第100期 #20

水妖

 青みがかったその肌は、月に照らされた湖にとてもよく映えた。彼女は仰向けになり、夜空を見上げている。湖の上で身体の裏を水に沈め、濡れた顔や、柔らかな曲線を描く胸や、しなやかな太ももを外気に晒している。魚が跳ねる。空に雲はなく、月は呆れるほど明るく、そのため星の光が薄められ、それでも満天と言っていいような星空に、彼女は懐かしむような笑みを浮かべる。遠い空。遠い記憶。真っ黒な瞳に映った月が瞼に隠され、一瞬よりもわずかに長い時間をかけてまた現れる。
 魚に腕をつつかれ、彼女は身体の向きを変えた。頭と肩だけが水の上に浮かぶ。濡れた髪から滴った水の粒が頬を滑り、顎の先に辿り着き、ほんの数瞬だけ躊躇ったあと、また湖に戻っていく。波紋。彼女の手と魚が遊ぶ。くすぐるように動く彼女の指を、鮮やかな青の魚がからかうように啄ばんでは尾鰭で撫でる。
 しばらく遊んだあと、彼女は魚をそろりと掴み、緑が繁る岸へと泳ぎ出した。彼女が立てる水音と、鈴のような虫の音。岸に着いた彼女は湖から身体を持ち上げ、名も知らぬ草の上に腰を下ろし、その青くなめらかな肢体を月夜に晒す。湖に残した足先で水を蹴り遊び、静かな水面に波が立つのを穏やかに眺める。
 彼女の手の中の魚が、水を求めて、生きることを求めて強く動いている。彼女は胸の前で魚を持ち、その首をぱきんと折った。ぽたぽたと鰓から滴り落ちた血が、彼女の太ももに赤い模様を印す。彼女は折れた魚に尖った歯を立てて千切り、奥歯でガリガリと骨をすり潰す。青い鱗。白い骨。半透明の身肉。紺色の尾鰭。全てを腹に収めてから、すぐ脇の叢に手を伸ばした。
 彼女が手にした鼠色の機械は、もう本来の働きをすることはない。テープを入れる場所は開かず、電池が切れているせいだけでなく、再生ボタンを押しても動く気配はない。終わったもの、ただのガラクタだ。
 ガラクタの横の穴から細いコードが伸びて、古びたヘッドフォンに繋がっている。土や草の汁でくすんだそれを、彼女は迷いなく耳に嵌めた。音楽は流れない。けれど彼女はそこにないはずの音を聴き、細く澄んだ声で古い歌を口ずさむ。懐かしむようなその顔に、ときどきせつなそうな笑みが浮かぶ。歌は流れ続け、月と夜が彼女の声を聴く。
 遠い昔、彼女の歌声をすぐそばで聴いていた人がいた。鼠色の機械とヘッドフォンをこの場所に残した人がいた。だから歌は流れ続ける。彼女は歌い続ける。



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