第107期 #7
春先の君の誕生日を祝うことはできなかった。時々思い出したように謝りたくなる。
ホラー映画観よ
またホラーを観たいの?
ダメ?
別にいいよ
イヤ?
一人で寝られなくなる
弱いね
弱いねと言う口元が曲がっていた。格好の悪い癖だけど、無理やり直させようとも思わなかった。
この日はもっと普通の映画を観たかった。君は君の車のハンドルを握る。薄い青の軽自動車。化粧っけも、おしゃれもしない。ジーンズとカーディガンの何度も見ている組み合わせ。仕事もその格好で行っているのだろう。隣で僕は姿勢を崩して外を見る。僕もいつものスウェット、穿き潰したジーンズ。
きのうあまり寝られなかった
そうなの?
寝不足
なんで?
仕事、夜遅くまでやってたから
大変だね
弱い事に異論無いけれど、君は弱くないのだろうか。僕も弱いねと言ってやりたかった。言えなかったのは負い目のせいだ。毎日働いている君に、弱いねと言える程、僕は一生懸命に生きていない。難なく弱いと言える男こそ、君と吊り合う男だろう。
煤がかった小さな劇場。回りに回ってきた映画のフィルムが、最後に行き着くような場所。車を降りて手を繋ごうとすると、君は嫌がってカーディガンのポケットに両手を入れて、小走りに映画館へ入っていった。前を行くのが憎らしいけど、僕達にはそれが合っているように感じる。
映画を観ている間は手を繋いだ。時折君は繋いだ手で顔を触るから、僕の腕が君の胸に沈む形になった。君の顔をつい覗いてみるけれど、気にも留めず観続けている。違う男と付き合ってからも、またああしているのだろうか。
どうだった?
うん?
この前のほうがおもしろかったね
そうかもね
きょう一人で寝れる?
寝られるよ
寝られないと言っても何をしてくれる訳でも無い。君といると、つい気を揉む自分が酷く惨めに思えてくる。
きょうも元気無いね
君が元気無いからだろ
そうなの?
ここまででいいよ
家まで送るよ
ここでいい
そう?
それならと、君は月極め駐車場に車を停めた。期待と裏腹に、簡単に聞き入れられることも分かっていた。
青信号が明滅している。足早に横断歩道を渡って後ろを振り返る。風が耳の体温を奪っていく。あの時君は、横断歩道の向こう側、左手をカーディガンのポケットに入れて、僕に右手を振っていた。
久しぶりにこうやって思い出すと悲しくなる。
気を付けて 帰ってね
うん ありがとう