第105期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 折れた傘 Qua Adenauer 861
2 境界散歩録 彼岸堂 1000
3 あまりの違いにぎゃーてー、ぎゃーてー、俺、驚愕 なゆら 969
4 後ろに 神藤ナオ 9
5 ひとりになるまで 丹羽ちちろ 1000
6 多彩青事 おひるねX 422
7 己季 美水 924
8 天下泰平 ハードロール 988
9 海賊 カルシウム 787
10 風の惑星[改] 朝野十字 1000
11 五日間の記録 普通電話代金 999
12 どんふぁん 金武宗基 184
13 一枚の絵 しろくま 1000
14 カレーの王子様 エム✝ありす 1000
15 莢を燃やす ロロ=キタカ 955
16 corkscrew 柿谷 991
17 悪魔の裁判 謙悟 1000
18 euReka 1000
19 『架空迷宮』 吉川楡井 1000

#1

折れた傘

ある晴れた日の午後、僕は土手で、捨てられたビニール傘を見掛けた。

傘は、明らかに芯が折れており、傘としての役目を終えていた。
つまり、単なるゴミだ。

今の彼、あえて彼と呼ばせてもらう、の役目は、何なのだろうか。
存在するすべてのものには、何かしらの役目があるとすれば、それは何だろうか。

僕は、昨日、風が強く、激しい雨が降っていたことを知っている。
しかし、その事実は、単なる過去であり、思い出す必要性に欠け、実際彼を見なければ思い出すことはなかっただろう。

彼の役目は、僕に、或いは傘を見掛け、かつ昨日の風雨を知っている人間に見掛けられた時、相手に昨日の風雨を思い出させることだろうか。
しかし、そのことに何の意味があるのか。


ある晴れた日の午後、私は土手で、土手を歩く青年を見掛けた。

大学生だろうか。
そういえば、近くに有名な大学があった気がする。

彼は私を見た、だが特に足を緩めることもなく、通り過ぎて行った。
しかし、このほんのちょっとした出会いに、何か意味がある気がした。

例え、彼が私を見掛けたことを、既に忘れてしまっているとしても、意味がある気がした。
起きたすべての出来事には、何かしらの意味があるとすれば、それは何だろうか。

私は、昨日、風が強く、激しい雨が降っていたことを知っている。
この身に刻みこんでいる、激しかった昨日という過去の記憶を。

彼は昨日の風を、雨を知っていただろうか。
知っているなら、私を見て、私の身を見て彼は、昨日の風を、雨を思い出しただろうか。

私と彼の間に起きたこの出来事の意味は、彼にそして私に、昨日の風を、雨を思い出させることだろうか。
しかし、そのことに何の役目があるのか。


役目と役目の意味、意味と意味の役目。
そんなもの、無い。

でも、俺の上に居る、誰も気にも留めない彼。
あんな、誰も気にも留めない彼にも、役目があるのだ。

でも、俺の上で起こった、ほんのちょっとしたこと。
あんな、ほんのちょっとしたことでも、意味があるのだ。

だって、それ自体が役目で、それ自体が意味なのだから。

俺の役目も、意味も、ちゃんとあるのだ。


#2

境界散歩録

 高層ビルの隙間に存在するその『道』は、凄まじい引力をもって私の歩を導く。
 視界が暗くなる。空気が冷える。見上げるとそこには、狭くなってしまった青空。ここは……真昼の夜。
 見下ろすと、また暗い。歩みによって生じる音が二酸化炭素を滞留させた闇に飲み込まれていく。
 進み続けると、窓も何も無い左右の壁が迫ってくる。心地よい圧迫感。


 ここは日常の下に在る異世界。
 いくつもの世界によって認識される軋み。


 抱えていた紙袋に手を入れて念じる。焼き鳥よ現れろ。ここが異界であるならば、超常の力など常識だ。だから。
 焼き鳥よ、現れろ――。
 熱気が、異界に白い煙を吐き出す。
 『ねぎま』。圧倒的存在感。
 あえて鶏肉のみを食べる。肉汁が溢れ出す。これは……いい鶏肉だ。すかさずネギ。焼き加減が素晴らしい。てっぽうのように飛び出してくる香ばしさ。私の呼吸もその熱を帯びていく。
 ああ、塩味。
 今ここに、塩とタレの境界に、見切りがついた。線引きがされたのだ……

 隙間は続いていく。空は青く、やがて、薄く紅く。
 音楽など聴いてみてはいかが?
 悪くない発想だ。停止していたウォークマンを再び動かす。首元にぶら下げていたイヤホンから、小奇麗な雑音が流れてくる。これは、確かチェロの音色だ。

 空の串。ネギはない。鶏肉もない。
 ならば…… 次は牛ハラミ串などどうだろう。念じる。出た。もしかして私は……天才ではなかろうか。
 ヨーヨー・マも祝福している。
 肉の柔らかさ、タレのうまみ。カラシのきき具合。噛めば噛むほど味しかない。味が口内の境界を奪う…… 味蕾、永劫。
 あ、ビール。ビールいいね。ここは洒落て、麦酒なんて呼ぼうか。麦酒よ来い。

