第103期 #8

鼻曲がり地獄の一丁目

男は、鼻が曲がってること以外は完璧な容姿に見えた。それだけに実に惜しい。終始そんなことを考えながら男と対峙していたので、説明はなにも頭に入ってこなかった。「雇用関係についてなにか質問はありますか?」上の空の僕に男は言った。「いいえ…よろしくお願いします」月並みの台詞に苦笑いを添えて僕が言うと、男は渋面を作って、「できれば今日から働いてもらいたいんですよね」「今日からですか?」「ええ、できれば今から。ご存知のように、工場は慢性的に人手不足でしてね」男はそれが最終関門であるかのように言うけど、こっちはまるで心の準備がなかったから、思わず相手の鼻を凝視してしまった。「どうでしょう?今から」不遜にも唸り始めていた僕に、男は繰り返した。「分かりました。その前に…」僕は覚悟を決めた。「ええ、もちろん。事前に済ましておくべきです」…誰もいないトイレに駆け込むと、僕は存分に毒づいた。「けっ、今日からなんて聞いてねえし、最悪、明日からにしろよ。それにこれから一杯やるんだから!」そうと決まれば長居は無用だ。逃亡のスリルを体いっぱいに感じてトイレを出ると、「では、ご案内します」男は外で待ち構えており、動揺を隠せないでいた僕に、おそろいのヘルメットと作業服を手渡してきた。それからドアを何枚もくぐって、この位置につかされて10時間経つが、細かいことは覚えていないし、細かいことなどなにもないのだ。最初の6時間はベルトコンベヤーに煽られ、後方の壁にかけられている時計を見やる余裕もなかった。なんのための、誰のためかも判然としない部品が絶えることなく流れてくる。それを僕は掬い上げて…時おり、上からなにかが降ってくる。それはかなりの確率で僕を掠める。少し離れた僕の横には、はるか頭上にいるであろう人間が、そのなにかを捨てるためと思しきクズ入れのような巨大なボックスがあるのだ。ふと、視線をベルコンからずらすと、機器側面に掲示された『安全責任者』の表記に、例の曲鼻の写真がある。いや、別人か?思わず二度見してしまう。写真の男は確かに彼だが、鼻梁はまっすぐに整っており、思考が麻痺している僕は、しばし見惚れてしまう。「バカヤロー!」突如、怒声を浴びせられる。おろおろと辺りを見渡すと、編み目の足場越しに、曲鼻の男が僕を見上げて睨んでいる。「テメ−が手ぇ止めると俺に当たるだろうが!」実物の鼻は、やはり曲がってるのだ。



Copyright © 2011 三上 圭介 / 編集: 短編