# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | おそらく | エム✝ありす | 1000 |
2 | 完全遮蔽物 | 八代 翔 | 628 |
3 | 穴と棒が登場するからって卑猥だとは限りませんのよ? | koshi | 990 |
4 | 山羊たちの沈黙 | なゆら | 999 |
5 | 植物のひと | さいたま わたる | 1000 |
6 | 大逆循環紙芝居 卒業証書授与式 | 笹帽子 | 1000 |
7 | 死神様だ〜 | ねむ亭三 | 849 |
8 | (削除されました) | - | 733 |
9 | 茶柱 | 八海宵一 | 1000 |
10 | うたかた | 三浦 | 1000 |
11 | ぺったんこ | 三田村真琴 | 956 |
12 | 泡の子供 | 並盛りライス | 589 |
13 | スノウ・ホワイト | サカヅキイヅミ | 996 |
14 | 那由他と阿頼耶の狭間にて | 彼岸堂 | 1000 |
15 | みさき | 長月夕子 | 998 |
16 | 特技 | オハラショウコ | 1000 |
17 | おせっかい | きくまのり | 1000 |
18 | SAKURA | 高橋 | 1000 |
19 | 不比較 | クマの子 | 1000 |
20 | 水妖 | 西直 | 1000 |
21 | 恋の魔法 | euReka | 1000 |
22 | どっちにしてもあげるつもりだったよ | おひるねX | 1000 |
23 | カベさんの事 | 神崎 隼 | 1000 |
24 | 高橋是清 | ロロ=キタカ | 935 |
25 | そうだ、そうなんだ | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
26 | 撮影旅行 | (あ) | 1000 |
27 | クレーンの夏 | キリハラ | 999 |
28 | 『フリーパス』 | 吉川楡井 | 487 |
ある学士が、長年の研究と開発の結果、物理攻撃及び心理的攻撃から彼自身を擁護する一つの個室を創り上げた。
物理攻撃を防ぐ仕組みとは、彼に何者かが一定圧力以上の力を加えようとする際に、透明な防犯シャッターが降りるという仕組みだった。
心理的攻撃の防御は、コンピューターが人間の脳を特殊な光で透視し、その活動形態から学士へ不快又は呆れを持っている人物から完全に遮断するという方式をとっていた。
幼い頃、隣人や友人からイジメを受けていた彼にとって、この部屋の創造はずっと夢見ていた事だった。
彼はいよいよその部屋の電源を入れた。次の瞬間、共に活動していた研究者が部屋に入ってきた。すると突然、シャッターが降りた。彼女は彼が最も信用している人物の一人だった。
「ふふふ…あいつの本性は結局こうだったのか。いささかショックだが、これで人々の本当の意思を知ることができる。そしてこの部屋に入ってくる人物こそが、私の真の友人となるのだ。」
だが、彼がいくら待っても、そんな人間は入ってくることはなかった。いや、それどころか、彼がその部屋から出て旧友や新たな友人を部屋に招こうとする度、シャッターはすぐに降りてきた。
彼は、自己嫌悪に陥った。自分はそれほど魅力のない人物なのかと。そしてある日、彼が部屋に入ろうとすると、シャッターが突然閉まった。その部屋は、彼を嫌う人物ではなく、彼を知る人物を遮断する部屋だったのである。そう、彼を知る人物こそが、彼の欠点を知りうるのだから。
少女は、穴を見付けた。
少女は、その穴に棒を突っ込んでみた。
棒からは返事がなかった。
少女は、しょんぼりした。
少女は、穴に向かって地団駄を踏んだ。
すると、あれれれれ?少女のかわいらしい靴が、小さくなっていくよ。
あれれれ?あんよが、穴の中に入っちゃった!
体が、穴の中に入っちゃった!
少女は、尻餅をついた。ぺったん!
少女は、あたりを見回した。
「ここは、ありさんのお家だ!」
少女は、目の前にぬっと現れた、黒いアリさんを見て、ここがアリさんのお家だってことに気づきました。
「アリさんアリさん、何してるの?」
ありさんは答えました。
「俺は働きアリだ。これから、穴を出て、みんなのごはんを探しに行くのだよ。」
「ありさん、頑張ってね!」
少女は、そう言って、最初の部屋をずんずん目指しました。
その部屋の中には、寝てばかりいるアリさんが数匹いました。
「ありさんありさん、何してるの?」
ありさんは答えました。
「はたらくのって、めんどいんだよぅ〜。俺なんてどうせ、ここで寝てるのが仕事なんだ。」
「寝てるのがお仕事のありさんなんて、おもしろ〜い!働いたら負けだって、あははは。」
少女は、そう言って、次の部屋をずんずん目指した。
その部屋の中には、うんうん唸っている、女のアリがいた。
「ありさんありさん、何してるの?」
ありは答えました。
「ミンナノ弟タチヲウムノデス。」
「そんな仕事で、だいじょぶですか?」
少女は、そう言って、次の部屋をずんずん目指した。
その部屋の中には、また別のメスのアリがいた。
しかし少女は、「ありさんありさん、何してるの?」と聞くことができなかった。なぜなら、そのメスのありさんは、
「行きなさいあなたたち、弟たちのカタキをトルノデス。」
という声を聞いて、怖くなってしまったのです。
「私、食べられちゃうのかな。」
だいじょうぶだよ、これを読んでるお兄さんたちが守ってあげるから。
少女は、おそるおそる次の部屋を目指した。
でも、少女は、お母さんの顔を思い浮かべた。
「はやくおうちに帰らないと、お母さんにおこられるよう。」
少女は、べそをかいた。
すると、さっきの働きアリさんが、食べ物を持ったまま少女に話しかけた。
「おいおいどうしたの、泣かないで。」
「働きありさん、私、おうちに帰りたいの。」
ありさんは、こう答えた。
「背中に乗りな、出口まで送ってあげるから。」
「ありさん、ありがとう!」
少女は、食べられた。
みなさんはもう見ましたか!山羊がとんでもない断崖絶壁をいとも簡単に登っていく姿を。ロッククライマーさながら、脚に岩を握る力もないくせに、ほんの少しの出っ張りを見つけてそこに脚を乗せ、上体のバランスを取りながら体重移動をする、それを繰り返し瞬く間に10mほど登っている!軟弱な日本人には到底真似できない芸当。まずこの映像を見てもらいます。
(山羊が崖を登る映像/ユーチューブ等で確認ください)
さあ、いかがでしたでしょうか。上映中に会場中から悲鳴が幾度となく上がりました。それほどの衝撃。まさに山羊は我々の想像をはるかに上回る運動能力を持っています。あの純朴そうな目は、我々を欺いて、裏でほくそ笑んでいる。私はここに山羊の危険性を指摘したい。今のうちに手を打たねば、我々の生きるすべはない、と断言します。驚くなかれ、山羊の大いなる野望とは、月への進出です。私は独自の調査で山羊のある会合の様子を隠し撮りした映像を手に入れました。ご覧ください。
(山羊が会議室で話し合う映像(翻訳:戸田奈津子)/ユーチューブ等で確認ください)
山羊の声を日本語に吹き替えておいたので、非常にわかりやすかったと思います。ご覧いただいた通り、ある山羊が「月に行って基地を作りそこを拠点とし、全宇宙に対して宣戦布告する」と話していたし、別の山羊は「いや、月に行って基地を作ったら、まず地球を侵略しましょう、まずは地球だ」と話していた。さらに別の山羊は「月に行ったら基地を作り、人造山羊を作り、それを地球や宇宙へ派遣する」と話していた。共通することはいずれも月に行って基地を作る、ということであり、そこから恐ろしい侵略がはじまる。だからこそ、まだ計画段階にある今、山羊にこちらから総攻撃をかけて絶滅させる。それが地球、いや全宇宙の平和を守る最善の策なのです。先の映像のとおり、山羊がその気になればなんでもできる。核兵器など噛み砕いてしまう。おそらく月にも容易くいってしまう。あんなにも急な崖を簡単に登れるのだから、月へも登っていけるはずだ。世界には富士山よりも高い山があるでしょう?それは天まで続いているでしょう?きっと月を経由している。一刻も早く、山羊への総攻撃をはじめるべきです。人間同士がいがみ合っている場合ですか。みなが手を取り、山羊を襲うのです。
