第109期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 焚火を囲んで 桜京時雨 353
2 お変わりありませんね きたに 567
3 女、へそを曲げる 香塔 ひより 611
4 マルボロの夜 藤沢 999
5 プラットホームで。 天海 苺 997
6 正木 伊藤 知得 654
7 Good-bye, Daddy 青井鳥人(あおい とりひと) 997
8 人生チェンジライフ ソラ 267
9 - 金武宗基 130
10 減点方式 伊吹羊迷 992
11 メメント・モリ 霧野楢人 990
12 死より恐るべき えぬじぃ 1000
13 ボウフラ しろくま 300
14 パイプ椅子の消滅 なゆら 845
15 教科書 ロロ=キタカ 658
16 ゆがみそ うころもち 615
17 『青のサーカス』 吉川楡井 1000

#1

焚火を囲んで

深夜コンビニで、20代後半のベージュスーツが似合う美人な女性と30代くらいの渋めの金持ちそうな男がなぞなぞの話をしていた。

「かけてはいいけど、割っては駄目なものは?」という問いの話だった。
女性は「眼鏡」と言い、男性は「数字の0」と言っていた。
両方ともあってるような。

多分、昔、女性はアルバイトで眼鏡屋の看板娘で、男性は優秀な学生だったのかな〜と思いつつ、答えが知りたく立ち読みをしていた。
やがてお互い口論になってしまい、答えがわからないまま時間が過ぎた。話をもっと聞きたかったが、僕はお腹が痛くなりトイレのため自宅に戻った。

トイレで『昔から所々で部族が焚き火を囲んで冒険談を話してきた、それが映画や本のストーリーに発展した』と本に書いてあった。
小説を書き始める出来事としては良い物語だと思い書き始めてみた。


#2

お変わりありませんね

近々、我が家の近くにビルが建設されるらしい。
妻はつまらない顔をしながら、洗濯物を干している。かくいう俺はつまらない本に目を奪われ、日曜日を終えようとしている。夕方になればうるさい足音が聞こえてくる。昨日の夕飯がどうの、今日の夕飯が不満だの、娘は叫ぶ。
黙ってアジの開きをつつけよ。

ビルが建つ頃にはテレビの映りが悪くなるんだろうか。アナログテレビが映らなくなるのは知っているが、わざわざ変えるまでもない。電波の入りが悪いなら、いっそのこと捨ててしまえばいい。娘は叫ぶだろうが。
翌日、つまらない顔でネクタイをいじる。鏡の中の顔には張りがない。艶もないが、額のテカリはひどい。妻の朝食の味付けが荒々しくなって食べられたもんじゃないと、こういうとき娘は言ってくれやしない。外に出て電車に乗れば一日はあっという間。会社が俺の時間を吸い取ってくれる。

時を追ってビルが建った。電車に乗る手間は省けたが、テレビは映らなくなった。娘は叫び文句を言いながら、妻はつまらない顔のまま朝食を作る。俺はただ外に出て、表通りのビルに吸い込まれるだけ。
女子社員はうまく笑って言う。
「家が近くなって係長はいいですよね〜」
課長はいじらしく笑って言う。
「今度何かあったら君に頼もうかな。・・・おいおい、冗談だよ」
俺は家に向かって言う。
「なんら変わらんよ。いつも外見だけだ」


#3

女、へそを曲げる

研二の部屋に泊まるのは三度目くらいで、私もだいぶ男の部屋という空間に慣れて来ていた。それでも予想もつかない場所からマニアックな本が出てきたりしたら困るので、私は置物みたいに正座でじっとして動かない。
「なんか固いな」
とか言って、研二は私の頬や太ももを突つく。
「柔らかいでしょ」
私が挑発的に言うと、「いや、表情のはなしだからな」とか研二は真面目に答える。その天然のノリの悪さに私のほうは冷めてしまう。
「お風呂貸して」と私は言う。
「ああ、いいぜ」と研二は応える。
とりあえず、暖を取らないと。

