第107期 #4

叔父の形見のエウリピデス

ぼくがまだ小学生の頃に叔父は重い病を患った。子供がなかったせいか、叔父はぼくの事をとても可愛がってくれた。だから親に連れられ、病床につく彼を見舞った時、叔父はみずからに迫る死よりもむしろ、引っ込み思案でいじめられっ子だったぼくのこれからを気遣った。

「エウリピデスという大昔の詩人の作品に出てくる台詞にこうある」と叔父は言った。「『ここで弱気を起こして、あとでさんざ嘆くよりは、今そなたから憎まれる方がずっとよい』ーーお前は弱気な質だから、この言葉をよく覚えておくんだよ」

それから数日後叔父はこの世を去った。ぼくは生来内気で、何かあればすぐ赤面するような子供だったが、以来この言葉を子供なりに重く受け止めて行動するようになった。
か細い声は発声練習でむしろ太くなり、大きな声は級友達にある種の圧迫を与えたのか、以前ほどからかわれることもなくなった。その事が自信の端緒となり、次第に態度や動作も、鷹揚なものへと変化していった。赤面の癖もいつしか消えていた。その内誰からも一目置かれるようになり、中学や高校では生徒会の役員まで務めるようになった。もうすっかり忘れていたけれど、心の底では叔父が死の間際に残した言葉が鳴り続けていたのかもしれない。

大学は文学部を選んで入った。そしてある日、文学部図書館の三階でエウリピデスの本を偶然目にした時、電流が流れたような衝撃に打たれ、ぼくは久しぶりに昔の事を思い出した。それは『メデイア』という作品で、椅子に腰掛け読み進む内に、ぼくはそこに叔父の形見である言葉を見出だした。

しばらくしてぼくは古典ギリシア語のクラスで一緒になった女の子を好きになり、勇気を出して遊びに誘った。脳裏にはエウリピデスの「ここで弱気を起こして、あとでさんざ嘆くよりは、今そなたから憎まれる方がずっとよい」という言葉が響いていた。何度かデートをする内に、自然とぼくらは付き合うようになった。彼女は優しい女の子で、人の顔をじっと見る癖があった。

ある日カフェで彼女と差し向かいに座り話すでもなく話していると、彼女はぼくの顔をじっと観察しているようだった。
「どうしたの?」とぼくが尋ねると、彼女は「あなたって、よく見ると可愛らしい目をしているのね」と言った。

その時ぼくは、ものすごく久しぶりに赤面し、「そうかな」と笑ったのだった。



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