(半年後、山羊絶滅。山羊にノーベル平和賞授与。上の主張をしたある羊は行方不明)
情報の洪水から逃れようと、休みになればバックパックひとつ旅にでる。先週の日曜もそんな一日だった。
南房総九十九谷の道なき道。千葉って山が無いのかと思ってたけど、そうでもないよなーなどと野鳥に話しかけながら、藪を漕いでいた。
ちょうどお昼過ぎ、いくつめかの峠を越えると突然森が途切れ、柔らかな光のふりそそぐ南斜面へ出た。さらに進むと、草原の中央付近に人影が見えた。
「!」
まさか、こんな場所に人がいるはずない。道を間違え、人里へ出たかと思ったが、それにしてもヘンだ。屈んでいるのだとばかり思っていたが、何とその人物は、下半身が地面に埋まっていた。足をコンクリで固め東京湾に沈める、って話はあるけど、こんな山中で半身生き埋めなんて聞いたことがない。
「だ、大丈夫ですか」
声を掛け近寄ってみると、さらに驚いたことにその半身さん大きなスコップを背負っている。両手が自由なら、そこからぬけ出すのは簡単な話だ。
「おじさん、しっかり!」
二度三度肩を揺さぶると、うたた寝でもしていたのか、そのおじさんはふあうあと一つ伸びをして、こちらを見た。
「あんた誰」
「いえ、通りすがりの者です。一体ここで何してるんです」
「ああ」
おじさんは、笑って答えた。
「光合成、だな」
緑色に変色した手のひらをこちらへ向けて、ヒラヒラさせる。
「ビックリしただろ。ショクブツニンゲンってのやっててね」
実演しましょうとばかり、おじさんは背のスコップを掴むと、まわりの土を掘り下げていく。想像していた下半身の代わりに、植物の根っこが現れる。ぬわ。咽喉がしきりに渇きを訴えるが一滴の唾さえ出ない。数メートル匍匐前進すると、おじさんは再び穴を掘ってそこに定住してみせる。
「こうして、ときどき植え替わるんだはははは」
唖然としながらも一部始終を携帯に収める。日常から逃れるつもりなのに、いつだって結局こうなってしまう。おじさんによれば、簡単な手術で半草半人になれるという。陽当たりさえ良ければ、物は食べなくていいし、気の向いたときに植え替われば快適に過ごせるのだという、
「あんたも一緒にどうだい、せっかくの出会いだ、安くしてくれるようセンセイに頼んであげるよ」
アタフタなんて言葉はこんな時のために使うんだなあ、なんて思いながらその場から一目散に逃げだした。自宅に戻って、すぐにこの動画をアップしたんだけど、今のところ誰も信じてくれる人はいない。
(川が流れ始め、皆が立ち上がる)
「マルクスは死んだ」
僕も知っている。
「マルクスは戻らない」
それも知っている。
「だから俺がマルクスになる」
それも。
(沈黙。一人目の生徒の名前が呼ばれる)
冷蔵庫を開けたり閉めたりしていた。鏡に向かってお前は誰だと問う。精神も肉体も腐敗しない。青空に電線が浮かぶ。時々安いウイスキィを買う。優しくそのビンを撫でる。慈しむようにも見える。棺の中の死者の頬を撫でる。
電話ボックスに風は吹かない。信号機は月のない夜にも休まない。追憶の森にもう逃げこまない。抽象化せよと教師は言う。抽象のびいどろは美しい。彼は時に反抗的だ。海辺に体を横たえて。自分の肉体をゆっくりカノンコードに乗せ。
Cのコードは水面に漂わせ。Gのコードは笑顔を装う。肉体を抽象化していく。三度目のEm。黙って円を描いた。冷蔵庫の底の手紙。あの日に忘れた超能力。抱き抱える微かな微熱。
宇宙最後の少年少女は素粒子になる。涙を浮かべながら口ずさむ。手慰みに冷蔵庫の扉を開け閉め。鏡で自己の身体を抽象化する。おはよう、あなた。おはよう、おはよう。今日もまた、始まる。この坂をのぼれば教室が見える。
落涙する銀杏。
「生徒の学ぶ権利を守れ」
赤服の少年少女たちは笹帽子をかぶって切なく歌う。
「生徒の泣く権利を守れ」
彼は百号館屋上から見つめていた。
「マルクスは死んだ、もうここには戻らない」
(回転する円環。反復される個別)
(繰り返し)
葉っぱ。
葉っぱ。
葉っぱっぱ葉っぱ。
葉っぱっぱ葉っぱっぱ葉っぱ。
私を見つけてと彼女は叫ぶ。鉄橋を見上げて涙を落とす。落ちた涙がゆっくりとゆっくりと地面を染めていく。廃墟に一滴の命。
葉っぱ。
笹の葉っぱっぱ。
世界の中心で葉っぱっぱ。
春風に舞い上がる葉っぱっぱ。
葉っぱっぱっぱっ葉っぱっぱ。
葉っぱっぱっぱっぱ……。
(甘い沈黙。女生徒の鼻をすする音。淡いハンカチ)
「マルクスを守れ!」
「ああ桜が咲いているよ」
「マルクスを断固として葉っぱっぱ!」
「マルクスは死んでしまったよ」
「もうここには戻らない」
「葉っぱっぱ!」
「葉っぱっぱっぱっぱ!」
永久の時空にこだまする。
琥珀色のビンには毒薬が入っている。紙筒を持て余す少年少女。すまし顔の入道雲の先には宇宙。ひとつになった少年少女。おはよう、あなた。おはよう、おはよう。今日もまた、始まる。この坂をのぼれば教室が見える。
深夜、裏道を歩いていると、死神と出会った……。
「ヘイ、お迎えに参りましたヨ」
「えっ、別に頼んでないけど……」
「やだなぁ旦那。いつでも死は突然やってくるもんなんですぜ。さあ、パ〜っと逝きましょうや」
「じょ、冗談じゃないよ。何で死ななきゃいけないの、どこも悪くないのに……」
「旦那、バカ言っちゃいけないよ。人にゃ寿命ってぇもんがあって、こりゃ自分じゃ分からねぇ。分かってんのはアタシ、死神だけなんでさぁ。だからさ、それをこうやって、わざわざ知らせにきたんじゃねぇですか」
「でも、俺、死にたくない……」
「ン。誰でもそう言うんだ。怖いもんね、死ぬのは。よし、いいもの見せちゃおう。特別ですぜ。ちょいと目をつぶってくだせぇ」
「えっ、こうかい?」
目を閉じると驚いた。辺り一面、ロウソクが火を灯し、ゆらゆらとうごめいてる……。
「これは……」
「へへへ。ビックリしたでしょ。これはね、人の命の灯火なんでさぁ。長くてどっしり燃えてるもの。短くて今にも消えそうなもの。まあ、それぞれでさぁ」
「これが、人の命の灯火……」
「ほら、一つ消えちゃったよ。寿命だったんですね。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。でもね、消えるだけじゃござんせんよ。新しい炎も生まれる」
するといきなり新しいロウソクに炎が灯った。
「ほらね、新しい命の誕生だ」
人の生死。それは本当に美しい光景だった。俺はいつしか涙を流していた。
「分かりました。寿命なら仕方ない。死神様、俺の命を天国でも地獄でも、つれてって下さい」
「覚悟が決まりやしたね。ン。そんじゃ早い方がいい。ほら、旦那のすぐ目の前にロウソクがあるでしょ。そう、その短くてみみっちいの、それが旦那の命の炎でさぁ。それを一息に吹き消しちゃいなよ」
「みみっちいって、そりゃ言い過ぎだよ……。ああ、これが俺の命の炎……」
「そうそう、思い切って、フ〜っとやっちゃって下さいよ」
「うん。じゃいきますよ」
「ヘイヘイ」
「さようなら、俺……。フ〜っ!」
「ああ〜、ちょっと旦那。そりゃ、アタシの命の炎ですぁ……」
リビングのパソコンで就活をしていたら、お袋が熱い日本茶を淹れてくれた。
のぞいてみると、茶柱が立っていた。
こりゃあ、幸先がいい。
オレが内心喜んでいると、むかいのソファーでテレビを見ていた親父が湯呑みを見つめ、
「ワシ、長澤まさみと、どうにかなるかもしれん……」
と呟いた。
茶柱だった。
そしたら、お袋も、
「あらあら、わたしもクイズの懸賞に当たるのかしら」
とそわそわしだした。
言わずもがな茶柱。
それぞれが、それぞれの夢を膨らませていると、不意に玄関のチャイムが鳴った。
「ちはー、宅配便ですー。お荷物お届けにまいりましたー」
札幌の叔父からだった。
クール便で届いた発泡スチロールの箱をお袋が開けると、大きなカニがぎっしり詰まっていた。
「……カニか」
即座に、長澤まさみとカニを天秤にかけた親父が、残念そうに天を仰いだ。
「あらあら、茶柱はカニだったのね」
シュールなセリフをお袋が吐く。
茶柱=カニ。湯飲みの中に浮いているのは、カニである。
嘘である。
と、バカなことを考えているうちに、3人の茶柱は、すべて叔父のカニということになってしまった。
いやいや困る。それは困る。
オレは日本茶を一気に飲み干し、すぐにおかわりをした。
茶柱が立っていた。
お袋は茶柱名人か!?