お風呂から上がって冷凍庫を探ると、抹茶アイスが見当たらない。
「私の抹茶アイスは?」
「ああ、食べた」
せっかく今日のために買ってきたのに。私は本気でキレそうになるけれど怒りを爆発の寸前で静める。
「夜にあんなの食うと眠れないぞ」
だから、……眠らないために買ったのに。
私はいつも研二よりも早く寝てしまって、朝起きると額に変な落書きを落書をされたりと悪戯をうける。それがくやしくてくやしくて。この怒りのエネルギーで今日は研二よりも遅寝をしてやるぞ、と私は拳を握る。

結果から言うと、私はどうやら研二よりも先に眠ってしまったらしい。でも何も落書きとか悪戯されてなくて、テーブルに抹茶アイスと小さな紙が置いてあった。
「ちょっと出かける、それでも食べとけ」とぶっきらぼうな文字。
ほんのり甘くちょっぴり憎い。アイスのはなしですか? いいえ、研二のはなしです。


#4

マルボロの夜

 僕、いや、私はコーヒーの湯気を眺めながら考えた。彼女はとても美しく綺麗だ。それだけであろうか。私はコーヒーを一口啜って心を静めた。本当にそれだけである。自分が一番分かっている。彼女がとても美しく綺麗であるというだけである。それだけのことで私はここまで追い詰められてしまったのだ。振り返れば一目瞭然である。私の背後にはぐしゃぐしゃになって散乱した書きかけのレターセット、そして、その中に吊るされたロープが一本。私は今にも傷だらけの体をそのロープにゆらゆらとゆだねてしまいそうである。私はコーヒーを啜って部屋を眺めた。こうなってしまったきっかけは何だったろうか。そもそも私と彼女は全くの無縁で、言わば、赤の他人なのである。互いの名前や住所などはもちろん何も知らず、私が立ち寄る本屋や喫茶店で彼女をよく見かけるので互いに顔を覚え、なんとなく会釈をする、その程度である。彼女はいつも誰かと一緒だった。ある時、彼女が友人と楽しそうに会話をしている様子を見ていた。次の瞬間に湧き起こった自分の気持ちに驚いた。私は「死にたい」と思ったのだ。死にたい死にたい死にたい。死にたい死にたい死にたい。頭の中で「死にたい」という言葉が何度も何度も呟かれていた。
 私は椅子の乗り、部屋のロープに首を引っ掛け、マルボロに火を点けた。じりじりと煙を上げる。煙と一緒に「死にたい死にたい」とぶつぶつ呟いてみた。ただそれだけで心が救われていく気がした。手首の傷を見た。血が滲んでいる。今にも破綻しそうな私の心にとって、死は温かすぎる。枯れた廃墟に雨が降るかのように、私の心は哀しみで潤っていく。心が暗く青く潤っていくことに快感を覚えるほど、私にとって哀しみは優しかった。人間とはなかなか単純な生き物らしい。「ただそれだけ」と思えるようなことで、死にたくなったり、救われたり、なんと単純で馬鹿らしく愚かな生き物だろう。マルボロの煙を吐いたとき、一瞬、彼女の顔が頭に浮かんだ。私という人間はなんと汚い存在なのだろうか、私は椅子を蹴った。ぐっと首に体重がかかる。意識が、遠のく。何枚もの写真を見ているかのように彼女の笑顔が頭に映る。あぁ……そうか。本当に単純なことだったのだ。ただ一言、たった一言だけでも、話をしてみたかっただけ。ただそれだけだったのかもしれない。そう思ったとき、私の頬は緩み、口からマルボロが音もたてずに落ちていった。


#5

プラットホームで。

窓の外の風景が見慣れたものに変わった。
それとともに、車内アナウンスからいつもの名前が流れた。
私は広げていた荷物をまとめ、足早に電車を降りた。
塾にいくのは憂鬱。
まぁ、私が宿題を駅になんて忘れていくからいけないんだけど…。