 夜が、夜の色を、隙間へ溶かす。
 やがて私のいるここが夜と一つになる。
 浮ついた食欲だけが、異物として、光として、その存在を誇張させ、結果ここを異世界として闇から切り取る。
 ……歌は、野暮だろうか。耳障りだろうか。
 はるか彼方、隙間の終わり。その時間の終焉に、無秩序な街燈の輝きが見える。私の歌がそれを引き寄せる。
 異界は心地よい。羊水の海を泳ぐ感覚がする。境界は狭く、暖かい。
 私は歌い始める。



 ……雑多な景色と夏の日差しが私の体温を上昇させる。
 照り返す陽光が、昇り立つ陽炎が、乱暴に私を白く染めていく。
 空き缶をゴミ箱に捨て、麦藁帽子は目深に被り。
 買ったばかりの焼き鳥に手をつけようか。


#3

あまりの違いにぎゃーてー、ぎゃーてー、俺、驚愕

こだわりを余すことなく店員に伝え、かしこまりましたの言葉までちゃんと聞いて待つ。弁当屋の椅子は固く尻が痛いが、なにかふわふわしながら待つ。俺の注文した海苔弁当、ただし規制の商品から特別にリクエストして海苔の上に鱈のフライをずどんと乗っけてもらい、醤油のパックをつけてもらい、じゃがいものサラダは嫌いだから、ほうれん草のおひたしにしてもらっているもの。みなさんは我が儘だと思われるかもしれないが、そこはいわゆる俺の行きつけの弁当屋でいつもそうしてもらうために俺の顔を見ただけでいつものね?というぐらいの表情を店先の妙齢の女性は見せるので、もう安心している。念のため説明して、あいよ、糊弁当一丁、の声を聞いて安心。俺は仕事帰りでとにかく疲れきっている。仕事は転々と変わるがこの時は土方の仕事であった、体力的にも疲れているが、指導係のおっさんがひどい奴で、俺を目の敵にしてよけいな仕事を言いつけるから精神的にもくたくたである。弁当屋のBGMは有線放送の甘っちょろいポップス、愛がどうとか恋がどうとか、歯がゆくなるような歌詞をどこかで聞いたことのある女性ボーカルが歌っている。耳障りではないが、奥底には響いてきやしない距離感に好感。悲しみの海老フライ/もう終わりなのねあたしたち/だったらいっそ死にましょう/てんぷら油を飲み干して、というフレーズを脳内で繰り返しながら、店にある雑誌をめくる。ぺらぺらぺら。やがて妙齢の女性がおまたせしました、と俺に声をかけてくる。俺は半笑いで弁当を受け取り店を出る。背中にありがとうございました、を受けながら12月の町に出る。何にも考えずに家に向かう、心なし急ぎ足、俺の糊弁当が冷めてしまわないうちに食うために。冷めてしまっても美味いことは美味い、しかし、ほのかな温かさがあの妙齢の女性の心意気、それを汲み取って食うべきではないかと思うから。最後は駆け込んで階段を上り、鍵を取り出し、なかなか鍵穴に入らずに若干いらいらしつつ、叩くようにドアを開ける、壊してしまってもいいと、思ったよ。部屋に入る。こたつの電源を入れ、何もしないで糊弁当を取り出してセロハンテープを剥がすのだ。さあ。蓋を開いてみると、糊じゃねえ、飯もねえ、テレビもビデオも何にもねえ。ずどんとナポリタンで満たされたそれを僕、しばらく見つめていたよ。


#4

後ろに

いない

いない

いる。


#5

ひとりになるまで

 大切だと思っていた人が、私の人生から、音も無く去った。六月の半ばのことだった。
「巻き添えを食わなくて、良かったじゃないすか」
 ピーマンの肉詰めの、最後のひとつを突ついて、天田は、さほど興味なさそうに言った。
「巻き添えって、DVとか、心中とか?」
「そうっすよ。そっか、もう桜桃忌か」
「おうとうき?」
「俳句の季語で、太宰の命日を、そう言うんすよ」
「へえ」
「もう少し、何かないんすか。由来を聞くとか」
 吹き出しかけて、天田は、小さな缶から血色の良い唇を離した。
 今では珍しい、缶入りの緑茶を、彼は愛飲している。
 シャープなのだという。

 帰宅途中、少し寄り道すると、大きな公園がある。よく二人で、中年カップルの逢瀬を観察に行った場所だ。
 見て、面白いわけではなかった。ただ、そのバイタリティーにあやかりたいという、ある種の信仰だった。
 しかし、せっかく暗いのに、誰もいなかった。
 ぬるい風が、やさしい音を立てて、帰れと促す。

 部屋は、がらんとしていた。ものが減ったかというと、そうでもない。それでも、がらんとしていた。
 気に入っていたはずのスプーンや、結局一度も見ていないDVDなど、どうせなら持っていって欲しかったものが目について、イライラする。
 頭が痒くなって、入浴。

