第102期 #8
二月の寒い土曜日の午後、僕は二年ぶりに渋谷駅へ降り立った。そして明治通りを歩き、宮下公園を通り過ぎて坂道を登り始めた。
上り切った坂道を見下ろすと、眼下に団地が見える。そこは当時、彼女が母親とふたりで住んでいた処であった。
昭和五十年代に建てられた古い公営住宅だったが、渋谷駅から徒歩十分とかからず、利便が良かったせいか、転居する人はほとんどいなかった。
二年前に僕は大阪に転勤となり、その時から彼女と遠距離恋愛が始まった。僕は月に一度、金曜日の夜に夜行バスで東京に向かうことになった。そして東京の街で、彼女と日曜日の夜まで過ごしていたのだ。そんな生活が一年半ほど続いたが、昨年の十二月、僕たちの関係は終わった。
彼女に新たな彼氏が出来たかもしれない。彼女の心境の変化を問い詰めることも、男の存在を探し出すことも、僕には出来なかった。それはただ、そんなふうに思い込んでいるだけで、僕の思い過ごしかもしれなかったからだ。けれども、昨年の秋ごろからメールの返信が途絶えがちになっていったことが、僕を不安にさせていたことも事実だった。
昨年のクリスマスの三週間前、「もう、逢わないほうがいい」と書かれた十二の文字を残して、彼女からのメールは途絶えた。文字を読んだ僕は、彼女と過ごした三年間の思い出がたった十二の文字でかき消されたような気がして、とても悲しかった。すぐにでも東京で彼女に逢い、真意を確かめたかったが、なぜか僕は行動に移さなかった。メールの文字を読んだ後、心の中は動揺を繰り返し、彼女に何を言えば良いのかわからなかったからだ。十二の文字をみるまでは、彼女との別れがあるなんて想いもしなかった。
彼女は、今はその団地には住んではいない。母親が昨年の夏に亡くなり、葬儀が済んだ二ヶ月後、近所の住人にも行き先を知らせず引っ越したという。団地を訪れた僕に隣の住人がそう言ったのだ。そのとき、母親が亡くなったことを知り、僕に伝えてくれなかった彼女のことを思った。
坂道から団地の中庭を見下ろしていた僕は、渋谷駅に戻るために坂道を下った。宮下公園のあたりでふと立ち止まって見上げると、ビルの大きな窓ガラスに夕陽が映し出されているのが目に留まった。窓ガラスに陽光が反射して、眩しいほどに美しい夕陽が僕の視線を捕らえたのだ。そういえば、渋谷の街で何度も彼女と観た夕陽の輝きだったことを思い出した。