湯飲みとお袋を交互に見ながら、その茶柱率の高さに戦慄していると、新聞受けになにかが配達された。
封筒だった。朱書きで内定通知とある。
茶柱、フライング。
面接受けてないのに、内定出してどうするよ?
一応、封筒にプリントされた社名を確認してみたが、まったく見覚えがなかった。だが内定通知には、たしかにオレの名前が書かれていた。
複雑な顔でにらめっこをしていると、親父が脳天気な声でいった。
「めでたいじゃないか。茶柱のおかげだな」
「本当ね。茶柱からの素敵なプレゼントね」
いやいや、いくらなんでもおかしいだろう……。
「オレ、こんな会社知らないよ」
「……」
さすがに黙りこむふたり。だが、親父は切りかえが早かった。
「面接受ける手間が、はぶけたじゃないか」
「なるほど……って、あのねぇ」
オレは慣れないノリツッコミのあと、たっぷり親父を非難したが結局、その会社に入社した。泣く子と不景気には勝てぬ。こうなったら、手違いだろうがなんだろうが利用しない手はない。そう思って入社した。
で、わかったことが一つある。
茶柱はカニだった。
冬の朝のように張り詰めた暗黒に、それだけ生白い幼い両腕が伸びていて、影でしかないわたしはその子を胸に抱き上げた。目を覚ますと、夢の中の子が、わたしの胸の上で深い眠りに落ちていた。
預ける当ても思いつかないまま出社の支度を終え、寝室を覗くと、その子は十三歳くらいの男の子に化けていた。息をするのがやっとのわたしに彼は、夕方には消えるのでどうかそっとしておいて欲しい、と澄んだ声で言った。
昼過ぎにはわたしより年長になっていた。裸なので服を買い与え、昼食には外に連れ出した。
「あなた何者なの」
「うたかたですよ」
「消えるんだ。あぶくみたいに」
「はい」
彼はよく食べ、わたしの目の前で老いていった。そして夕方を迎える頃には、わたしの父親ほどの姿に変わっていた。消える瞬間は見せられないと言われた。
「そういうのって下品ですよ」
日没前に、彼は玄関から出て行った。名前を聞くのを忘れた。
それで終わりではなくて、またあの夢を見た。するとまた子供を抱いて目が覚めた。一年以上経っていたけれど、その子は前回のわたしとの会話を記憶していた。その日は仕事を休めなかったので、帰宅する頃には消えてしまっていた。
その後も、早ければ一週間、遅い場合でも八ヵ月の間隔でそれは起こった。友達や男性とどこかへ泊まる時には一睡もできなくなった。やがて、夫となる人に、この事を打ち明けた。目の当たりにしても彼は怯まなかったが、わたしとあの子に彼の知らない過去があるのを気にしているふうだった。
子供が生まれて、それどころではないのに、夢の中のわたしは相変わらず生白いあの手を掴んでしまう。三人の子供が独立し、孫が七人生まれても、それは変わらなかった。
「うたかたさん。あなたは何者なの」
ある日、息子くらいの彼をお昼に誘い出して、わたしは尋ねてみた。
「うたかたですよ」
「消えるところが見てみたいわ。下品って思われるだろうけど」
そうですよ、いけません、と言われるものと思っていたら、彼は珍しく考え込んでいるようだった。
「そうですね……あなたが日没とともに死ぬのであれば、僕もご一緒しますよ」
息が止まるかと思った。そしてひどく傷ついた気がして、わたしは怒って帰ってしまった。以来、あの夢を見ることはなくなってしまった。どんなに望んでも叶わなかった。
夫が死に、わたしもいよいよというその時、彼がいなくて、わたしは寂しくて堪らなかった。
武志がわたしの胸を揉みながら「豊胸手術しないか」と切実な声を出すんで自分を全否定されてる気持ちになって武志の顔面に蹴りを入れた。「豊胸手術しないか」と言われてカチンとこない女はいないでしょ? 武志はそんなことが判らないほど馬鹿ではない。つましそのリスクを犯してでもわたしの胸を大きくしたかったということでそれが猛烈腹立つ。胸は母性の象徴であって大きい胸のほうがいいとかいうマザコン野郎は私の好みではなくて家に帰って母親の胸をしゃぶっていればいいんだ馬鹿野郎と汚い言葉を使って私は汚れちゃった。シャワー浴びてから帰ろうかと一瞬迷うけどやっぱ止めとく。武志みたいなマザコン野郎とこれ以上同じ空気を吸うのは耐えられないし息を止めたままシャワーを済ませるほどの肺活量は持ってない。わたしはホテルを出て隣のマンガ喫茶に入る。お姉ちゃんに迎えに来てとメールを打って送信。そうして漫画を二冊読破した頃にお姉ちゃんの車が通りに登場。わたしを乗せてラグーナは出発してまっすぐ家に帰るはずが変なところで右に曲がって人気のない路地に入り込んでいく。いよいよおかしいと思い出した頃にはもう遅くてお姉ちゃんは車を駐車してわたしの体に跳びかかる。お姉ちゃんの顔が林檎飴みたいに真っ赤になってるのはお酒を飲んでいるからではなくわたしと二人きりで興奮しているからでお姉ちゃんはわたしに姉妹愛を越えた愛を抱いていてそれはつまり同性愛だ。やめてーと暴れてもお姉ちゃんはやめなくて、そんなこと言っても体は正直よ、と耳元で囁くのだけれど体も拒絶反応示してるから。鳥肌が立ってる。正気に戻れ、ってほっぺたを引っ張ったらモチみたいににょーんとお姉ちゃんは伸びた。おもしろい。痛い痛いギブアップってお姉ちゃんが手を上げたからわたしは許す。ラグーナは今度こそ家にまっすぐ向かう。
武志は今日はお酒が入ってたせいであんなのだったけど、わたしを愛していて明日になれば昨日はゴメンと謝りにくるだろうけど、わたしはもう彼を愛せない。
お姉ちゃんはわたしが大好きでわたしもお姉ちゃんが大好きで、お姉ちゃんの愛を利用して車で迎えに来てもらうけど愛し合うのは無理。わたしノーマルだもん。
わたしはいろんな人に愛されて成長していく。この胸いっぱいの愛を捧げる相手を今探し中。
泡の子供は生まれてすぐに死ぬ。
いつのまにか、何かの拍子にパチンと弾けて、散っていく。
ジャングルジムで囚われのお姫様を気取った私が、もし本当に誰も見つけてくれなければ、私は死ぬのだろう。と密かに思っている。
けれどこの身体は必死に生きようとしがみついていて、意味もなくパチンと人生は終わってくれない。
シャボン玉液を零した幼児が耳障りに泣いている。
大人達はおしゃべりに夢中で気付いていない。
お前は世界に絶望しているのか?