 目を閉じると、子どものころを思いだした。なんでかなあ、と思ううちに、どんどん背が縮んで、いよいよ足元がおぼつかない。
 仲の良い子が、緑のインスタントカメラを顏に押しつけて、公園を行ったり来たり。おおい、と呼んでも、フレームインしても、私に気づかない。
 私の目では捉えられない、光を見出したのだと、もちろん、そんな気取った言葉は使えなかったけど、私はそのとき、確かに感じた。

 着メロと着エロは、字面や語感よりも、その本質の儚さで似ている。誰かが、訳知り顏で言っていた。
 私はそうは思わない。着メロを止めた。
「はあい」
「あ、寝てた?」
「寝てた」
「ごめんねー」
 休学することにした、と妹が言った。
 することになったのか、と私は感心した。

 深夜の冷蔵庫は、うなされているようだ。
 さけるチーズにとろけるチーズ、スライスチーズに粉チーズ。チーズもいろいろ大変だと、6Pチーズを3P食べた。
 残った3Pを食べる人が、もういない。
 そこでようやく、かちりと音がするように、わけがわかった。
 ひんやりとした空気が、私の頬を撫でる。いつもより冷たい。


#6

多彩青事

       多彩 青事 
             作詞 おひるねX

  すぎてしまった冬も 焦げ付く 日差しの夏も 

  みんな忘れる

  気まぐれおやすみ  ターコイズの梅雨空

  しめったかぜ  生まれた町  何も起こらない だろうとおもう

 
  林の向こうに 白い浜

  おさななじみの 胸元に見つけた小さなほくろ

  あれが光っていたらなぁ  恋なのかなぁ 

  あくびがでて 笑う 
  なにも起きない そろそろ
  小さな町    夕暮れ 




過ぎてしまった冬の    寒さに やってくる夏

みんな忘れて    

中休みの梅雨   パステルカラーがうすい

ちょー退屈  見飽きた窓  誰もこないだろ 垣根のアジサイ

茶色い畑の 向こうから


お転婆だった  ともだちの  胸にあざやかな ほくろ

それだけ想い出したら  恋かなぁ〜


  あくびがでて 笑う 
  なにも起きない そろそろ
  小さな町    夕暮れ 

***

 歌詞のつもりでかいたのですが、作曲してください。


#7

 6月の入梅前、彼はこの次期に降る控えめな雨が好きだった。下校時になると、朝差してきていた傘は自転車の荷台に掛け、一人で雨粒に当たりながら自転車を家まで走らせる。
学校という冷めない空気の箱に半日閉じ込められ、顔中のあらゆる肉が緩くなる。それを初夏に入る前のちょうどよく冷えた水で引き締めなおすのだ。微妙に湿った制服は通気が悪く、体に熱がこもる、髪は濡れ、風が頭を冷ましてくれる。そうして冴えていく僕の頭は、いつも家に着く前にあるポイントを意識する。バイパス道をそれた道にある自販機だ。そこでコーヒーを買う。このコーヒーと、残りの帰路でいつも彼は小さな考え事をした。まあその前に自販機の前から動くことがひつようになるんだけれど。
そのときだ、前から横に広がり、傘を差して走る自転車の集団。近くにある私立校の生徒達だ。揃って坊主頭のところから察するに、おそらく素行の悪い事で有名な野球部の連中だろう。
そんな中の一人が「傘をさせ!」と大声で一言。別に驚きはしなかったものの一瞬イラッとした。そしてこう考えた。
 あいつらは何を思って自分に声をかけたのか、と。
彼らはおそらく、団結する事で思春期・青春を送るつもりなのだろう。それを非難する気はない。だがいつまでもそうやって固まっていると見えないことがある。それは独りでいることの楽しさで、本来の集団の重要性だ。特筆すべき事でもないが、人は独りでは生きられない。がしかし、だからと言って独りの時間を無視してはいけないのだ。己の将来を望み、哲学する。これは十代のときに必ずしなければならないことだ。この次期にこの事を考えずにいると、人は必ず悪い方向へと落ちる。一方、これを行った時間が長い者ほど、後の自分の成長は著しい。
 植物は主に雨によってその養分を取り込む。そして後に根を伸ばし、雨が降らずとも養分を取り込めるようになるのだ。当然それが人間に直接当てはまるわけではないのはわかる。それでも彼は固定概念から外れた雨に当たることに利益を感じるよう思考し、そして連中は傘を刺して自転車に乗っていた。
ただそれだけの事なのだ。でも彼は連中が彼よりも思考しているとは思えない。思いたくない。
 彼は雨でずぶぬれになっていた。


