第106期 #12
上京して二年目、都内の私立大学で学ぶ青年がいた。アパートで一人暮らしの、大人しく目立たない、細い眼鏡を掛けた青年だった。休みの日にすることといえば、テレビを見ることくらいだった。
大学に通う以外、外出することはほとんどなかった。親の仕送りだけで細々と生活していた。快楽はなかったが、これといって耐えられない不満もなかった。
大学の帰りのいつもの駅。彼の生活とは裏腹に、ホームから改札へ向かう階段は人で混雑している。人々の着ている服は、どれも同じということはないのに、全てがちょっと狭い一定の枠の中にあるようで、背丈も、髪型も、顔の形も、誰かと誰かが絶対に同じということはないのに、ずっとずっと昔に、一つの鋳型から生まれてきたように見えた。
見えるものから色素を抜けば、りんかく線だけが忙(せわ)しく交差しあい、人々は同じように改札をくぐり、切符も同じようにして改札機をくぐる。改札に一度吸い込まれたりんかく線は、改札機の向こう側で、また同じりんかく線になって吐き出されていた。
駅を出て、前を行くサラリーマンが赤いセブンスターを取り出しくわえると、うつみき加減に煙を吐き出した。そのまま歩き続ける体に分散された煙は、あいまいなりんかく線を風に溶かして広がった。後ろを行く、何の罪もない青年の鼻腔にも煙の粒子は入り込み、煙より色黒いものが脳を引っ掻き、若干眉間を狭めさせた。耐えられない不満はないからと、楽しみのない生活を送る者には、増して理不尽なことに思える。
前を歩くサラリーマンの向こうに、こちらに手を振る人影があった。サラリーマンは気付かないようだった。青年は誰だか分からなかった。白髪で白い鬚を伸ばした老人に、心当たりはなかった。
「おーい元気か」と老人はまだ近づく前の青年に声を掛けた。
『えっ』と青年は自分にしか聞こえない声を出した。
「何か不満はあるか」と老人は言った。
「世の中をよくしたいな」
青年は足を止め、
「そうだろう」
老人の言葉の意味を探った。
顔のしわ一本一本を確認できる距離で、老人は口端に優しい笑みを浮かべていた。
『たばこは、煙いよ』
青年がそう言うと、老人はそのまま風の中に消えていった。前を歩いていたサラリーマンの姿も気付いた時はなくなっていた。
テレビから何人か有名人、政治家が姿を消した。世の中は若干のとまどいを見せたが、それでも支障なく、今まで通り流れ続けている。