第110期 #6

二人だけの水

ランドセルの中で筆箱が踊る。

「健ちゃん! 待ってったらー! そんなに急いでどうするのよ!」
「ほらいそいで! 貯水池まで競走だ!」
「待って! 待ってったらー!」

二人だけの秘密の場所。学校が終わると毎日その貯水池に向かう。もちろん、入り口には「立ち入り禁止」の札が下がってる。でも金網の一部が外れてて、子供一人がなんとか入れる隙間があるんだ。

「真里、いそいで!」

真里を先に行かせる。真里の体を押そうとした時、近づいた真里の体から不思議な、いい匂いがした。

「健ちゃん、かくれんぼしようよ!」
「かくれんぼ? そんなの、面白くないよ、二人でやったらすぐに終わっちゃうだろう?」
「じゃあ、新しいかくれんぼ。二人で鬼をやって、二人で隠れるの。どう?」
「はあ? それのどこが面白いんだよ?」
「いいからいいから! ほら、やるわよ!」

真里は今日、何だかおかしい。

でもだんだんかくれんぼが楽しくなってきた。「ここだ!」って言って地面に転がってた木をひっくり返すと、カエルが飛び出してきて、二人で大笑いした。

今度は二人で隠れる番。池の側に横になる。水が流れ落ちるように地面が斜めになっていたので、落ちていかないように、真里の手を取る。空が見える。

「健ちゃん、もうちょっと近くに行ってもいい? 滑っちゃう。」
「うん、いいよ。」

ほとんど真里を抱き締める形になった。

「あのね健ちゃん、私ね、新しいお父さんができるの。新しい名前になるんだって。」

新しいお父さん? 名前が変わる?

「私の名前が変わっても、これまでと同じように遊んでくれる?」
「当たり前じゃないか。どうしてそんなこと聞くんだよ?」
「ありがとう。健ちゃん。私、本当にここが好きなのよ。」

真里が少し体を伸ばして、俺の口に自分の唇を重ねた。
どれくらい唇を重ねていたのかは分からない。世界の全てはその貯水池にあって、そこには俺達二人しかいなかった。

「明日もまたここに来るって約束してくれる?」
「いいよ。明日も来よう。約束だ。」

しかし約束は果たせなかった。次の日に登校した時にはもう、真里は消えていた

「山瀬さんは、ご両親のご都合で急に転校することになってしまいました。みんなで寄せ書きを書いて送ってあげましょう。」

寄せ書きには何も書かなかった。貯水池にも二度と行かなかった。

そして真里としか、あの貯水池には行けないのだと俺が知ったのは、それよりずっと後のことだった。



Copyright © 2011 青井鳥人(あおい とりひと) / 編集: 短編