「嘘…」
駅のベンチには、昨日置き忘れたはずの宿題がやってある状態でおいてあった。
「なんで…」
一か八かで提出。全問正解で帰ってきた。…おかしい。
今日でた宿題も、同じベンチに置いて帰った。
翌日、宿題はやってあった。全問正解。
幽霊?怪奇現象?いやいやまさか。
私は次の日また宿題を置いて、こっそり見ていた。
宿題を手に取る人が。角度的に顔は見えないけど、男子中学生?らしき人。
私の問題をすらすらと解き、元の場所へ戻した。
「あのっ!!」
私の声に、その人はびくっと驚いた。
結構、美形。
第一印象はそれに尽きた。
「なんで私のを…?」
「なんで、って、いいじゃん。全問正解だし、君がやるより出来はいい」
あぁ、そっか、と納得しかけてやめた。今のって嫌味だ。
「馬鹿の研究してるの。俺」
「失礼じゃない?面と向かって、馬鹿、って」
「失礼じゃない、事実だ」
「それ、失礼っていうの」
「馬鹿は心も狭いんだね」
すこしは礼儀ってものをわきまえてほしい。天才は育ちが悪いんだろうか。
「私のこと研究していいから、勉強教えて」
なんでこんなことを言ったのかわからないけど、口走ってしまった。
「はぁ?」
「いいじゃん。交換条件」
「…名前は?」
「水木香」
「俺は篠原薫。奇しくも同じ名前か」
「くし…何?」
「やっぱやめた。馬鹿は疲れる」
そういいながらも笑いながら手元のノートに
「水木かおる」と書いた。

「あんたってほんとに馬鹿でしょ」
大量の宿題を前に、出会った駅のプラットホームでわいわい。
薫はあきれてものも言えないというようにため息をついた。
『短期。稀に見る馬鹿。理解不能』
とノートに書き込んだ。
「なっ…」
「ん?事実じゃない?」
むっとしながらも、楽しかった。薫も楽しんでいた。
(私をいじめることに?)
でも楽しかったことに気づいたのは、彼と会わなくなって少ししてからだった。

「やった」
59点。決して良い点じゃないけど、赤点は免れた。
お母さんには「塾のおかげね」って言われたけど…。
シャクだけど、多分薫のおかげ。
ふぅ、とため息をついて電車に乗った時、外のベンチには…彼。
私はテストを広げて見せた。
電車の窓越しに、彼がほほえんだのが見えた。


#6

正木

高校の友人達と久々に再会し、思い出話をつまみにビールを飲んでいる僕を尻目に


正木は隅っこで寝ている。



正木とは高校からの友人で(ここにいる奴は全員高校の同級生)、物静かなタイプである。
どこか不思議な雰囲気をもった男で、口数が少ないが喋れば、みんな正木の言葉に耳を傾けた。

文にすると、言うわゆる「臭い」という感触はあるのだが、
間がいいのだろう。喋るタイミング、声質(トーン)、雰囲気でその臭みを一蹴するセンスがある。


しかし、それを誇張するわけでもない所が正木の人気でもあった。


夜も更け、深夜一時。その正木の話になった。

「正木に将来で悩んでたらこう言うわれたよ。
”君は頭が良くはないのかもしれないが、みんなを和ませることができる。和ませる仕事はいいよ。きっと君はもっと和やかになれる。”ってね。」

「オレは結婚式のスピーチで”君は静かで、面白みにかけるかもしれない。しかし裏切らない男だ。隣の女性は退屈するかもしれないが、不安になることはない。それは幸せの絶対条件だ”ってね」


「なんだよ。相変わらず、くせーなー笑」

「お前結婚するんだろ?正木にスピーチしてもらえ」

僕は頷き正木にお願いすることにした。



正木は隅っこで寝ている。

僕は正木の近くに行き、「おい。正木」と声をかける。

「僕にもみんなの様にアドバイスくれよ。」

正木は無言で、起きる気配がない。

「今度結婚するんだ。スピーチしてくれよ」

正木は無言で、体一つ動かさない。






正木は隅っこで寝ている。
白い布を顔にかぶせて。


僕は正木の言葉を待っている。あの臭いセリフを待っている。


#7

Good-bye, Daddy

「棺の中に、正彦の絵を入れてくれ。」
親父の遺した遺言書の中に、そう書かれてあったと、母ちゃんから聞いた時、俺は、何て言うか、ひどく奇妙な感じがした。

「遺言書」と言っても、弁護士が代理で預かって、ダイヤル式の金庫にしまっておくような、大そうな物ではなく、新聞の折り込みのチラシの裏に、ボールペンで走り書きしただけの、一見したら夕飯の買い物のリストと間違われてしまいそうな、そんな物だった。
チラシの裏面は、ツルツルと滑って、ボールペンでは字が書きづらかったのか、「棺」という字がどうしても正彦には「根」という字に見えた。

