第103期 #15

チューリップ

 この世の中の希望のあるなしについて考えながら彼女はジャガイモを剥いていたそうだ。それから、思い立って言った。ソファに寝転がりながら写真週刊誌を読んでいた恋人に向かって。
 わたし実は人参の生まれ変わりなんじゃないかしら。
 恋人は、もう三十歳になるんだしそんな世迷言、辞めたら? と言葉。
 彼女、ううんだって急になにもかも信じられなくなったのなにもかも。信じるって大事なことだと思うのに、なのに信じられなくなっちゃったの。
「ばかだな」
 恋人に言われ、彼女はこう返した。
「ばかだな、って言葉の意味も信じられない。ばかって、実は、わたしの知ってるばか、って意味じゃないんじゃないかな」
「ばかなこと言ってないでさっさとじゃがいも茹でてコロッケつくりなよ、ばか」
 彼女はババロアのようなくちびるを半開きにして、ふうんと犬みたい。

 でも愛情って記憶の積層が担保してくれているものだから、信じられない、って態度取り続けてたら自然と別れることになったんだ。
 僕の目の前で彼女は言った。
 彼が、一緒に見た映画の話をした時は、ほんとに一緒に見たの? 信じられない。一緒に食べたレストランの話をすれば、まさか信じられない。そんなことあったっけ? そうだっけ? 信じられない。
 以前の恋人と別れて二週間経ったあと、幼馴染の僕のところに来て、彼女は男女の事情を話した。
 たぶん彼女は侮辱されに来たと思う。恋人の苦笑でも思い浮かべながら、誰につけられたのでもない、紛れもなく自分でつけた不名誉を雪ぐために。
 僕は言ってあげた。
「めんどくさい女だな」

 記憶か。六時間彼女と飲み続けた朝に、僕はつぶやいた。
 酔い始めは、彼女は乱暴に元恋人の悪口を吐き続けた。朝方になると、民話のように穏やかに子供の頃の話をしだした。遠足や、音楽発表会。過去に巣籠もりたくなったんだろうと思う。
 僕は手伝った。
「幼稚園の頃、きみはチューリップを描くのが好きだったよね」
 側からメモ帳を取り出して赤いボールペンで花を描く。すると彼女は言った。
「別に好きじゃなかった」
「そうだね、好きじゃなかった。うそのことは信じられないよね」
 彼女はアルコールで赤くなった目で、化粧の溶けかけた頬で、僕を威嚇した。
「だから、いま感じてる彼への罪悪感は本物だと思うよ。信じられることじゃないかな。彼のことを、きみは本当に好きだったんだと思うよ」
 この話は、これでお終い。



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