第111期 #12

陥る

 べったりとした濃い闇に包まれている。床も壁も天井も、深い闇に隠されてその境目すらわからない。前方に高く小さく窓が見えていることから、奥には壁があるのだろうということは想像が付く。窓はその面積の約半分を三本の太い格子で塞がれている。幽かな光が格子の隙間から斜めに差し込み、塵だか埃だかに散乱されて四本の細い帯を形作っている。淡い光の帯は徐々に薄まって消え、床までは届かない。

 一脚の椅子がある。それを椅子と呼んで良いものならば。
 座面は固く真っ平な四角い木製の薄板で、色はくすんだ焦茶、薄汚れて疎らに塵が積もっている。座面の一辺から、同色の平板でできた簡素な背凭れが垂直に伸びている。座面の四隅の裏からは、同じく焦茶色の角材が垂直に下へと伸びている。足は四本とも、地へ向かう途中で雑に作り変えられた様に変色し角が落ち、肌色の、人の手首、足首に見えるものへと繋がっている。両手首、両足首はそれぞれ対角の位置に配され、爪先は皆外を向いている。爪は二十枚全て、木板部分と同じ色に毒々しく塗り潰されている。両足先は踵から爪先までをぺたりと床につけ、手先はどちらも五本の指を蜘蛛の足のように曲げ、指先と掌を床につけている。その姿勢のまま、微動だにしない。

 私は椅子まであと数歩の距離に立ち、もう随分と長い間ここから動けずにいる。
 椅子からは息遣いも鼓動も体温も、そうした生き物が発するどんな気配も感じ取れない。闇の中、不思議とうっすらその姿が浮かんで見えるだけである。これが精巧に作られた、足先まで純木製のただの椅子である可能性は極めて高いだろう、と思う。常識的に考えて。さっさと横を通り過ぎ、先に進むのがいい大人としての真っ当な判断だろう。
 しかし、近付いた途端こいつがカサカサと動き出し自分に向かってくるかもしれない。そんな恐怖から、私は一度立ち止まってしまった。そのまま動き出せずにいた。しばらく時が経つと、こいつが酷く孤独な生き物に思われて来た。私が立ち去れば、こいつはこの冷え冷えとした空間で真実独りきりだ。今や我々はこの心地良い孤独を共有している、とまで感じることもある。

 感傷の波が引いて我に返ると、椅子の前に立ち続ける自分の姿はただ滑稽なだけである。自ら一歩を踏み出さなければ、この状況は何も変わらない。と、思い続けて、もうどれだけの月日が経ったのかわからない。
 わからない。



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