綱って、神さまのしっぽなんだって」
「しっぽ?」
「そう。鈴を鳴らすと、神さまが気付いてこっちを見てくれるの」
彼女の横顔も、やっぱり何かにわくわくしているように見えた。
「で、普通ならそこで色々願をかけるけど、おばあちゃんがいわくそれは間違いなんだって。ゴーヨクなんだって」
「強欲……」
「おばあちゃんは、昨年は良い年にしていただきありがとうございましたって感謝して、それで終わりにしてるんだって。でも私より、ずっと長く手を合わせてるの」
いいおばあちゃんだなと思った。仕事のこと、子供のこと、その他もろもろ全てを神さまに頼む予定だった僕は、心の中で大いに反省した。
路地を抜けて少し太い道に出る。同じ目的であろう人の姿も増えてきた。神社まで、もう五分もかからないだろう。腕時計を見ると十一時五十分だった。いよいよか、と思う。
「ねえ」
ふいに右手を掴まれた。暖かそうなその手袋は、ささやかなクリスマスパーティーで僕がプレゼントしたものだ。
「私、今、すっごく幸せ」
「――っ」
目を見て言われた。いきなりすぎる攻撃だった。僕は曖昧に笑って、もごもご何か言って、うつむいた。照れくさくて顔なんて見れやしなかった。
でも、伝えなきゃ。世界で一番好きな女の子に。僕も、って、言うだけでいいんだ。
砂利敷きの駐車場を抜け、鳥居をくぐる。
「ねえ」
彼女が嬉しそうにこちらを向く。辰年のしっぽが見えてきた。
べったりとした濃い闇に包まれている。床も壁も天井も、深い闇に隠されてその境目すらわからない。前方に高く小さく窓が見えていることから、奥には壁があるのだろうということは想像が付く。窓はその面積の約半分を三本の太い格子で塞がれている。幽かな光が格子の隙間から斜めに差し込み、塵だか埃だかに散乱されて四本の細い帯を形作っている。淡い光の帯は徐々に薄まって消え、床までは届かない。
一脚の椅子がある。それを椅子と呼んで良いものならば。
座面は固く真っ平な四角い木製の薄板で、色はくすんだ焦茶、薄汚れて疎らに塵が積もっている。座面の一辺から、同色の平板でできた簡素な背凭れが垂直に伸びている。座面の四隅の裏からは、同じく焦茶色の角材が垂直に下へと伸びている。足は四本とも、地へ向かう途中で雑に作り変えられた様に変色し角が落ち、肌色の、人の手首、足首に見えるものへと繋がっている。両手首、両足首はそれぞれ対角の位置に配され、爪先は皆外を向いている。爪は二十枚全て、木板部分と同じ色に毒々しく塗り潰されている。両足先は踵から爪先までをぺたりと床につけ、手先はどちらも五本の指を蜘蛛の足のように曲げ、指先と掌を床につけている。その姿勢のまま、微動だにしない。
私は椅子まであと数歩の距離に立ち、もう随分と長い間ここから動けずにいる。
椅子からは息遣いも鼓動も体温も、そうした生き物が発するどんな気配も感じ取れない。闇の中、不思議とうっすらその姿が浮かんで見えるだけである。これが精巧に作られた、足先まで純木製のただの椅子である可能性は極めて高いだろう、と思う。常識的に考えて。さっさと横を通り過ぎ、先に進むのがいい大人としての真っ当な判断だろう。
しかし、近付いた途端こいつがカサカサと動き出し自分に向かってくるかもしれない。そんな恐怖から、私は一度立ち止まってしまった。そのまま動き出せずにいた。しばらく時が経つと、こいつが酷く孤独な生き物に思われて来た。私が立ち去れば、こいつはこの冷え冷えとした空間で真実独りきりだ。今や我々はこの心地良い孤独を共有している、とまで感じることもある。
感傷の波が引いて我に返ると、椅子の前に立ち続ける自分の姿はただ滑稽なだけである。自ら一歩を踏み出さなければ、この状況は何も変わらない。と、思い続けて、もうどれだけの月日が経ったのかわからない。
