第110期 #5

ナマステ・インディア

 始まりは、些細な変化だった。ある日を境に、駅に見知らぬ国の人々が増え、異国の言葉が飛び交うようになった。仕事帰り、その光景を不思議に思いぼんやり眺めていると、通り過がりの婆さんが僕に言った。
「あれはインド人だよ。遂に来たのさ」
 それからの変化は、実に劇的だった。何の変哲もない郊外のベッドタウンだったこの町に、インド人たちは急激に増え続け、気が付けばどこを見渡してもインド人という有り様になった。また、どこから連れてきたのか牛も野放しにされ、道路を悠然と闊歩するようになり車で移動するにも一苦労となった。近所の農家の旦那は地団駄を踏みながら言った。
「あれはうちの牛だ。インド人たちが勝手に逃がしやがった。あいつら、数が多くてこっちは太刀打ちできねえんだ」
 町中がターメリックの匂いに包まれ、風がサフランの色を帯びるようになると、我々原住民は遂に徒党を組んだ。インド人対抗戦線の誕生である。我々はあらゆる手(町中の香辛料に大量の砂糖を混ぜたり、牛肉加工センターを町のど真ん中に誘致することを計画したり)を使い、インド人の侵攻を防ごうと躍起になった。
 しかし、その頃になるとこの奇妙な現象をマスコミが面白おかしく取り上げるようになり、この町はインドタウンとして大々的に有名になるに至った。すると、インドに魅せられた若者たちが多く詰め掛け、町には安宿が軒を連ねるようになった。その安宿には、バックパッカーもどきの浮浪者や、時代遅れのヒッピーが集まり、LSDを貪るようになる。更には、その薬を食い物にした密売人が集まり、彼らは自分たちの縄張りを脅かす我々インド人対抗戦線に対し、警鐘を鳴らすようになった。
 そして、第五十九回の定例会議でついにインド人対抗戦線リーダーである元町長は宣言した。
「我々の完敗だ、インド人にこの街を明け渡そう……」
 こうして、我々はインド人に敗北したのであった。それはインド人達の侵攻からわずか、一年ほどの出来事であった。
 町を去る日、変わりきった町を前に我々は肩を落とし、お互いに慰めあった。そんな我々の元に何も知らないインド人の少女が一人、近付いてきた。咄嗟に身構えるインド人対抗戦線。しかし、その少女は我々の行動と反して、満面の笑みを浮かべるとこう一言、言い放ったのであった。
「ナマステ・インディア!」
 嗚呼、そんな馬鹿な話があるか。決してここはインドなどではないのだ。



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