親父。あんた、俺の絵なんて見たこともなかったろう? 売れっ子の画家ならまだしも、ろくな仕事にも就かずに、細々と描いてきた俺の絵を、あんたには見せたこともない筈だ。それなのに、何でだ? いきなり死んでおいて、絵も一緒に燃やせとは、どういう了見だ?

「父さんはね、あんたには才能があるって、ずっと言い続けてたんだよ。」
「そんなこと言ったって、親父は俺の絵なんて、見たこともなかっただろ?」
「見なくても分かるって、自分の息子の描くものが、見なくても見えるって、そう言ってたわ。」

何だそりゃ? おい、親父。何でもお見通しだったって訳かい? 所詮自分の息子は、自分を越えない「範囲」の中で生きてる。そう思ってたって訳かい?

あんたはいつもそうだった。したり顔で、俺が何をやらかしても決して叱らなかった。そういうのが、俺は本当に嫌だったんだよ。だから俺は逃げたんだ。あんたから逃げた。残念なのは、あんたが死ね間際に、枕元でそのことを言えなかったことさ。「あんたが嫌いだった」ってね。

「正彦、ほら、これ父さんの引き出しから出てきたのよ。」

母ちゃんが一枚のファイルケースを差し出した。そこには、俺が小学校の時に授業で描いた、一枚の絵が挟んであった。絵の中には、森の中を進む、一艘の船が描かれている。裏面には「想像で描きました」と走り書きがしてある。よく見ると、その走り書きの横に、違う字で何か書かれている。

「感性よ、永遠に。」

親父の字だ。遺言書と同じ、ミミズが並んでるような汚い字。畜生。何だよ…。
ポタポタと落ちた涙が、絵の上に落ちて、描かれた船に海を与えた。

火葬場の煙突からもくもくと出る、黒い煙を、俺は少し離れた場所から眺めている。親父は、俺の描いた、森を走る船に乗って、三途の川を渡れるかな。


#8

人生チェンジライフ

ここは○○中学校。俺は普通の中1。名前はソラ。 今は夏休みで、毎日勉強と部活の日々を送っている。

kawa:「よう、ソラ!」
今話しかけてきたこいつはkawa。俺の友でありライバルでもある。
おっと、言い忘れたが俺は陸上部で、kawaとは100mのライバルだ。
自己新記録は12.32秒。
kawaは12.43秒。
ほぼ同タイムの俺たちは他のことでも競っている。


だけど…

…そんな日々を送れていたのは夏休みまでだった。

俺がkawaと部活に行っている途中。時間がなくて、こいでいる自転車に力を入れる。 少し大きな坂道にさしかかった時、
事件は起きた!!


#9

-

花は訴えていた。すぐに枯れる花びらで。

「ミテキテアイシテ」

月は語った。 おぼろげな光で。

「コチラノミチガスグレタリ」


花は女の愛を教えた。
月は男の賢さを教えた。



蓮の花は実と種を持っているので
愛とかなんとか言わなかった。

太陽は道とかなんとか言わなかった。


#10

減点方式

 都会の交差点。前を歩く若者二人の、鳥のような頭をした方が、吸っていた煙草を投げ捨て、倒れた。それを見た周りの人々が一斉に足を止め、携帯電話を取り出す。恐らく電話先は警察だろう。