#8

天下泰平

ずんちゃかずんちゃか。当世たんと見かけなくなったラジカセなんか肩に担いで、ちり2頭のお侍Aが桜の散った大川沿いを歩いてゆく。聞き慣れない無宿が♪じゃあらじょうろじゃあらと大音量で垂れ流されている。すれ違う人びとは誰もお侍Aを直視はしないで、みな足早に伏し目がち。「母ちゃん、アレ、(変な人)!」小僧が皆まで口にしかけたとたん、母親は心臓の止まる思いで息子の口に手で蓋をした。だが小僧は母親の手を振り切ってまでして、お侍Aの姿を、その見慣れない風貌を正面からいまいちどよく見てみたかった。「やめなさい!こら!健坊!」母親の制止も虚しく、気づけばもと来た道を引き返していた。「こりゃあ、コンパスがダンチだな」景気づけにそうひとりごちたその瞬間、目の前に突然、祭家な花柄が表れ、健坊は鼻頭を強く打ちつけて尻餅。「会う血!」鼻と尻を押さえながら見上げると、左のひざを押さえながらお侍Bが見下ろしている。「ちょっとぉ〜こういうのありえないんですけど!」健坊の鼻血が付着した袴を唾で揉み擦りながら、最前までは穏やかだったBの表情は見る見るうちに狂気のそれに変貌していった。「堪忍してくだせえ、オイラ、急いでいたもんで」「ふざけんなよ!コレ買ったばっかなのに〜もういい!斬るから!」そう言い放つや、Bは己の柄に手をかけていた。これには流石に黙視を決め込んでいた往来人も騒然となり、周囲には予定調和の人だかりができた。「小僧、せいぜい命乞いしな!」ただただ怯える健坊と、柄に手をかけたままじりじりとにじり寄るB。そこに、人垣のモーゼからAが現れ、周囲はこれで役者が揃ったとばかりに、密かに語るしすの固唾を飲み込む。「小僧の代わりは拙者が受けてたつ。さあ、抜け!」「つーかなんで!アンタが先に抜けよ!」「いや、お前が抜け!」「そっちが抜け!」「抜け!」「抜けっつーの!」どうやらどちらが先に刀を抜くかで、一瞬で蹴りがつくはずの真昼の決闘は、かようにコミカルなものに…そこに、質の大黒屋のダンナが通りかかり、対峙するお侍ABの姿を一瞥するや、傍らの使用人・佐平に言った。「武士の魂を質草にまでして、かたや無宿なんぞに、かたや猛奴の最新の流行だかに入れあげて…鞘の中身はどちらも竹光。これじゃあ抜こうにも抜きようがあるまいに。佐平よ、お前ィはせいぜい、真っ当に精進するんだぞ。よいな」
「HEY!」


#9

海賊

夜。真っ暗闇の海の上で少年は海賊達の大声を叫び、ビールのグラスが交える音を聞いていた。
少年は10歳にしてもう"海賊の船長になる"という夢を持っていた。理由はただでさえ強い海賊の中でも一番強い海賊だからという理由だった。だから少年はいつも夜になると、ボートにのり、海賊船の近くに行き海賊の声などを聞いているのだ。

ある晩、少年はいつものようにボートに乗り、海賊船の近くに行った。そのとき
「おいボウズ、いつもそこでなにしてる?」
少年はドキッとした。後ろで海賊が話しかけてきたのだ。少年はとりあえずなにをしていたかを海賊に全部話した。すると海賊はいきなり大声で笑い出した。
「そうか、おまえ海賊目指してるのか。止めとけ止めとけ。海賊になったって良いことなんか一つもないぞ。」
海賊は嬉しく、そして寂しそうに言った。でも少年は諦めず海賊になりたいと大声で言った。海賊は少し悩んだようだが、
「そうか。ならこの船に乗れ。そして今日からおまえは海賊…じゃなくて海賊見習いだ!」
少年は驚いた。というかどんな風な反応をすればいいのか分からなかった。でもとても嬉しい事には代わりはなかった。

次の日から少年は海賊見習いとして、武器の準備や、肩もみや、掃除など一生懸命働いた。しばらくすると武器の使い方や、大砲の撃ち方、そして戦い方などを教えてもらえた。そして5年後にはもうだれが見ても立派な"海賊"になっていた。

しかしその5年間ずっと住み続けてきた船が大破した。他の海賊が食料を奪いに攻めて来たのだ。少年や船長、仲間の海賊たちも戦ったが、船は沈没し少年や船長達は、海に流されちりぢりになり、少年は意識を失った。


あれから何年が経っただろう。少年はもう一人前の男になり海賊の船長として大海原を進んでいる。子供の時からの夢が叶ったのである。しかし男の心の中はいつどんな時でもいつも海の底のように真っ暗だった。


#10

風の惑星[改]

