第105期 #14

カレーの王子様

 夜に電話が鳴ったので出たら大学時代の先輩で今から来てほしいと言われた。零時だった。五歳の娘をおんぶして逢った。昔交際していた男性に自分の娘を見せたら嫉妬するだろうと思って眠け眼の娘を連れた。
 先輩は教師をしていた。駅前から住宅街に向かって歩いた。先輩が娘のことをかわいいねと褒めてくれた。先輩は教職で多忙だった。先輩が突然倒れた。死んだ。後日、過労死と判明した。

「傘」
「はい」
 旦那に見送られて一人ぼっちで先輩の葬式に参列した。見送る時に旦那と娘は手を繋いでいた。先輩のご両親にもやもやと挨拶をした。先輩は独身だった、ずっと。帰り道、旦那に渡された折畳傘が役に立った。

 五十七日連続勤務で働かされていた先輩の死が労災として認められないのはおかしいということで先輩のご両親は抗議運動を始めた。私はその手伝いをした。
 旦那から叱られた。それでも私はいそいそ署名運動に参加した。
 私は社会的弱者として語られ始めた先輩側に加担することで自分も世の中からおだやかに弱者として見られ、世の中からいろいろな上前を撥ねられるだろうなと、ぼんやりずるいことを考えていた。

 大学二年の時に深夜、先輩と川縁を歩いていた。縁はコンクリートで固められていて、水際はさらに一段高く造られていた。私はそこにのぼり、危ないよ、と教えてくれる二つ年上の先輩に右手を握ってもらいながら歩いた。
 そこで、私はゆっくりと川のほうへ体重を傾ける。すると先輩は両手で私をつよく繋ぎとめる。私は身を投げ出さんばかりに体重をもっと傾ける。
 ばか、と先輩は言った。
 その時になってようやく、私は先輩を掛け替えのない人だと思えた。

 娘と手を繋ぎながらスーパーに買物に行く時、そう言えばこの娘の手を死んだ直後の先輩の頬にむりやり触れさせたんだな、と思いだして、カレーを作ろうと思い立った。娘に鍋のアク取りを手伝ってもらった。
 先輩がカレー好き。先輩が死んでからの半年、気乗りしなくて作らなかったのだ。

 旦那がカレーを食べた。食べて、娘から先輩がカレー好きだったことを聞いたよ、と言った。私、そんなこと話していたんだ、そうね、喪が明けたんじゃないかしら。
 旦那が、家族のことも考えろよ、と言った。
 自分勝手なのは私は自分でも分かっていた。それでも陣痛のくるしみよりも先輩の記憶が大切だった。もう、代理は娘でいいじゃない。
 娘が、私を見ていた。
 怖かった。



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