 進歩し続ける文明を自らで制御できなくなった人類は、自分達を自分達の作った機械に統治させる事にした。出生時に施される予防注射と一緒に、体にミクロのチップが埋め込まれる。「良くない行為」をする度、その大きさに応じて内部でポイントが減点、〇になれば"裁かれる"。抑制効果は抜群だった。犯罪は激減し、人間関係のトラブルなどというものは消え去った。もうずっと前のことだ。
 どこかに電話をかけていた人々が、思い思いの方角へと散っていく。人が倒れたのに放っておけば、自分も減点される恐れがある。
 チップは全ての人に埋め込まれているわけではないらしい。あくまでも噂だ。コストがかかるし、なにより恐怖を植えつけることが目的なので、百パーセントにする必要はないと。「自分は大丈夫」と思い込んでいた者が死ぬ。よくある話だった。慣れているはずだった。
 突然に仲間を失ったもう一人の若者が、必死に遺骸を揺さぶっている。狂ったように呼びかける声は裏返り、涙やら鼻水やらがとめどなく溢れている。

 その純粋な慟哭が、私の何かを燃え上がらせた。

「おい!」
大きな声がした。私の声だった。所謂中年の私に、こんな声が出せるとは思っていなかった。散りかけていた人々が、ビクッとしてこちらを振り返る。
「こんな……こんなのおかしいだろう! 機械なんぞに人の生死を弄ばれて!」
 私は怒っていた。まとまらない思考と言葉と怒りが、沸騰した湯のように湧き出る。これまで何にぶつけたらいいか分からなかった、積もり積もった不条理への怒り。ああ、私はこんなにも怒れたのか。わけのわからない力に突き動かされ、何か大きなものに向かって吐き出す。視界が滲む。空に吼える。
「間違ってる! 間違ってるだろうこんなもの! クソッ! こんな……こんな……クソッ! 誰も……誰もおかしいと思わないのか! 思ってるんだろ心の中じゃ! 言ってみろ! 言えよほら! ほ
 
 閃光が見える思考が爆ぜるビルが赤い世界が回転する。膝と地面とがぶつかる音。頬にコンクリートの感触。寒い。そうか、自分も――

 立ち向かうことすら、許されないのか。

 閉じていく視界の端に、無表情ででんわをとりだすひとが


#11

メメント・モリ

 「死が怖いか」
 そう尋ねられている気がして、私は周囲を見渡した。曇天の下に枝葉が幾重にも重なって林冠は高く、林床の深い藪は1m先すらも見通せない。私が足を浸からせている川の、不気味なほどに澄んだせせらぎを除けば、風の音すら聞こえない。
 「死が怖いか」
 そう尋ねたのは私自身であるという事に気がついた。私の鼓動が、異常に猛々しく胸を掻きまわしていたのだ。私は初めて、自分が「どこにいるのか分からない」のだと思った。
 私は真っ黒なスーツを着ていた。他には何も持っていなかった。なるがままに流れながら生き、社会に出てなお働くように働いた男の、なれの果ての姿だった。そうしていれば迷子になどならないと思っていた。だが、手を伸ばしたこともない希望や可能性の類が刻一刻と失われていくことに気付いた時、自分にはもう、此処に続く道しか残されていないのだと悟った。死へつながる道には、もはや迷子など存在し得なかった。
 なのに、なぜ私は今、「どこにいるのかわからない」のだろう。
 私は茫然と立ち尽くした。どのくらい歩いてきたのか、どうやってここに来たのか、私はどこまで歩くつもりでいたのだろうか。
 がぶり、という鋭い痛みを頭部に覚えて、思わず私は手をやった。掴んだものは、大きなアブだった。いつの間にか、その大群が押し寄せて、あたりは俄然騒々しい音に満ちていた。
 私は走り始めた。奥へ、奥へ。水しぶきを上げて、何度も転んだ。すぐに息が切れ、その度に立ち止まっては腕を振り回してアブを払った。段々と、私の口からは嗚咽が洩れ始める。鬱陶しくてかなわない。 全身が痛痒さに悲鳴を上げるようだ。
 不意に嗚咽が止まった。その先には気配があった。大柄な男が歩いて来るような、ゆっくりと藪をかきわける音。すぐ近く、目の前に……。
 彼の気配が消えたのちも、私は動けなかった。いつしかアブも姿を消し、かわりに雨が降り始めていた。
 現れたのは、黒い、巨大な獣であった。二つの目に、私は捉えられていた。深く永久に問い詰めるような視線。
 あれは、ヒグマだったのだろうか。私と対峙していたそれが、人間でなかったことは確かだ。しかし彼は、同時に何の矛盾もなく、私と同じ存在であるようだった。
 なんと生々しい生なのだろう。
 あらゆる空隙を喰らう時雨の音は、沈黙の他に何をも残さない。
 「死が怖いか」
 私は声を上げて泣き始めた。