 常に重い風が吹き荒ぶ人外の低地の底に白いドーム型の研究所があった。キャサリン・パーマーはそのドームに一人で住んでいた。
 ドームの中心にはさまざまなメーカーのさまざまな観測装置が備え付けられ、液晶ディスプレイが無数の数字を表示していた。それらの数字は地表に降り注ぐ日光のスペクトルだったり電波状況だったり放射線の量だったりを表していた。毎日の観測データを集計し簡単な日誌をつけ、それを送信する作業は、午前中に終わってしまう。あとは自由な時間だ。軽くランチを取った後、キャサリンはしばしばパワードスーツを着込んで研究所の周辺を散策した。キャサリンのお気に入りはセトーの竹林だった。
 セトーの竹林には地球のどの動物とも似ていない生きものが棲んでいた。通称リビングデッド――全身真黒な毛皮に覆われているところは哺乳類のようだった。頭部と胸部が一体化し、後ろに丸い尻をひきずっている姿はクモを連想させた。頭には昆虫のような巨大な複眼と触覚がついていた。
 だれもが重い風を嫌って高地に住むこの惑星で、地表の研究所に勤務したいという科学者はめったにいなかった。キャサリンが今の仕事に応募したとき、従妹たちはみな、キャサリンは子供のころから変わり者だったと陰口を叩いた。けれど気にしない。
 キャサリンは一日に何時間も竹林の奥で過ごすようになった。竹林の奥は外の風から遮断され、日が差し込むこともなく、暗くしんと静まり返っていた。竹林の底をもぞもぞ這い回る不思議な生きものは、いくら観察しても飽きなかった。一メートル弱ごとに格子状に規則正しくはえそろっている太いセトー竹は、体幅、体高共に三十センチほどの彼らにとってちっとも邪魔ではなかった。風や外敵を防いでくれる頼もしい柱だった。彼らは竹林の地面に生えるある種のキノコが好物だった。それはサクランボのような赤く丸い傘の下に白いツバが花弁のように広がっていて、美しい花のようだった。キャサリンは彼らがそのキノコに額を押し付け胞子を額にくっつけた後で、周囲の腐葉土に念入りに額をこすりつけて胞子を植えつけていることに気づいた。
 空の上の風の人たちが地べたを這う生きものを毛嫌いし、蔑んでリビングデッドと呼んでいることに、おとなしく控えめなキャサリンは深い憤りを感じずにはいられなかった。
 ――彼らは、お花畑を作ってる。お花畑を守ってる。彼らの本当の名前は、ハナモリだ。


#11

五日間の記録

一日目
今日から、いじめが始まった。手始めに僕の机に落書きがしてあった。
「死ね」「バカ」「消えちまえ」「アハハハハハ」
などなど。机の中身を調べたら、置いてあった教科書にも同様の落書きがしてあった。一部、切り刻まれていた。今日始まったいじめにしてはなかなか過激な方法だと思う。
だが、同時に感心もした。机の落書きは水性で書かれており、消そうと思えば簡単に消えた。配慮のできる人間がいじめた人間の内にいたのだろう。
いじめられている者の心理としては、教師に知られたくはないだろう。という予測から僕は落書きを消して、何事もなかったかのように授業を受けた。

二日目
机の上に一本の花が入った花瓶が置いてあった。いや、供えられていたと言うべきか。
二日目にしてすでに死んだ事にされたらしい。早すぎる、もっと追い込んで自殺しそうな人間に見せるほうが効果的だともう。少なくとも、僕がいじめる側だったらそうするだろう。
それでも、花瓶が可愛かったので、貰って帰る事にした。花は持って帰るつもりはなかったので、手洗い場で水を捨てて、花はゴミ箱にいれた。
家に帰ってから調べたが、供えてあった花の花言葉に「悪口を言うな」というものがあった。なかなか洒落がきいている。

三日目
教室に入ったら、僕の机がなくなっていた。ポツンと残るイスには「中庭だよん、さっさと取ってこいや、ハゲ」と書いてあった。書かれた文字は油性である。イスなら教師に見つかる事はないだろうと思ったのだろう。机を中庭に投げといてその配慮はどうだろう。
とりあえず、僕は机を拾いに中庭に行く。
すると、上からイスが降ってきた。僕の横数十センチの距離に落下したイスを見る。危ないと思ったが、安全が認識できてからイスを見ると、足の部分が少し曲がっていた。
まあ、いいか……と思うつもりが、何を思ったか全く別の思考が頭に浮かんだ。キレてしまったのだ。

四日目
僕の教室はガランとしていた。人数分あるはずの机とイスがまるごと消えているのだ、当然だろう。
やったのは僕だ。中庭に落としておいた。
そして、黒板に文字を書いておいた。
「アハハハハハハハハハハ、タノシイネー」
それを見たクラスメイトはギョッとして僕を見た。だから、ニタッと笑いながら黒板の文字を読み上げてやる。