わからない。
“命に住所なんてない!”と思いつめた言葉を吐き出したあと、福島から九州へ避難したその友人から、私の携帯にメールが送られてくるのだった。
「最近ね、夕食の前に旦那とワインを飲むの。もちろんお金もないし、ぜんぜん安いワインなんだけどね。1日に1回だけでも、平和を噛みしめる時間ていうのかな――今はそういう儀式みたいなものが、とても大切に思えるの」
「Re:そっか。日常って意味のない儀式の積み重ねみたいなものだしね。でも今の福島には、意味の無いものなんて何もないんだよね。空気にも水にも、真っ赤な夕日にさえ何か意味があるの」
私のダンナは東電の社員だからあの事故からずっとフクイチで戦っていて、その運命の震源地みたいなものが、現実のあれこれを考える上での起点になっていて、
「Re:Re:別に、あんたの旦那に責任があるわけじゃないのにね。あとさ、福島の人間はもっと放射能のこと自覚しろよとか平気でいうけどさ、ある日突然、自分たちがずっと暮らしていた場所に死の灰なんかばらまかれたらさ、誰だって迷子になるでしょ」
まるで右も左も分からない、赤ん坊みたいなものかもね。
「Re:Re:Re:じつはね、私今妊娠してるの。でも福島で子どもを産むなんて、正気じゃないよね。でも私、産みたいと思っている」
別にダンナがフクイチで戦っているからとか、そういう義務感に囚われている訳じゃないの。
「私ね、今この場所でちゃんと生きてるんだってことを誰かに証明したい。ここには以前と変わらない家族の顔がならんでいて、ここにはちゃんと体温を持った人間がいて、毎日泣いたり笑ったりしているんだってことを誰かに伝えたい」
それから何週間も待ったけれど、九州の友人から返信はなかった。私はたぶん狂っているのだろう。現実が見えていないのだろう。
“こんなママでごめんね。だけど君はなぜ私のお腹をえらんだの? 私でなきゃいけない理由が、君にはあるのね”
私のダンナはたまに休暇をもらって、フクイチの現場から60kmほど離れた避難先のアパートに帰ってくる。彼はとくに疲れた素振りは見せないけれど、少しだけ若白髪の数が増えたような気がした。
“二兎追うものは一兎も得ず”
彼は私の膨らんだお腹に手を当てながら呪文を唱える。
“底辺×高さ÷2”
それ何の呪文なの?
“三角形の面積”
ピンポーン。宅配便だ。
九州に避難してる友人から、野菜や米がどっさり届いた。
遠くぎざぎざ命の近く。
影絵だとしても。
まぶしさにめをつぶってしまっても。
いち、にい、さん、しい、ごお、ろく、なな、はち、きゅう、じゅう。
少女達は大きく声を出して元気よく立ち上がる。
母は女の子が大好きで、おなかを痛めて一人で十人の娘を産んだ。野球チームが出来てひとりあまる。
(影絵としての十字路。教会でみんな引き裂かれて。ステンドグラス見えなくなって)
だから少女は誰にも知られずに、ひとり、アスファルトに立ち、おおかみのマスクを被った。
「おなかのお肉が大好きさ。人が捨ててしまうものが大好きさ」
ひとにはならない。
やみにかくれていきる。
影絵、コズミックブルースを歌う。
「おなかのお肉が大好きさ。フィストファックが大好きさ。命の、命の近くさ。鼓動を、感じているのさ」
おんなのこにこんなことやられてこうふんしてるんだろ? かんじてるんだろ? いきそうなんだろ? ほらいっちゃえよ、ひじまではいってるよ。
うたはうわすべりしてしまう。
かんかくはうわすべりしてしまう。
くちをもぐもぐとうごかす。
夏に滴り落ちるアスファルトに蒸発する命の味。