#12

死より恐るべき

 目が覚めると奇妙な場所にいた。昨夜入ったベッドではない、柔らかくてしっとりとした赤い物の上で体を起こす。一歩踏み出すと浅い水に足首まで浸かった。泥の感触。どうやら沼に浮かんでいる、大きな花の上で寝ていたらしい。
 あたりを見回してみる。紫色をした霧が漂っていて、遠くの景色を見渡すことができない。いくつか木造の屋敷があり、宝石を埋め込んでいるようにきらきら光っている。
 いったい俺はどこにいるのか。困惑して立ち尽くしていると、背後から声がかけられた。
「ようこそおいでくださいました」
 振り返り、たちまち眩しさに顔をそむける。誰かが立っていたが、逆光のように強い光が射していて直視できない。手で光を遮り、なおかつ薄目になってようやく姿がぼんやり見えてきた。布を巻きつけたような簡素な服をきた男だ。眩しさに顔をしかめつつ尋ねてみる。
「あなたは誰だ。ここはどこだ。俺はなぜここにいる」
「私はアミターバ。あなたの国ではよく阿弥陀如来と呼ばれています。そしてここは西方安楽国。いわゆる極楽浄土です」
「そんな馬鹿な! 俺は……」
「不安になる必要はないのです。ここでは病も老いも死も、一切の苦しみがありません。いつまでもいつまでも修行を積み続けられ、いつか必ず悟りを開くことができます」
 俺は頭の中を激しくかき混ぜられたように混乱した。足の力が抜けて地に膝をつく。
 狼狽する俺に、アミターバは優しい声で語りかける。
「驚く必要はありません。あなたもナムアミダブツと唱えたことがあるでしょう」
「そりゃ、なにかで一度くらいは口にしたかもしれないが」
「ナムはすべてを委ねるという意味、アミダブツは私。そして私の望みは、あらゆる人を浄土へ迎え、悟りを開かせること。ですからアムアミダブツと一度でも唱えた者は、必ず浄土へと迎え入れています」
 まぎれもない善意に満ち溢れている言葉が、俺の背筋を凍らせる。取り返しの付かない、奈落へ身を投げたような恐怖がせり上がってくる。
「だが……だが、俺は――!」

 そう叫んだところで目を覚ました。
 いつもと変わらぬ寝室のベッドの上。枕とシーツは汗でぐっしょり濡れている。
 俺は上体を起こして枕元のロザリオを掴み、死より恐るべきものを振り払おうと祈った。
「我は信ず、唯一の神、全能の父、天と地、見ゆるもの、見えざるものすべての造り主を。我は信ず、唯一の主、神の御ひとり子イエス・キリストを――」


#13

ボウフラ

 ちゃぽん ちゃぽん

 優雅に泳ぐ君のことだから、空も優雅に飛ぶのだろう。水面と呼応するように光をまとう。姿を変えても、ぼくならきっと仲間の中から君を見つけることができるだろう。日差しの中、君と川辺のほとりを舞う日が楽しみだ。

 ちゃぽん ちゃぽん

「あっ」

 パチン

「イタイなぁ、何?」
 彼女の腕で血を吸っていた蚊を殺した。掌に残った死骸は、吸われた血が溢れていた。
「いっぱい吸ってる」
「ほんとだ」
 すると、もう一匹蚊が飛んできてボクの掌に止まった。また叩こうかと思ったけど、針を刺す感触はなかった。丁寧に死骸から溢れた血を舐めているようだった。つい見入る。