五日目
僕のいじめ事件は終わった。結局いじめられたのは三日間だけだ。言うなれば「最も短いいじめの内の一つです」といった感じである。


#12

どんふぁん

ドンキホーテにて。
あわやあわやあわやあわや、とくぐりぬける。

ワットトモスの天然水を見つけ、ドキドキする。
金曜日の夜11時、フライデーナイトイレブンピーエム。

レジへ。
店員が、少し僕の顔を見た。一瞬口が曲がった気がする。

外へ出た。まだドキドキしている。
雲がでているが、僕は高度6000メートルだ。

おつりをみた。レシートと215円。
おいおい、俺も捨てたもんじゃない。いい男。


#13

一枚の絵

 友人のヒロアキの別荘を訪ねた。どこまでも続く大理石の廊下の壁に絵画が一枚掛けられていた。僕は今、とある印象派の画家が描いたのであろう一枚の絵の前に立っている。


絵の左上には太陽が描かれている。眩しく赤々とした太陽だ。絵の右上は青暗く、夜にな
ろうとしている。夕方の絵だ。ここには左上の太陽から照らされた遠くへと広がる滲んだ
砂漠が描かれている。熱気のためか、遠くの景色は揺れている。霞む地平線。それとも蜃
気楼が起きているのか。向かった先に何が見えてくるのか分からない。絵画の両側には、
大きな岩が並んでいた。中央の砂漠を挟むように、大きく立ち並んでいる。岩肌がひどく
荒れている。ゴツゴツとした手触りを、目で感じとることが出来る。どこも瘡つき枯渇し
ている。植物も生えることが出来ない。絵の逆側の、赤い陽光に晒されているこの岩の裏
側は、まだ熱を帯びているのかもしれない。しかし、今こちらに向けられている岩の表面
は、熱を剥がされ、音を立てず、もうすでに冷たく静まりかえっている。この描かれた絵
の次には、いったいどのような世界が待っているのだろうか。夕焼けはまさに燃えるよう
だというのに。昼と打って変わり夜の砂漠はひどく寒いのだろう。生物が、生きられるよ
うな寒さではないのだろう。右の岩の足元から砂漠を覗く、一人の男の黒い後ろ姿が描か
れている。岩石地帯を経て、遠くの砂漠へ進もうとしているのかと思えば、そこで歩くの
を止めたかのようにも見える。傾く赤い太陽の光に照らさせて、男の黒い影は絵の右下へ
と伸びている。その影は靴の裏から男を捕まえているようである。また右上から迫る夜が
男を引き摺り込もうと窺っている。男は岩の間を抜けて暑い砂漠の世界へと足を進めるの
だろうか。左の岩陰の地面には、枯れ木が吹き晒された体を横たわらせている。遥か昔に
息を止め、死んでからも静かにそこで何かを看取る木の屍のようである。男の両足はどち
らも前に出ていない。立ち止まっていればいつか一人寂しい夜が来る。男を捕まえる影は
いったい何なのか。男から伸びる影はこの絵画の枠を越えている。その影が伸びる先を目
で辿ってみると、そこにあったのは僕の右腕。――彼を離そうとしないのは僕なのか。一
瞬一人広い世界に立ちすくんだようだった。どういった気持ちで画家はこの絵を描いたの
だろう。男の伸びた影の中、絵画の右下には小さな文字で“HIROAKI”とあった。


#14

カレーの王子様

(この作品は削除されました)


#15

莢を燃やす

 月次勇吾は今朝8時半ごろ目覚めた。食卓にはウインナー3切れとシーチキン入りの卵焼き3切れが皿に並べてあった。勇吾のマンスリー曲は今月は「灰色の恋人たち」だ。もう歌詞からメロディーからコード進行まで覚えて仕舞った。一人口ずさみながら朝食をとる。
 新聞紙の上には昨夜収穫して豆をとった後の小豆の莢が山盛りあった。勇吾はこれを燃やさなくてはならない。庭で燃やすかこれが生えて居た休耕田の畑の畝の下で燃やすか、しばし思案した。今回は庭で燃やす事にすると決めた。決めると久我アブに電話をする。明日の手続きの打ち合わせだ。俺が運輸局へ行って手続きをして来るから君はOOへ行って関係書類を揃えて来てくれ。うん、うんOOな。OOじゃなきゃ駄目だよ。
 勇吾は社会保険労務士もやっているが、今回のは社会保険では無い。テレビでは子供たちに蔓延するテレビゲーム病についての特集番組をやって居た。ふ、俺もテレビゲームはやるがなと勇吾は思ったが子供たちの場合は批判能力の欠如と自覚症状の欠如によって他者をも巻き込む危険が大なのだと児童評論家が熱く語って居る。ふ、俺もそんな事を画面の向こうから語って見たいものだと勇吾は思った。
 勇吾は濡れ縁に降り立って庭を眺める。ふ、母方の祖母宅には最初からこのいわゆる濡れ縁なる物があった様だが、我が家に濡れ縁が出来たのは祖母が無くなって大分経ってからだった。これを設置した母の気持ちを勇吾は忖度して見る。ほぼ100パーセント日曜大工で母の主導のもとに設置された父と母の合作濡れ縁。勇吾は何かしら自分の人生の先に横たわる長い谷みたいなものを想像して気が重くなるのを禁じ得なかった。
 庭でライターで小豆の莢に火を付けた勇吾は燃え盛る炎を前に久我はちゃんと書類を揃えられるだろうかと愚にもつかない不安を口実に顔に渋面を作って見せた。
 少し不安だったので再び久我に電話をかけた。おお久我君か、分かって居るかも知れないが、君の行くべき所はSとTとUだから。決してVには行かない事。
  一仕事終えた気分で勇吾は猛烈に風呂に入りたくなった。勇吾には奇癖があってガンダムのプラモデルは必ず風呂場で無いと作れないので勇吾が風呂に入る時は必ずガンプラの箱を風呂場に持ち込むのだった。勇吾は風呂場でガンプラを作り始めた。


#16

corkscrew

 帰宅。携帯に着信十件、メール八件。私はそれらを全て削除し、机に郵便物を並べる。そのどれも封が破られ、可愛らしいシールで封がされ直してある。公共料金、税金、電話代。すべてだ。
 私は壁に立てかけた三枚の鉄板に手を添える。張り付くように冷えた鉄塊は、荒れた気持ちを鎮め己を取り戻させてくれた。

