第102期 #16

もう銅にも止まらない

 私は、困っている。
 というのも、なんだろう。食傷気味になっているというか、飽きている、というか。そうだな、辟易している、辟易しているという表現が、適切かもしれない。
 それもこれも「銅」という金属、もとい禁属が私の気分に影を落としているのだ。
 何故かといえば、この世には「銅」が溢れかえっているからである。いくら便利なものだとしても、あまりに度が過ぎれば流石の私でも耐えられない。
 最初に気付いたのは、小学校の時に剣銅を習っていたときである。試合中、面を打ち込もうとしたときにその一瞬の隙を突かれ銅を叩き込まれたことが幾度となくあった。その辺りから、私は銅というものを意識し始めていたのだろう。
 私の両親は日本文化とやらが大好きだったようで、剣銅だけに止まらず、書銅や柔銅、さらには茶銅と、様々な銅を教え込まれた。あらゆる銅が嫌になって、まとめて投げ出すのは最早時間の問題だった。
 外に一歩出ると、歩銅がある。歩銅を歩くのを躊躇ったことは言うまでもない。かといって、車も使えない。車銅もあるからだ。仕方なく、普段の移銅手段は舗装されてないような、歩銅とは決して呼べないような場所を、ひたすら進むことに極力ではあるが、こだわっていた。けもの道はギリギリセーフだった。
 自分の通っていた高校には、不良が多かった。だからいつも、補銅の餌食になっている同じ学校の生徒を見てきた。自分はああはなるまいと心に誓ったからこそ、そういう学校でもここまで真面目にやってこられたのかもしれない。不本意ではあるのだが。
 銅の餌食にならないために、疑問という疑問、あるいは問題という問題にはいち早く解決しようとする性格になったりもした。油断をすればあいつらは「銅すればいいんですか」「銅しようもない」とかいう様々な疑問形の言葉に隠れてしゃしゃり出て来やがるからだ。もちろん他の言葉に混じってしゃしゃり出てくることもないとは言わないが、とにかく疑問形を使った言葉に多く潜んでいた。そういうファクターを排除するのは、当然のことだろう。
 とにかくである。私は銅が嫌いだ。だからこそ銅を極力避けた、銅を使わない生活をしている。
 一度こうなってしまったからにはもう後戻りはできない。もう、銅しようもないのだ。

 ……あっ。また銅を使ってしまったよ、畜生。



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