 パチン

 ボクの掌の上で今度は彼女が蚊を叩いた。


#14

パイプ椅子の消滅

ケータイの電池表示が2本から1本に減る瞬間を見たことがあるだろうか。ないけど何?何なの?もういっそ死ねよ、といわれそうだがわたしはくじけない。見たことがないならぜひ見るべきである。例えば音を鳴らし震えさせ続けて電池を消費させ、じっと瞬きせずに見つめていて欲しい。もしかすると何分も待ったあげく我慢し切れなかった瞬きの間に減ってしまうかもしれない。それでも何度か試みてみるべきである。私はそんな苦労をしたわけではないが、偶然、減る瞬間を見た。見てしまった、と言った方が良いかも知れない。薦めておいて言うのもなんだが、それはひどく体力を奪われる。見るだけでシューティングゲームで言うところの1機なくなったような、消えた二本目に吸い取られてしまうような感覚になる。細かく説明すると私はモスバーガーの店内で、まだ湯気を発すモスチーズバーガーをかじってメールで「パイプ椅子」と打った。そのメールがどういう内容だったのか、誰宛だったのかは気にしなくて良い。とにかくかじる、「パイプ椅子」と打つ、次に続く言葉を考えて視線を泳がせた先が電池表示で、まさにその瞬間二本あった電池の、長い方が小刻みに震え始めて、やがて卒倒する、駆けつけてきた仲間(三本目を含む)が人工呼吸やら心臓マッサージをするも、効果はない。ため息が画面上を曇らせるので、わたしはそこに花びらを描いた。倒れている二本目を放って仲間(一本目を含む)は中心街に繰り出す。そこで、軽く一杯のつもりが朝までなんてこともあるので、今日は程ほどにしときましょうや、とか何とか言いながらふるるんと仲間は夜の街に溶ける。倒れたままの二本目の横に立つ一本目、その一本目の頬を伝い流れていく一筋の涙が二本目の額に落ちて、濡らす。そのままずっと立ち尽くしていたいけれど、そういうわけにもいかぬからと言って主治医が進めてくれたのがパイプ椅子だった。目先をすぐ下、わたしが先ほど打った「パイプ椅子」はさらりとなくなっていて、モスチーズバーガーは相変わらず湯気を発す。


#15

教科書

「住民監査請求における普通地方公共団体の議会の議長の被告適格の有無につき、最高裁判所は、議長は公金の支出を行う権限を何ら有しないものであり、地方自治法242条の「職員」に該当しないことを理由に、議長の被告適格を否定している(昭和62年.4.10)。
 同一住民による同一行為に対する再度の住民監査請求の可否について、最高裁判所は、住民訴訟において、監査請求で主張された事由以外の違法事由を主張することは何ら禁止されておらず、主張する違法事由が異なるごとに監査請求を別個のものとしてこれを繰り返すことを認める必要も実益もないとして否定した(昭和62年.2.20)。
 住民訴訟の原告適格は、普通地方公共団体の住民であり、住民監査をした者だけに認められる(地上自治法242条の2第1項)。この原告適格は一身専属制があるために、原告の死亡により訴えは終了又は却下となり、原告適格の相続は認められない(昭和55.2.22等)
 地方公共団体の議会の議決を経た支出であったとしても、法令上違法な支出が適法なものとみなされることはない。(昭和37.3.7)。
 住民監査請求において、その対象とする財務会計上の行為等が複数である場合には、それらの行為の性質、目的等に照らし、これらの行為等を一体とみて、その違法又は不当性を判断するのを相当と場合を除いて、各行為等を他の行為等と区別し、特定して認識できるように個別的、具体的に摘示してしなければならない(平成2.6.5)」
 私は以上の教科書に書いてある事を読んで居て眠くなって仕舞った。