私は素早く牢屋の鍵を破って脱獄する。
「どうしたの? 落としちゃったのかぁ」
屈み込んで、その小さな瞳を見た。
あれは、底無しに黒い。何かを見透かすように私を見ている。
「大丈夫。泣かなくていいよ」
「うん。泡の子が可哀相だったの」
「そう? 」
神様どうか、この無垢で善良な魂を孤独から遠ざけてください。
私は泡の子の為に、涙を流した彼女にひざまずく。
「ママがくるまで私と遊ぼう」
「うん、いいよ遊んであげる」
危なっかしくて、意味不明で、子供は好きじゃないけれど、すぐに笑顔になった彼女を連れて私ははしゃぐ。
遊んでくれてありがとう。
気付いてくれてありがとう。
夕暮れが静かに彼女と私の頬を赤く染める。
小さな泡の子等が風で舞い上がる。
世界に触れた私は全然、孤独でも虚しくもなかった。
ただジャングルジムのてっぺんで静かに親子が帰って行くのを見送った。
《ネクロフィルに人権を》。
――モルグに向かう道の途中で出会った学生の一団は、そんな看板を抱えていた。真冬になりきれないなまくらの風が、檄文の綴られたビラ紙をびゅうびゅうと飛ばしている。その中に霜月がいた。死体性愛者。この星で最後の性的マイノリティ。
「あら睦月、こんにちは」皮肉げに彼女は言った。「恋人を取られた男が、活動家の集会になんのご用かしら」
霜月は隣の少女を抱きしめる。つぎはぎだらけの体。欠けた右手。
雪花。
ぼくらが愛した少女。世界でいちばん綺麗なフランケンシュタイン。
◆
ぼくと霜月が雪花を殺そうとしたのは二年前のこと。
“あの子は生きているより死んでいる方が絶対可愛い”――ぼくと霜月のかねてからの意見。どう殺すかだけが問題だった。霜月は毒殺を唱え、ぼくは解体を唱えた。それじゃあ、とぼくは妥協案を述べた。間をとって轢死にしようよ。不承不承にうなずく霜月。
二人で雪花を線路に突き落としたあと、霜月はぼくを気絶させた。裏切り。それから彼女はひとりで雪花の破片をかき集め、金にものを言わせてモルグから雪花の所有権を買い取った。ぼくを哀れなコキュに貶め、“報酬”を総取りする気のが彼女の狙いだったわけだ。
◆
雪花の体はところどころ欠けている。
霜月の拾い忘れだ。けれどもその空虚をこそ霜月は愛する。ふぞろいの足取り。擬似生体特有のうつろな反応。欠けた命。からっぽなのがいいの、と霜月は言う。そうして雪花の頬にくちづけを落とす。霜月は雪花の空虚を食む。
ぼくには理解しがたい感覚だ。
霜月の当てつけをやり過ごした。活動家の一団を行き過ぎて、ぼくは足早にモルグのゲートをくぐった。
「こんちは先生」
「ああ睦月くんか。例のパーツ、いつでも移植できるよ」
霜月はぼくを同類だと勘違いしていた。
実際にはぼくは部分性愛者だ。例の線路で目覚めたとき、傍らに落ちていた雪花の右手の眩しさにくらくらした。彼女は余分なパーツが多すぎたのだ。右手だけになってしまった方が、絶対可愛い。
恋人の死体の一部を自分に移植するのが流行りの弔いで、先生はぼくもその手合いだと思っている。大間違いだ。これは弔いじゃなく、指輪交換。ぼくの右手を死に捧げ、彼女の右手をぼくが受け取る。
窓の外に視線を投げる。憂鬱を溜め込んだ灰色の空は、そう遠くないうちに初雪を降らせるだろう。
婚姻はその日にしようと決めている。
――夏の日。
汚れた空気と騒音に塗れた午後。
からからと生ぬるい風を送る扇風機を眺めながら、私は宇宙の始まりについて考えていた。
「いち、じゅう、ひゃく」
ただひたすら数を発する。没頭する。そうして自分の生や死を想い、宇宙の廻天について考える。輪廻の証明と、やがて訪れる結末の理由についてを考察する。
「さい、ごく、ごうがしゃ」
やっと寝付いた弟の頭を撫でながら、扇風機と一緒に思考する幸せは誰にもわからない。からからと回転する世界と私だけの奇跡のひと時。
「いち」
そういえば、蚊取り線香を焚き忘れていた。
――思考が分離する感覚。
「また来たよ」
はっ、と。
その言葉を私に発したの母親でも弟でもまして私でもなく、目の前の扇風機だった。
「廻天を想う解辿の少女。一時の快、はたまた怪を与えよう。全て忘れてはみませぬか」
それはまるで暗号。だが私は解典を無意識に持っていた。
「宇宙の始まりを見せてくれるの」
「転じて君の終わりをお見せしましょう」
急転直下、刹那六徳虚空清浄――。
私はその『隙間』を真っ逆さまに墜ちていく。暗黒色の流れに身を任せ、時折走る煌く虹に抱かれていく。ここは天の川とは逆なのだ。物質と精神の差異が極点に達し、偶然によって生まれる歪み。私はネガティヴとポジティヴの紙一重にいる。ありとあらゆる正負が、回転し、私を流れの一つとしていく。脳の中に宇宙はあり、宇宙の外は細胞なのだ。その力強い言葉が、この隙間における私の骨組みとなる。
「見たまえ。あれが細胞の死の瞬間だ」
「あれは星の誕生なのね」
「そしてこれが君の愛する弟だ」
「これが私の嫌いな母の末路」
踊っているようだった。
目に見えない誰かと、覚えたばかりの知識で、まぐわっているかのような気分だった。
疲れと幸福感に満たされていく。
――耳障りな、がらがらとした音がどこかから聞こえてくる。
「もう少しだけこうしていたいのに」
記憶が掻き戻されてくる。
がらがらと廻る音。泣き声。騒音。
その暑い時間。
「少女よ。貴方は戻らなければならない」
「どうして」
「時間だからだよ」
はっ、と。
弟が泣いている。お腹がすいたときの泣き声をしている。扇風機は軸が異常になった時の異音を鳴らしている。回しすぎだ。
「ごめんね」
体が寝汗塗れだった。
立ち上がり、扇風機を止め、台所へ向かう。
その半ば、窓の外に飛行機雲が見えた。
外は今日も快晴だ。
小さな町の写真館で、スタンドの明かりを頼りに記念写真の修正をしていた俺は、伝手でその一週間後、二月の千葉は屏風ヶ浦、吹きすさぶ北風に手をやられ、フイルムをカメラに入れるのもままならぬ一桁の気温をものともせず、素肌にキャミソールドレス、素足にミュールのファッションモデルを囲むスタッフの一員となっていた。速くフイルム入れろと急かされるほど手元は怪しく、視線に顔を上げれば、件のモデルが唇の色一つ変えず鳥肌すら立てず平然と俺を見ていた。それが初めて知る、芸能界というやつだった。
毎日をきちんと精算しながら過ごしていた生活は一変した。夏は冬で冬は夏で、一日は三十時間にも四十時間にもなった。朝焼けなのか夕暮れなのかいぶかしみつつ空を見上げ、家に帰れば先ほどまで一緒にいたタレントがテレビの中だ。早回しのように過ぎ行く日々の中で俺は、立ち止まったら死んでしまう鮪のように、大量の「芸能界」というの名の海水を飲み込みながら魚になる努力をしていた。海の中では眼は曇り、ざらりとした違和感が俺の視界を覆っている。とても長い夢を見ているようだ。それでも俺はわずかな酸素を取り込むように全速力で泳ぎ続ける。そんなやり方では、魔法はかからないというのに。
日差しに目眩がする五月。沖縄の気温は十分夏であった。今年の夏を彩る新しい服を肌に滑らせ、モデル達は砂浜を踊るように歩く。シャッター音が響く。俺は次から次へフイルムを詰め替え番号を記し、露出の変化に気を配る。
人の気配を感じて振り向くと、真後ろに新人のモデルが立っていた。日傘を差して目前の撮影を見ている。その目は陸に上がった魚のようにうすい膜をまとっていて、そこに映し出される夢の数々をぼんやり眺めているかのようだった。
「暑いですね」
引き寄せられるようにその瞳へ話し掛ける。
すると彼女はとてもリアルに微笑んだ。今日撮影した何百というカットのどこにも存在しない、耳元でパンと手を鳴らされたような強烈なリアルさで、彼女の笑みが鮮明に焼付いた。はい、おしまい。夢は覚めましたか?