 二年前の私は貧弱だった。他人の良識を信じ、ささやかな疑問を先送りにした結果、取り返しの付かないところまで放置してしまった。見知らぬアドレスから携帯に送りつけられた実家の画像。それでようやく、いたずら電話や謎のメール、無くなった下着などが一つに繋がった。そうなるまで気付けなかったのだ。
 私の彼は直情的で、相談しても感情の赴くまま暴力に訴えるだろう。ならば警察に行くという手もある。だが、これらの拘束力は一体どれほどのものだろうか。安寧を絶対に永遠に取り戻せるのだろうか。変質者にも守らねばならないものがあるなどと、良識があるなどと、どうして言えるだろうか。結局は変質者の気分次第になってしまうのだ。それほどまでに私はか弱い。
 だからといって催涙ガスやスタンガンも駄目だ。成功率云々ではなく、変質者に敗北の言い訳を与えてしまう。私を犯すに当たって超面倒くさい障害がそびえているぞと、完膚なきまでにとっちめてやらなければ断ち切れない。安心して犯すには殺すしかないと思わせるほどに。絶対に従わないということに。
 成人男性の平均体重に比べると私は軽い。けれども四十一キロの肉の塊と考えたらどうだろう。
 そんな考えがきっかけで、私は鉄板に挑戦した。はじめ手首を捻挫し、去年は拳が砕けた。そして昨夜、私は拳に一瞬遅れた風の音をこの耳で確かに聞いた。鉄板は打点を中心にねじれて歪んでいた。

『鍵は開けておくから』送信。
 髪を後ろで一つに束ねる。これで殺されることになったとしても運が悪かったとは思わない。ちょっと可愛いとかその程度の運があるだけで生きていけるほど甘かっただけの話だ。
 やがて扉の軋む音が響き、変質者がその姿を現した。
 コンビニの店員。くだらない。まさに成人男性といった体格。男はもごもごと何かを呟いていたが、それに耳を傾ける必要はない。
 私は鋭く踏み込んで全力で殴った。勢いそのままに足をかけて押し倒し、振り上げた踵で踏み潰す。
「立ちなさい」
 数歩退いて構える。私の人生はまだ始まったばかりだ


#17

悪魔の裁判

 どうしようもなく退屈で、普段ろくに使ってすらいないテレビにまで手を出したのは、まもなく日が暮れようとしていたときだった。外では烏が騒ぎだし、わずかに聞こえていた秋の虫の声を覆い隠す。その烏の声をまた覆い隠すように、テレビから音が発せられる。
 しかし、つまらない。この時間帯はニュース番組しかなかった。地上波を諦め、BSやCSの番組を漁り始める。知らないアニメが流れていたり、スポーツの試合が放送されていたりと多少の幅は出てきたものの、これも今ひとつ。
 そんな状態でチャンネルを回している中、ある所で手が止まった。止まった所は、米国の番組を流すチャンネルらしく、流れてくる言葉はもちろん英語だけ。別段英語の知識があったわけじゃないし、無論完璧に聞き取れたわけでもない。
 ただ、つけた瞬間に見えた字幕が、ひどく印象的だったもので。

「これは、悪魔の裁判です――」

 この言葉に魅了され、酔いしれるが如く、テレビに齧りついている自分がいた。自分の記憶に、少しばかり思い当たる節があった。

 そうだ、知ってる、これ。

 自分が物心ついてから間もない頃だっただろうか。米国で大規模な強盗殺人事件が発生した。多くの死傷者を出してしまったこの凄惨なニュースは、国内はおろか世界中に知れ渡った。そして事件の最重要参考人である男に、六年にも及んだ審議の末、最後の判決が下された。

 無罪。

 ある者は泣き崩れ、またある者は必死にブーイングを飛ばし続けていた。それでも、結果は変わらない。
 そんな中、壇上に一人立って声明を出し続ける年老いた女性。
 被害者であろう青年の遺影を抱えながら、その母親らしき人物は、沸き上がる思いを押し殺しているかのように、丁寧に文字を読み上げていく。
 頬は痩せこけ、背中は曲がっていた。遺影に写った随分と若々しい青年と見ると、どうにも奇妙な気持ちに襲われる。
 片方の時間は完全に止まり、もう片方の時間はいまだ動き続けている。それが奇妙で仕方なかった。
 その女性が最後の一文を読み終えたときには、あれだけ飛び交っていたブーイングは止み、喝采が起き、割れんばかりの拍手が巻き起こっていた。泣き崩れていた人々も、このときだけは必死に両手を叩き続けていた。