#16

ゆがみそ

「味噌を食べるとき、人はどうしても顔をゆがめてしまうだろう」
 たけしは突然そんなことを言い出し、俺と野々村をぎょっとさせた。
「それは何故か? 僕は子供の頃からそれが気になっていて、ずっと考えていたんだ。味噌は人にとって害となる成分が多量に含まれているわけでもないし、特別苦味が強いとか、鼻が曲がるような異臭がするとか、そういったこともない。さらに言うと、味噌を使った料理は結構昔から存在している。詳しくは知らないけど、多分お侍さんも味噌汁飲んでたんじゃないかな。そして、お侍さんもきっと、顔をゆがめながら味噌まみれの肉や野菜を口にしていたんだ。
 何故、顔をゆがめてまで味噌は食され続けてきたのか。味噌が人にもたらす神秘とは一体なんなのか。僕の人生最大の疑問、それが昨日ようやくわかったんだ」

 そこまで言うと、たけしは脇においてあった紙袋から数枚のプリントを取り出し、俺と野々村に配った。
「そこに書かれているのは味噌の栄養素、そしてその健康効果だ。まず、一枚目に書かれているグラフを見てくれ。一番大きな割合を占めているのは見ての通り」
 それからたけしの解説は30分にわたって続いた。
 その間、俺と野々村は一度も口を挟めなかった。たけしの熱心な話し振りを見ていると、「顔ゆがむのはお前だけだろ」なんて言えるはずもなかった。味噌の素晴らしさを熱く語るたけしは、きっと自分の味噌嫌いを理屈で克服しようと、必死で頑張っていたはずなのだから。


#17

『青のサーカス』

 夜が瑠璃色だと教えてくれたのが父で、天鵞絨色だと教えてくれたのが、母だ。
 鋪道を抜けて、煉瓦造りの門を抜けて、色とりどりの人の首……違う、諷刺画に描かれるような人間の顔を挿絵された風船だ。垂れる凧糸を道化師に束ねられて、ぽんぽんと互いのゴムを弾ませている。ムゥンパァクに一夜だけ曲馬団が訪れる、《翡翠夜》が今夜だという噂は、友人のバルと菓子屋に並んでいるときに耳にした。
 バルは駆けていった。僕は柘榴石のジュエリを二人分買わなければいけなくなった。バルは僕が一緒に行けないことを知っていた。バルだけではない。この町に住む大半の人々が、ムゥンパァクは自動人形の体によくないと知っている。電磁波を放つ月の石が地下にたくさん埋まっているからだ。

 バルを待たずに家に帰ると、玄関先で母が待っていた。毛布ごと母の懐に抱かれて、妙だなと思いつつも、今夜はしょうがないと自答する。翡翠夜に部屋の窓からムゥンパァクを眺めるのが癖だった。墓標の連なったような街並みの真ん中に、そこだけ燈し火が集まったような、ほんのり眩い夜景をみると、夜が瑠璃色だという父の言葉も納得できた。けれども少し目を背けば、薄闇に閉ざされた町は健在で、曲馬団の照明が届かない町の果ては、東を囲む山稜も、南に広がる湾景も、母の云う様に天鵞絨を思わせる深い青緑の闇で満ちている。
 一階に下りると、食卓の上の燭台だけが灯っていて、母が頬杖をつきそれをじっと見つめていた。焔が表面の膜にしっとり水が宿っている母の瞳を照らし出す。こちらを向いた母と目が合った。「アシル。ごめんね」

 アシルというのは両親がつけてくれた名前だ。本当の名前はクリアプラス。個体識別名ともいう。この世に一つきりしかない、自動人形の名前。アシルという名前は父も知っている。けれどクリアプラスという名前を父は知らない。前回、曲馬団がこの町を訪れたとき、エリクシルという名前だった僕はムゥンパァクを訪ねた。団長を務める父に会いに。敷地に踏み込んですぐ全身が痺れ出し、頭のなかが燃え滾った。エリクシルは二度と目覚めなかった。彼の記憶と感情は新しい個体に移され、僕が生まれた。

 ごめんね、母さん。呟いて門を潜る。
「アシルっ」
 燕尾服に身を包んだ紳士が、卒倒した僕を受け止めた。
 妙だ。姿形が変わっているはずなのに、父はどうして……。


 目の前の天幕が下りて、瞼の下、暗闇を翡翠が満たした。


編集: 短編