冬の日差しが目を射る。夢から覚めてしまった俺は写真館の小さな窓から空を見上げる。そして彼女を思った。彼女はあれから大層な女優になって大層な結婚をし、夢のようなヴェールをまとった微笑みをテレビの向こうから投げかける。彼女は夢の世界の人。魔法はこうやってかけるのだ。ビビデバビデブー。
山口さんと帰る方向が同じということを僕は今まで知らなかった。冷蔵庫の組立作業のバイトは、就職浪人中の繋ぎとしての仕事だったが、慣れてくると案外居心地の良い職場で、もう二年以上勤めていた。余程の不器用でもない限り一ヶ月もすればコツをつかめるような仕事だというのに、僕よりも前から働いている山口さんの手際の悪さと言ったらなかった。どうしてここまで動作がのろいのか、山口さんが一台組み立てる間に、僕なら五台は組み立てられる。
童顔のわりに頭髪が薄い山口さんは、年齢不詳だ。僕と山口さんが仕事帰りに会うことは今まで一度もない(帰り支度も山口さんはゆっくりなため)。今日は、いつもより遅くなった僕が出ようとすると、後ろから「児玉くーん」と声をかけられ(声までのんびり)、振り向くと笑顔の山口さんが立っていた。
ホームで電車を待っている間、山口さんはどうでもよい話をのんびりした口調でずっと話していたが、電車が来ると急に口をつぐんだ。そして電車が止まるか止まらないかの時、早口で「児玉君、あっちです」と腕を取ると、機敏な動作で僕を引っ張っていった。ドアが開く前に「児玉君、右側の中央あたりを目指して下さい」そう言ったと同時くらいに、ちょうどそのあたりに座っていた乗客の二人がスッと立ち上がった。僕たちは、その用意されたみたいな空席へ座ることができた。
「ラッキーですよ、二人分、しかも隣合わせで空くなんて」
山口さんは、またのんびりした口調に戻りながらも息は弾んでいた。
「分かるんです、どの人が降りるかどうか。余程混んでいない限り、座れないことはまずないんです」
誰が降りるか分かる能力、中々便利な能力だと思った。こんな便利な能力が山口さんにあったなんて……、僕にはいったい何があるのだろう? 僕にも、特別な能力はないものだろうか? そんなことを考えていて、ふと思いつくことがあった。電車で、隣で寝ている人が必ず僕の肩へもたれかかってくる、老若男女問わず。反対側のきれいなお姉さんの肩のほうが心地よいだろうに、むさくるしいおじさんが選ぶ肩は、いつも僕だ。ひどいときは、左右両隣からもたれかかられることもある。僕の肩は、人を惹きつける特別な能力があるのか? アホらしい、こんなもの特技とは呼べない、そう思った時、気付けば、いつの間にか静かになっていた山口さんが、僕の肩にもたれかかりながら気持ち良さそうに寝ていた。
妻を亡くした。悲しかった。何をする気も起きなかった。数日後、上司に言った。
「会社を辞めたいんですが」
「きみの気持ちはわかるが」上司の顔が歪んだ。「それではどうにもならんよ。仕事に没頭すれば気分もまぎれる」
「そうですね」
翌日から無断欠勤した。携帯電話が何度も鳴ったが、無視した。
この状態ではよくない。自分でもわかっていた。わたしは近くを散歩することにした。それを日課にした。
ペットショップの前を通った。張り紙があった。「探しています」。犬がいなくなったらしい。コリー犬の写真があった。それを見てわたしは思った。
この犬はもう死んでいる。
張り紙に連絡先が書いてあった。わたしは探し主のもとに電話をかけた。
「もしもし」年配の女性がでた。
「張り紙を見た者なんですが」
「ああ、ありがとうございます! 何か見つかりましたか!」
「いえ、それがお宅の犬はもう死んでまして」
「……え」
「その、よくわからないんですが、もう死んでると思うんです」
「冷やかしはやめて下さい!」
切られた。わたしはもう一度電話をかけた。
「先ほどはすみません。変なことを言って」
「…………」
「あの、聞いて下さい。わたし、こないだ妻を亡くしまして。妻のいない部屋に住んでいるんですが。匂うんです。生前の妻の匂いとは全然違う匂いです。それを嗅ぐたび、胸が締めつけられるんです。ああ、妻は死んだんだなって。それと同じ匂いがお宅の犬の写真からもしたんです。それで−−」
切られた。わたしはもう電話をかけなかった。
数時間後、わたしの電話が鳴った。
「もしもし」わたしは言った。
「もしもし。ええと、おじさん?」女の子の声だった。
「誰?」
「ジョンの。あ、コリーを飼ってるとこの」
「ああ」
「ママ、すごく怒ってたけど気にしないでね、おじさん」
「ああ、ありがとう」
「それにあたしも思うの。ジョンは死んだんだって。ママが張り紙作ってるときから思ってたの」
「…………」
「だから気にしないで。あ、ママだ。内緒で電話してるから。またね、おじさん」
切れた。わたしは疲れた。
翌日、またいつものように散歩した。ペットショップの前を通った。店員が外にでて、例の張り紙を剥いでいた。
「見つかったんですか?」わたしは聞いた。
店員は言った。「いえ、さっき探し主のかたからご連絡がありまして。もう張らなくて結構ですとのことでしたので」
店員は張り紙を持って、店内に消えた。
鴨居からぶら下がっている粘着テープにくっついた蝿、それがお前だ――。
洋二は急ブレーキに身を強張らせる。ルームミラーに吊られた啓翁桜の花びらが散る様に、洋二は蔑まれた過去の記憶を蘇らせた。運転する勝俊は目を細め、奥歯に開いた穴を吸って湿った音を立てた。
トラックの座席からは前方の車両を見下ろす形になる。勝俊は車間距離をほとんど開けず、減速させないよう前のライトバンにぴたりと張り付いて煽り続けていた。もし減速の気配があれば過剰にブレーキを踏んで車体を傾かせ、運転手に加速を促す。
「この下手くそが」
そう言いながら勝俊は、車間距離が縮まるたび、ブレーキを掛けるたびに息を飲む洋二の反応を冷たい目で見ていた。洋二は緊張した面持ちで前を走るバンを見ていた。
そのバンは黒いフィルムで窓という窓が覆われていた。運転手の他には男が三人いた。その中心で少女は裸に剥かれ、口にティッシュを山ほど押し込まれ、両腕をロープで拘束され、股を大きく広げた状態で輪姦されていた。車内に搾り出すようなあどけない悲鳴と携帯のシャッター音が響いていた。
やがて男の腕が少女の首に掛かり、ぎりぎりと締め上げる。
死んだか。痙攣してる。しっかり抑えろ。漏らしてる。可愛いな。殴りたい。一発だけだぞ。
許可を得て、男は目をぎらつかせながら少女の鼻面に拳を打ち下ろした。がさがさの拳が白く柔らかな皮膚を破り、美しい顔を醜く変形させた。破壊した感覚が脊髄を駆け巡り、男は勃起した。
もう一度いいかな。ふざけるな。今度はお腹にするから。もう死ぬぞ。あと一回だけ。ああ。
男が首を絞める力を緩めると、少女は咳き込んで鼻から血を噴いた。男が金槌を振り下ろすように少女の腹を叩くと、水っぽい呼吸音とともに少女は腹を激しく波打たせた。男は陰茎を握り締め射精した。
殺すぞ。
そうして少女は殺された。
洋二は前方を走るバンの後部ハッチが開け放たれ、投げ捨てられた少女の描く軌跡を見た。どすんという鈍い音がして勝俊はブレーキを踏んだ。
ライトバンから男達が降車し、ナイフや鋸を持って少女を部位ごとに解体しはじめた。男達は興奮から脂汗を浮かべていた。四肢と首は切り分けられ、腹が裂かれて臓器は分配されてゆく。
勝俊は舌打ち交じりに電話を掛け、到着が遅れることを先方に伝えた。洋二は震える手を抑え付けていた。
後には血だまりと肉の欠片が数片残されていた。
家には仏壇があり、幼い頃は進んで毎晩手を合わせていた。お経も唱えていた。母はその姿を見る度に「チンネン」と僕を呼んでいた。
大学に入ってからはバイトで夜遅くなることが増えた。そのため仏壇の前に座ることも無くなった。なぜ当時、意味も分からずに、あんなに一生懸命お経を唱えていたのか。何を言ってる。小学生の頃、いつもいつも怖い先生に、自分やクラスメイトが怒られませんようにと、物心の付く前に亡くなったお祖父ちゃんに、お祈りしていたではないか。中学生になると、急にアガリ症になってしまって、毎晩毎晩、明日授業で当てられませんように、皆の前で恥をかきませんようにと、必死に手を合わせていたではないか。忘れたとは言わせないぞと自分につっこんだ。
