第107期 #16
私は会社を辞めて実家に戻った。どす黒く不定形の靄を抱え、さめぬほとぼりを待つ。
散歩がてら空を見上げるも焦点は蚊柱に奪われる。煙草屋の母は自販機に変わった。気付けば私は懐かしい通学路を歩いていた。
閑散とした住宅街の、そこだけ落ち窪んでいるような翳りの中に平屋はあった。鬱蒼と茂る生垣に隔てられ、薄暗い中に縁側が張り出している。仏間の位牌の隣に柔和な表情を浮かべた老爺の遺影が立っていた。犬を飼っていた老爺だ。
昔、川原に棲み付く犬に火をかけ、追い立てて狩り回す遊びが流行っていた。啼き声が面白いのだ。適度に暴れるのもなおいい。あるとき、この老爺は私たちの見る前で犬を持ち帰った。ところどころ禿げ上がり皮膚病を患っていた犬は、庭に繋がれ、日増しに健康になっていった。
門前で、犬はとりわけ私に対してよく吠えた。門越しであっても吠え立てられるのは空恐ろしく、黙らせようと決意する度、窓の向こう側に見えない視線を感じて止めた。
学生の時分、帰省した私は、故郷の気安さにかまけて犬の様子を見に行った。犬は年老いた雰囲気を滲ませ、それでも私を嗅ぎ付けるとけたたましく吠え立てた。どうやら記憶は時間では消えないらしい。私は柵を乗り越えて庭に忍び込み、唸りを上げる犬を蹴り上げた。固い筋肉の鎧は濡れたサッカーボールのようで、夢中になって追いかけた、ただ追うだけで笑えていたあの頃を思い出した。牙を剥いて猛り狂った犬は鎖を引き千切らん勢いで飛び上がり、けれども空中で静止、慣性で身体だけが投げ出され、首輪に締められもんどりうった。曲がった笛から捻り出した様な間抜けな悲鳴が楽しく、離れてからも大声で笑った。笑うというのは気持ちの良いことなのだと思い出せた。
いつか老爺が死に、犬は鎖を外された。犬は自由な時間を横になって過ごし続けた。時折両足を震わせながら立ち上がり、緩やかに体勢を変えて気だるそうに丸まる。私が近づくと億劫そうに片眉を上げた。もう吠えなかった。守るべき主、恩を返す相手なき今、私など物の数ではないのだ。
私はかつて犬のいた庭を眺めながら、咥えた煙草に火をつけるのを躊躇っていた。煙草を箱に戻そうと詰め込んでみても、中ほどまで押し込んで二つに折れた。どこぞの電信柱に子犬進呈のビラが貼ってないものか。もし見つけることができたらちょっと電話してみようか。折れた煙草を銜えなおしてそんなことを思った。