第103期 #5

おとぎばなし

 穏やかな冬の日、大きな窓から入る陽の中で、無意識のまま雑誌を捲っている。つまらない奥様雑誌。これを、夫は本当に私に読んで欲しいのだろうか。だとしたら夫は随分愚鈍で、そして無害な男だという事になる。

 結婚を機に引っ越した先の一軒家に、私はなかなか慣れることが出来ないでいる。子どもたちの山吹色のように元気な声も、放下になっていない今は聞こえてこない。それなりに豊かで、それなりに静かな住宅街で一人、身勝手に閉じこもっている。ここから見える景色は淡く、眩しく、遠い。私は孤独だ。

 ここに住む前、私たちは小さな、薄暗いアパートに暮していた。凪の海の底に居るような日々。息継ぎをしに水面に上がる様に出掛け、夜は丸い灯りを灯し、そして手をつないで魚のように、眠った。二人とも働いていたし、それでもお互いの自由が許す限りは、一緒に街に繰り出した。昼の街、夜の街、夜明けの街。どの街もきらびやかで、毎日が舞踏会のように過ぎて行く。二人きりの魚群の様に、時には一人自由に、私は随分勇敢に都会の海を悠々と泳ぎ回っていた。

 陸にあがった人魚は、海が恋しくなるものだ。折角庭のある家なのにと夫は言うが、私には光を湛える昼の庭よりも、陽の入りにくいアパートのベランダが懐かしい。この庭に花を植え、丁寧に手を入れる事を考えるだけで悍ましくなる。私が人魚だったとしても、夫はそうではなかった事に、今まで気がつかなかったけれど。こうやって寂しがり続けても海にはもう戻れない。けれどここでハッピーエンドを、私は迎えるつもりだったとは思えない。

 ぷくん、ぷくんと腹の内側で赤ん坊が私を蹴る。陸で産まれた人魚の子どもは、海に帰らずに生きていくのだろうか。



Copyright © 2011 木春菊 / 編集: 短編