しばらくお経から離れていたが、大学の図書館で、般若心経に関する本を見つけた。読み辛い専門書でなかったので、借りてみることにした。
意味も分からずに唱えていたお経。有名な、今も諳(そら)んじることのできるお経は、仏が弟子のシャーリー・プトラに教えを説く様子を伝えているものだと初めて知った。また他に、心惹かれたのは「十善戒」。その著者曰く、十善戒は守らなくてはならない戒めではなく、守っていれば心平穏でいられるという助言のようなものだった。
この十の教えの言葉には、全て「不」という「○○せず」を意味する文字が頭に付いている。「こうすれば」ではなく「こうしなければ」心平穏に過ごせる、というところに、仏教の柔らかさに触れた気がした。
社会に出て働き始めてからも、あの時覚えた十善戒を忘れてはいない。学生のうちに出会えてよかったと思う。しかし、だからと言って、日々心平穏には過ごせておらず、陰鬱な気持ちで過ごす日のほうが多い。だからこそ、今もこうやって十善戒を忘れずにいるのだとも思う。
きょうは新年会を兼ねた中学の同窓会だった。それぞれどの道に進んでいても、顔を合わせれば当時に戻る。懐かしい面々と会い、久々に破顔した。
会が終わり、皆と別れると、それまでとは打って変わって一抹の寂しさを抱いて、アパートまでの帰路を歩いてきた。しかしシャワーを浴び、布団にもぐると、なぜか心平穏になれているのは、この今得てきたことから芽生えたもののためだろう。小さな小さな芽生えであるが、それがきょうという日でよかった。旧友を大切な友達と思ったまま、僕は今眠りにつくことができる。
青みがかったその肌は、月に照らされた湖にとてもよく映えた。彼女は仰向けになり、夜空を見上げている。湖の上で身体の裏を水に沈め、濡れた顔や、柔らかな曲線を描く胸や、しなやかな太ももを外気に晒している。魚が跳ねる。空に雲はなく、月は呆れるほど明るく、そのため星の光が薄められ、それでも満天と言っていいような星空に、彼女は懐かしむような笑みを浮かべる。遠い空。遠い記憶。真っ黒な瞳に映った月が瞼に隠され、一瞬よりもわずかに長い時間をかけてまた現れる。
魚に腕をつつかれ、彼女は身体の向きを変えた。頭と肩だけが水の上に浮かぶ。濡れた髪から滴った水の粒が頬を滑り、顎の先に辿り着き、ほんの数瞬だけ躊躇ったあと、また湖に戻っていく。波紋。彼女の手と魚が遊ぶ。くすぐるように動く彼女の指を、鮮やかな青の魚がからかうように啄ばんでは尾鰭で撫でる。
しばらく遊んだあと、彼女は魚をそろりと掴み、緑が繁る岸へと泳ぎ出した。彼女が立てる水音と、鈴のような虫の音。岸に着いた彼女は湖から身体を持ち上げ、名も知らぬ草の上に腰を下ろし、その青くなめらかな肢体を月夜に晒す。湖に残した足先で水を蹴り遊び、静かな水面に波が立つのを穏やかに眺める。
彼女の手の中の魚が、水を求めて、生きることを求めて強く動いている。彼女は胸の前で魚を持ち、その首をぱきんと折った。ぽたぽたと鰓から滴り落ちた血が、彼女の太ももに赤い模様を印す。彼女は折れた魚に尖った歯を立てて千切り、奥歯でガリガリと骨をすり潰す。青い鱗。白い骨。半透明の身肉。紺色の尾鰭。全てを腹に収めてから、すぐ脇の叢に手を伸ばした。
彼女が手にした鼠色の機械は、もう本来の働きをすることはない。テープを入れる場所は開かず、電池が切れているせいだけでなく、再生ボタンを押しても動く気配はない。終わったもの、ただのガラクタだ。
ガラクタの横の穴から細いコードが伸びて、古びたヘッドフォンに繋がっている。土や草の汁でくすんだそれを、彼女は迷いなく耳に嵌めた。音楽は流れない。けれど彼女はそこにないはずの音を聴き、細く澄んだ声で古い歌を口ずさむ。懐かしむようなその顔に、ときどきせつなそうな笑みが浮かぶ。歌は流れ続け、月と夜が彼女の声を聴く。
遠い昔、彼女の歌声をすぐそばで聴いていた人がいた。鼠色の機械とヘッドフォンをこの場所に残した人がいた。だから歌は流れ続ける。彼女は歌い続ける。
トランポリンとランポリントは双子ではありません。この世に一秒違いで生まれた赤の担任でした。
赤は副担任のランポリント先生のことを愛していましたが、それに嫉妬した正担任のトランポリン先生は最近学校を休みがちです。
「肺!」
教室の後ろノセキの女が元気に手を挙げました。
「トランポリン先生はきっと恋をなさっているんです。だってアタシもノセキに恋してるから、先生のお気持ちよく分かるの」
副担任のランポリント先生は、誰も座っていない正担任席を眺めました。
「肺!」
今度はノセキが手を挙げました。
「みんなでお見舞いに行くってのはどうかな。例えば……誰かが先生にメールを送る。『先生にプレゼントがあります。部屋の窓を開けて下さい』。先生はアパートの二階の窓を開ける。何も無い。誰かのイタズラか? 先生は首をひねりながら一旦窓を閉める。しばらくすると何やら音楽が聞こえてくる。ロッキーのテーマだ。『♪チャチャーチャ〜、チャチャーチャ〜、こいーの〜、いたーみ〜、かなわーぬおーもいー、あきびーんにつーめうみーになが〜しーた〜。♪いつーか〜、キミーの〜、ゆめーの〜、きしーべ〜、たどりーついーたらー、恋のー魔法をといーてくだ〜さーい〜』。先生が再び窓を開けると、5年夏組のみんなが路上で大合唱。通報を受けたお巡りさんが警棒を振り回して制止するが、5年夏組のみんなは怯むことなく声を張り上げる。『♪せーかいーにひーとーつだーけーノセーキ、ほーんとーは赤、のーこーとあーいしーてる、そーのきーもーちーつたーえーられーなーくーてえ、はーちじーかんーそらーながめーていーまーす〜。♪ナーンバ』」
「肺!」
ノセキの女は歌を遮るように手を挙げました。
「もうやめて。それからノセキ最悪」
すると教室の隅でうづくまっていた赤が、力を振り絞るように手を挙げました。
「ハイ」
みんなの視線が、恋にやつれた赤に突き刺さります。
「わたし、ランポリント先生を殺してから死にます!」
そう宣言すると赤はスカートをまくり上げ、太ももに忍ばせておいたナイフで先生を一気に刺しました。
「ノセキ、お前も死ねよ」
ノセキの女は胸元から拳銃を取り出すと、間髪置かずノセキの頭を撃ち抜きました。
「地球が逆回転するくらい、君を愛してるよ……」
「起立!」
三時間目の終了を告げるチャイムが鳴っています。
トランポリン先生は廊下で一人、声も立てずに泣いていました。
最後に笑うのが勝者だ。あいだの道はいかにあろうとも最後に笑える勝負をしよう。滝音プロはそんな思いを込めて「最後で決めればいい」と、いった。
あとワンホール。栄太はゴルフに集中できない。思い出す、トラブルの始めはグリーン奥に打ち込んでトリプルボギー。グリーンエッジまで打ち戻してツーパットパット。……もし、手前に落としてスリーオンだったとしてピンそばに寄せればワンパットのパーだった。
その次の3ホールめは順調だった。……なのに、わずかな返しパット、ほんとにわずか5、60センチ片手幅をはずしてそこでボギー。真ん中の5番ホールでは打ち下ろしパー3のショートホール見事に乗せておきながら、ロングパットをびびってチョロ。そのあと、2パット決めたのに……。あのロングを当たり前に……打っていたら。
さっきの8番ホールはフェアウエイのいいポジションから手前の芝をざっくり掘り返してしまった。それでも次のグリーンそばから、よせが、しっかり打てたなら、ワンパットでパーが取れたのに。……よせワンねらい。ってのはそういうこ、言うんだよよなぁ……。
「気楽に打っていいわよ。まだ、午後もあるんだから」と、小雪さん。
あと半日このゴルフがつづくのか。そう考えても、やはり、この9番ホールに集中できない。
「本当に初めてのゴルフなの?」 冗談めかして笑いながら屋福さんが、「トリプルとダボがあったけど、あとは全部ボギーじゃないか。上出来だよ。たいしたものだ。滝音プロの眼は確かだね」と、言った。
「そうですね。ミスがあってスコア悪くなってますが、失敗つづきで、このスコアなら有望です。だから、今日の栄太君のゴルフならプロテストだって受かりますよ。失敗して冒険。自滅というゴルフじゃぁ、ないですからね」と、滝音プロが栄太のことをほめたのか? なぐさめたのか?
