第110期 #7
その人は、私が物心ついた頃からそばにいた。
私はその人の名前を知らなかった。尋ねても、その人は首をかしげて苦笑するばかりだった。
その人は口髭を生やした、中年にさしかかったぐらいの男の人で、私の親戚かどうかはわからなかったけれど、ずっと近所に住んでいた。
不思議だったのは、私が小学校に上がる頃、遠く離れた町に引っ越した時でも、彼はまたいつの間にか私のそばにいたことだ。しかしそんなことがあっても私は、気持ちが悪いという感覚をなぜだか持つことはなかった。
彼が私のそばにいることはとても自然なことだったので、私は一度、彼は幽霊なのではないかと疑ったことがある。しかし夢や幻想と決めつけるには、あまりにも彼の手はぎっしりとしていて、あたたかかった。
彼がそばにいて私を見守ってくれるのは、もはや当たり前のようになっていた。彼は私だけのあしながおじさんだった。
あしながおじさんとは言えど、私が高校生ぐらいの時には彼はもう口髭も無く、むしろ若返っているようにも見えた。もはや中年ではなく青年の彼は次第に私といる時間も少なくなり、忙しそうに仕事に打ち込んでいた。
いつしか彼とは疎遠になってしまっていたが、大学生になったある時、道端で名前を呼ばれた。彼の声だとは思ったが、なんだか幼く聞こえた気もした。振り向くと、私より背の低い少年が立っていた。にっこりと笑ったその表情には、たしかに見覚えがあった。
彼はどんどん幼くなっていくようだった。私は、彼は何かの病気なのではないかと考えた。彼は「病気かもしれないね」と言った。さらに「でも、僕にはみんなの方こそ若返っているように見える」とも言った。
私が社会人になってしばらくすると、少年の彼はどこかへ消えてしまった。私は手がかりもないままずっと彼を探した。私は彼に恋をしているのだろうか。それともいつかのように、そばにいて見守ってほしいのだろうか。
それからまた時は経ち、彼を探すのを諦めかけていた頃、私はいずれ夫となる人と出会った。その人は彼にそっくりで、しかし彼とは違う魅力もあった。
遅い結婚と遅い妊娠だった。危ぶまれた出産も無事に済み、元気な男の子が産まれた。私は夫と、息子を祝福し名前を付けた。
次の日、息子はいなくなっていた。その時私は、ずっと聞けなかったあしながおじさんの名前を知った。私は過去に進む彼を思い、泣いた。