いのちがとおりすぎてしまう。
「そりゃあそうさね。おまえが食べた命はゴムの塊だからね」
「本当だ」
全ての、全てのすべての、世界中全ての、おまえの、すべてのモニターに映し出されるゴムの分子式。
「本当だ」
少女は泣き出してしまった。そして急いで口からゴムの塊を取り出し、ジャムで真っ赤な唇を噛みしめながら、ゴムの塊を、倒れているゴム人間のおなかに集めてもどす。
「泣かないで。泣かないで。僕のおなかは大丈夫だから。だから泣かないで」
ゴム人間の歌はとてもうまかった。少女はもっと泣いた。ゴム人間の歌はとてもうまかった。
なぜならば、ゴム人間の歌は、すりきれたカセットテープだったから。
少女は泣き続けた。
野球は結局十人制に戻った。十人揃ってビルの屋上に立つ。
ヒムル・イルソンズ。アータバーヤ。ボッデガ・ヴェネガ。ショーターコター。ひらひら。ぎざぎざ。ちくちく。やわらか。色鮮やかなユニフォームを身にまとって。
まっすぐに拍手喝さい。スポットライト。少女たちは歩き続け、ビルの屋上から落ちていく。そう、それが十秒後の世界。そして再び十秒後の世界。
そりゃあそうさね。
なぜならば。
なぜなら、おんなはおんなになるのではなく、おんなにうまれるのだから。
永い旅が、今、終わるのだ。
ぱんぱんに膨れ蜂蜜色の光沢を見せる満月の光が、雄大な砂の海の波間をマーブル状に照らす。ひっそりとした夜。一艘の白亜の客船が無音の中、地平線を目指して進んでいる。砂をかき分けて、目的地もなくただ泳いでいる。絢爛豪華な照明がデッキに灯り、マストの上では万国旗が靡いている。その足元で形を失った紳士淑女の祝杯が上がる。
「目指せ、新世界へ」
そう彼方を指差すのは、かつて一国の主として、人種の壁を打破り、先進国に変革をもたらした男。
「我らが果敢なる旅路は今宵ようやく終着点へと辿り着きますぞ」
そう語るのはかつて世界を一周し、地理のすべてを網羅する地図を作り上げた男。
「長かった。この幾千の時よ」
胸に手を当てるのは、平和をスローガンに世界を束ねる同盟機構を築いた男。
「さよなら、母なる星の、故郷の、すべての家族たち……」
拝礼のポーズをするのは、飢餓や病気の子どもたちを救うことに命を捧げた女。
空気の詰まったボトルを開け、誰とも構わずグラスに注ぐ。注がれた者は一心にそれを飲み干し、悦びに酩酊する。チューニングが終わった弦楽団(オーケストゥラ)が演奏を始める。デッキ上の円舞曲(ワルツ)。ドレスを振り、回る淑女。それをエスコートする紳士。
彼らを乗せた客船の舳先が示すその先に、小高い砂丘が立ちはだかっている。その向こうにそれは広がっていた。世界を包む青闇はそこで途切れ、燃える様な紅蓮の空とのグラデーションが始まる。南はすでに夜明けだ。砂丘を越えれば煉獄の燈火。旧時代の終焉と新時代の幕開け。紳士淑女の歓声が上がる。グラスをかち鳴らすリズム。スタンディング・オベーション。円舞曲に重なるは高貴な海賊たちの唄。
客船は砂丘を越える。時の重みが染み込んだ、黒と銀の砂を掻き分け、地平を超えていく。
金に映える月の砂漠を背に丘の頂に乗り上げた客船は、火星の風の如き、灼熱の波動を浴びた。眼前には紅蓮の砂漠。オアシスのない旧時代と変わらぬ風景。だが一つ、そこを新時代と呼べる所以は、地平線から覗く今にも爆発しそうなほど膨張した太陽の大きな顔と、プロミネンスの陰に見える屑と化した水星と金星の名残、星の兄弟。そして今、この星も漸く眠りに着くのだ。墓標さえ残っていない、砂の墓場を成したまま。
文明は消え、生命は消え、海は砂地と化し、幻影だけが踊るばかりのこの星の、末期の夜に、乾杯。