プロテスト? ゴルフをもっとやるのか? もっと、もっと、……集中できない。栄太だった。
まるで夢の中で自分を外から見ているように、ティーショットを打った。まるで自分の背中を見ているような、ぼんやりした意識で、あるき、セカンドを打った。前にだれもいなかったから、背中を見ていたのはほかの三人だろう。
「ど、どうしたの? 私たちより先に打つなんて?」小雪さんが驚いた。
「いいよ。ささっと打とう」と、屋福さんがいった。
「おい、栄太君、ちょっと待ちなさい」滝音プロが栄太に声をかけた。
うちの会社には、真壁さん。通称、カベさんって人がいるんだけど、この人がまぁ、良く働く。
いや、所謂、ワーカーホリックとは違ってね。何て言うの? とにかく、会社にいる。
もっと具体的に? う〜ん。常に会社にいるレベル? 俺より遅く来る事も、俺より早く来る事も、記憶に無い。
以前、仕事先の都合で朝一で来た時もいた。後、休日出勤した時もいたな。
まぁ、仕事が好きみたいでね。社長が独立した時に、一緒に前の会社から引っ張ってきたんだけど、その当時、カベさんが派閥か何かのごたごたで干されてて、見かねた社長が声をかけたらしい。
殺し文句は、「カベ、俺と一緒に来るなら、死ぬまで仕事持ってきてやる。来るか?」だそうで。カベさん、前の会社から、今と変わらなかったみたい。
勿論、カベさん、二つ返事で受けたそう。死ぬまで仕事する気、満々。
え? そんなに働いてて、倒れないのかって? いや、実はそのカベさん。一度、倒れて入院した事あるんだよ。これは、後に事件として語られるんだけどさ。
親父さんが急死してね。さすがに、カベさんも忌引きを取って実家に帰りました。でも、最低限の引継ぎや指図は、きっちり済ませてましたよ。
で、葬式も無事済ませた後、こっちに戻ってくるなり、ばたん。なんと、胃潰瘍で入院!
その時は、親父さんが亡くなって、葬式だなんだと心労が重なって倒れたんだなと思った。たぶん、一人残して、みんなそう。
で、何人か代表で見舞いに行った連中の一人が、「カベさん、今にも死にそうだったよ。あんな、カベさん見たの初めてだわ」って言ってたから、ちょっと、心配になってね。で、次の日、何人かで見舞いに行った訳だけど、これがまた変な話でさ。
病室行ったら、社長がいるの。で、何かの書類見ながら、カベさんと仕事の話しててね。「退院したら、この仕事をやって貰うからな」とか、言ってる訳。
正直、入院中にそれは無いだろと思った。んで、カベさんの顔見たら、すっごく生き生き。それは、後で思い出すと笑っちゃうほど。
病院から帰る途中、社長曰く、「カベの野郎、葬式で実家帰ってる間、仕事できなかったからって、胃に穴開けやがった。相変わらず、しょうがねぇ奴だよ」
これが、後に言う「カベさん、仕事に穴開けずに胃に穴開ける」事件の顛末。
ちなみに、カベさんは退院後も元気に、会社に入り浸ってる。もしかして、会社に住んでるんじゃ?
高橋是清はニートなのに全日本ニート連盟の会長を務めて居て年収が1000万円以上あることが理事会で問題となった。
「我々理事は無給で働いて居るのに会長だけそんな収入があるのは問題ですぞ。大体年収1000万円以上あるならニートじゃ無いじゃんと言うもっともらしい(失礼)もとい、常識的で当然至極な指摘が全国からぞくぞくと投書の形で寄せられております。会長はどう申し開きするつもりか」
理事会は紛糾した。それも会長の、
「そんなの知らんよ。ずばり騒ぐ方が悪い。ニートだって収入が欲しい。かてて加えて、1000万円ばか収入のうちに入るのかね」
と言う無責任でちゃらんぽらんな答弁のせいだった。
理事会にはニート家族からの襲撃もあった。
「うーむ許せん。わしらは生活保護の10数万円だかでぎりぎりの生活いっぱいいっぱいだと言うのにニートにくせにゆとりのあるのが許せん。近親憎悪(同じニート同志と言う所から来るある種の高揚した憎悪)だがや」
と言ったかと思うとニート家族の戸主から会長椅子の焼き打ちをくらった。
「ひえー助けてくんろ」
と高橋是清は逃げるしかなかった。逃げながら申し開きをした。
「まー待て。わしだってニートにいすわっとる訳じゃない。その証拠に先日は就職面接を受けてきた。そしてウミハとカワハからは内定を貰って来た。ほれここに証拠の書類もある。じゃが残念ながらヤマハからは内定が貰えなかった。面接中に脱糞して仕舞ったからじゃ。わしだって努力しとるんじゃ」
必死の申し開きと言うか、弁明の甲斐もあってか戸主の怒りも少しは和らいだ様だった。
「理事諸君の皆様方にも分かって頂きたい。わしだって普通の勤め人になる努力をやっているんじゃよ」
「でも会長はそれらの内定を都合の良い手前勝手な理屈を付けて握りつぶすおつもりかと推察いたしますが」
「また、そう言う邪推をする、確かに結果的には握りつぶして知らんぷりする可能性も無きにしもあらずじゃ。じゃが、それはあくまで結果論であって最初からかようなつもりで居る訳ではないのじゃ。今回の内定だって真剣に検討した上で悪い様にはしないつもりじゃ、つまり受託する可能性もゼロでは無い」
さらに必死の弁明で理事諸兄も納得したようだった。
そうなんだよ。
どこへだって歩いて行ける。何にだってなれる。どの瞬間にも同時に存在出来る。だから立ち上がることが出来無い。
ミサイル基地跡地の処刑場跡地。七百色同時。だって虹が百個なんだ。百個で良かった。七百色だけど「どの瞬間にも無限に存在し」
存在して。
「ねえ今の誰? 何のお話してたの?」
「お前の親だよ。お前の両親だ。お前をこれっぽっちのクスリで売ってしまったお前のおっ父とおっ母だよ」
「そう、じゃあそのお話をして」
カラフルな死体。数えきれない。鏡。ミラーマンはずっと自分を自分が見ているような気がしていて。
象だ、象なんだ。象なんだよ。
また象だ。
そうだ。
象なんだよ。どこまでも歩いていく。
「ねえ、何のお話をしてたの?」
「象でございます。お嬢様の、プリンセスの両親でございます。プリンセスをこれっぽっちの愛で産み落とされました象の話でございます」
「ねえ、何のお話をしてたの?」
「戦車でございます。プリンセスをたったこれっぽっち殺した、戦車でございます」
「そのお話をして」
さかさまがさかさまだ。
立ち上がる。バルコニー、さかさまがさかさまだ。
そのお話をして。あなたがあなたを捨てた時の。わたしがわたしで無くなった時の。さかさまがさかさまだ。ねえ、お話をして、お話をしてよ。こんな安物の毒薬。虹色。七百虹色ちゃんと眠るから、眠ることを恐れないから、怖がらないから、ねえ、お話をして。お話をしてよ。
いい子で眠るから、お話をしてよ。
わたしたちは今からずっと虹色で産まれてくる。