「私達はこの結果を認める訳にはいきません。ですが、それを認めさせようとして費やした時間は、あまりにも大きすぎました」

 最後の字幕には、こう表示されていた。


#18

 夏に向かいながら溶けていく、君は真っ白な後悔のようだと僕は思った。
「ねえ、なんで砂漠の真ん中でアイスクリームなんか売ってるの?」
 きっと誰かを待っていたいのだろうね。
「ふうん、あなたって寂しい人なのね。バニラアイスちょうだい」
 うちはバニラアイスしかないけどね。
「それでいいわ。選べないことは素敵なことなのよ」
 君はビーチパラソルの陰に腰を下ろすと、脱皮する虫のようにモゾモゾと服を脱いだ。
「ああそれからあなたの分のアイスもね。私と二人分ね。お願いね」
 君って柔らかい暴力みたいだな。
「つまりあなたは、傷ついていたいだけなのよ。それよりアイスまだなの?」
 僕は二つのコーンにバニラアイスを盛ると、砂の上に寝そべるビキニ姿の君に手渡した。
「一つはあなたの分よ。はい」
 僕はアイスを売る方の役だからいらない。買ったアイスをどうするかは、君の自由だけど。
「役ねえ。それは考えてなかったわ」
 そう言うと君は右手に持った方のアイスクリームを、もの言わぬ砂漠に向かって思い切り投げた。
「誰かを拒否する。それで何かを守ったつもりになれるのよね」
 僕は何も言わず、アイスクリームを詰めた冷凍箱の脇に寝転んだ。今日は店じまいだ。
「おやすみ。あなたを困らせる気はなかったの。おやすみ」
 僕は夢の中で、砂漠に帰っていく君を見送った。本当はどこにも、帰る場所なんかないんじゃないのか?
「そして夜が明け、次の日がやって来ました。私はビキニを剥ぎ取り、真っ裸であなたの前に現れました。私は昨日と同じ調子で、あなたに二人分のバニラアイスを注文しました」
 朝、夢の終わりに現れた君は何やら深刻な問題を抱えているようだった。君の黒い髪の毛が、何かを諦めたようにポロポロと抜け落ちていく。君は病気か? もう死んでしまうのか?
「そのうちまゆ毛も、陰毛だってすべて抜け落ちるわ。あなたはただ自分の役を演じていればいいのよ。ほら、もう体の皮膚も溶け始めているでしょ。だから早くアイス作ってよと私がせかすと、あなたは青ざめた顔をしながらコーンにアイスクリームを盛った」
 一つは僕の分でいいんだな。分かったから、君はもう何も言わなくていいから。
「今日はずいぶん優しいのね。だけどもう肺も、心臓も胃も腸も、筋肉も子宮も唇も溶けて駄目になってしまうの。最後にセックスしたかったな、赤ちゃんうみたかったな、でもその子が挫折して、変態野郎になったら嫌」


#19

『架空迷宮』

「なんです、幽霊を見たような顔をして」
「いや、このくそ暑いのに黒いシルクハットにマントって、あんた頭おかしいんですか」
 ほほほ、と男は笑う。なんだその笑い方は。
「時期を間違えましたかな」
「まぁ時期というかセンスの問題……」
 ぐいっと首根っこを掴み上げ囁きかけてくる。昔の葉巻の匂いがした。
「二百年の時が経ったのです。間違いだって、あるっ。そうでしょう」
 そうこの男、魔法使いを名乗って俺の目の前に現れた。仕事帰りに自動販売機に立ち寄ったとき隣でううむううむ唸っていたのがこの男で、タスポの使い方を知らなかったらしく声をかけたのが運のつき、こうして俺は連れ去られてしまった。
 煉瓦を無造作に積み上げた門の先には、衝立とも思えない幾枚もの壁が立ちはだかっていて、確かに迷宮と言われれば迷宮だと思えてしまう。黄昏の自販機からここまで一切の記憶がないのだから、魔法の仕業と勘繰る余地こそあるものの、男の説明は少しおかしい。
「嘗てあなたは魔法界のルーキーだった。このなんとも言えないリジェクティヴな迷宮に挑んでいた私、そうまだ駆け出しだったこの私が、あの日この迷宮を突破できたのは、あなたが助けてくれたからです。ああぁ懐かしい、あの頃みんな若かったっ」
「人違いだと思う」
「なんとっ覚えてらっしゃらない。これは困った困ったぞ」
 つまる話、男は迷宮の道筋を忘れてしまったらしい。というか俺を探し出せるぐらいなら記憶を呼び覚ます魔法とか使えないのか。
「記憶を扱う魔法はディフィカルツッ! だからまだ勉強中。でもあなたなら使えるっ」
「使えないんだよ。だって俺、人間だもの」
「それは仮の姿でしょうがっ」
「違うっちゅーに」
 埒があかない。突っ撥ねるように踵を返して道を探す。どこだ、ここは。辺りは深そうな森に囲まれていて、歩いて帰るには時間がかかりそうだ。
「待ってっ、待ってくださいよ」
「詐欺まがいにゃ付き合ってられねぇの」
 男は地べたをのた打ち回っている。すがってもらっても困るんだ、こっちは。
「詐欺ではございませんて。お助けぇ、お助けぇ……」

 険しい森に進み入り迷宮が覗けなくなったところで立ち止まる。
 少し可哀相な気もするが仕方ないよな。こんな時は見知らぬふりをして、さっさと話を切り上げるのが一番。詐欺師も、魔法使いも。それに……。
「頼ってばかりじゃ一人前にはなれないぜ」
 俺は久々に呪文を唱え、自宅へと、飛んだ。


編集: 短編