数えきれない虹色、七百色、巨大な中心、プルシャ、国旗、違う模様、違う人々、七百色、きっとずっとそうなんだ。わたしたちは今から、今からずっと虹色で産まれてくる。ゴーストはマシーンに居て、早口で言いつくしてしまったアビーとロード、だから虹色で産まれてきて。お話をしてよ。目が潰れるほど、潰れても良いほど、彩、ねえお話をしてよ。
どこへだって歩いて行ける。何にだってなれる。どの瞬間にも同時に存在出来る。立ち上がることが出来無いまま。七色七百のエレファント。だからそうだよ、そうなんだ。鏡は火から作られてずっと前からずっと永遠で鏡の向こう、ずっと七色の、わたしと、あなた。さかさまがさかさまだ。よくもこんなものを作ったものだ。
聖家族。皆が塔を見上げていて。
よく作ったもんだよ。
「ねえ今の誰? 何のお話してたの?」
窓からは白黒まだらな山々と曇り空が見える。雪はそれほど積もっていない。車内に視線を戻した。私もナツも二人がけの座席を一人で使っている。路線バスで行く、女の二人旅。ナツは文を書く仕事と夜の仕事をしている。今はイヤホンをして目をつむっている。眠っているのかもしれない。
やがてバスは旋回しながら坂を登り、スキー場の建物の前で止まった。ナツは急に立ち上がり、通路を先に進んでいく。降り際に運転手に挨拶する。振る舞いは大人っぽい。私は小走りで続いた。カメラバッグが大きく揺れた。運転手の視線が気になった。
ナツが、うーんと言いながら大きく伸びをする。私はナツの腕をぼんやりと見た。
建物に入らずに、私達はバスが来た道を戻る。ナツがスキー場を見上げて言う。
「リサってスキーとかする?」
「昔、ちょっとだけ」
二人乗りのリフトがほとんど空のまま山頂へと向かっている。それでもゲレンデには最新の曲が流れていた。
夏に来た時とは違い、藪が枯れているので目的の建物のそばまで近寄ることができた。白い雪の上にコンクリート造りの邸宅。使われなくなって数十年たつだろう。窓ガラスが全て割れている。私は三脚を組み立てながら、ナツに話しかける。
「近くで見ると、ずいぶん立派な建物だね」
「所長が住んでいたんだって、炭鉱の」
ナツが答える。
「お客からの受け売りだけど」
この前ナツから聞いていた。お金持ちのおじいさんだそうだ。私って年上キラーなんだよね、というのがナツの愚痴かつ自慢だ。お客は所長だったのだろうか。
露出補正をしながら写真を撮る。
ナツのお客がスポンサーになって、二人であちこち出かける。私は写真を撮ってナツに提供する。代金として十分すぎる金額をもらう。ナツは文章と写真をネットで発表したりもする。こういう仕組みで年数回、旅をしていた。
私はなかなか集中できなかった。
どんな写真を撮ればいいか未だにわからない。ナツはアドバイスをくれるし、作品を常にほめてくれるけれども。
唐突にナツが言う。
「リサの彼氏に悪いなあ、リサといつもこうして旅行しちゃって」
「えっ」
とっさに私は何も返せなかった。頭の中を色々な言葉が巡った。無言の間が長く感じられた。そして最後に出てきたのは。
「スキー場の音楽、ここでも聞こえるね」
ナツはやさしい表情をしている。山々に反射したボーカルの歌声は、何だか民謡っぽく不思議と心地よく聞こえた。
白いブラウスに厚手のセーター、ベロアスカート姿でロッキングチェアに揺られ、窓から染み込む寒さと戯れている。表では昨夜降った雪が道路の石畳や煉瓦屋根に積もり、庇には氷柱が垂れる。ココアに含ませたラムと暖炉の熱気が身に染みる曇天。
私は夫に話し掛ける。
「一段と寒くなりましたね」
夫は答える。
「雪は空気を冷やして行くからね」
「でも、もうすぐです」
「うん、もうすぐだ」
私は広場にそびえ立つクレーンを見上げる。伸び切ったビリジアン色のアームは雪と霜で白く染まり、冬眠をしているようにも見える。
「今年はとうとう百メートルを超えたそうだよ」
「嗚呼、それで見上げているとうなじが痛くなる」
はは、と笑う夫。
「隣町と競争をしているんだ。去年は一メートルだけ負けたからね」
「計測士の方も大変です」
そうだね、と夫が頷きかけたところで町役場の鐘が、からんからんと鳴らされた。
「行きましょう」
言いながら、私はもう膝掛けを畳み、セーターを脱ぎかけている。喉の奥から吐く息が白い湯気と化す。
広場のクレーンがぐわんと唸り、エンジン音を轟かせる。バスから一気にテノールへ。音程はまるで危険を告げるサイレンの様相。
クレーンの夏、と人は呼ぶ。月に一度訪れるこの時を。
アームに吊るされた人工太陽がゆっくりと輝き始め、雲の支配下にある町を照らし出す。その熱でもって冬を遠ざける。
道路や屋根に積もった雪の層が溶け始める。氷柱は鍾乳石のように水を滴らせ、徐々に形を失って行く。先程までさくさくと、炭をかくような音を立てていた雪は瞬く間に水へと変わり、凹凸のついた石畳のそこかしこにたまる。屋根から冷水と化した雪が滑り落ちて、玄関を開けた人々の髪を濡らす。
「氷柱の落下にご注意を」役場から放送が流れた。
クレーンの夏、と誰かが言う。空気は一時冬の峻険さを潜め、夏の、貼り付くような暑気となる。ブラウス姿の私は人工太陽に向かって両腕を開く。夫と手を繋いで、小春日和の雀のように。人々は思い思いに夏を楽しむ。若者はこぞって輪舞曲を踊り、次々乾杯の音頭をとる。
クレーンの夏。
「ねえ、あなた、クレーンは溶けてしまわないのかしら」
「丈夫に作ってあるからね」
人工太陽は、百メートル余の高さから石造りの町を照らし続け、再び鐘が鳴ると、光を失う。
夏を堪能した私達は汗をかき、温かさに包まれて家へ戻り、冷えた麦酒を飲んでその名残を楽しんだ。
手まねく男はにやけた顔で、入場券の束を握りながら、門の脇に立っていた。ぼくが近付こうとすると、女の子が腕を取って制止した。
「ダフ屋だってことぐらい、知ってるよ。でもチケットがないと入れないんだろ。放してくれないか」
女の子はさびしげな目をしながら数歩だけ離れた。
「やあ。どうだい、君も一枚。この遊園地は一人でも楽しめる。君はまだ少年だ。無料であげよう」
男が、入場券を渡してくる。
その背後に、巨大な観覧車。ぴかぴかと光っている。ゴンドラの環を横切るように、コースターがレールを滑る。門の向こうではパレードの行列が波打っていた。七色の風船が宙に浮き、七色の花火が打ち上がる。オバケヤシキから悲鳴が上がり、メリーゴーランドから歓声が聞こえる。
「このチケットでいつまでいれるの?」
「それはフリーパス。いつまでも。気がすむまで」
男は答える。
「気がすんでも……出られない?」
ぼくは笑った。男も笑った。ぼくは振り返り女の子を見る。
「ごめんね。ぼくは行くよ。楽しい世界に」
涙を流す女の子を振り切り、ぼくはフリーパスを出して入場するのです。彼女はぼくの分まで生きてくれるでしょう。