第100期 #19

不比較

 家には仏壇があり、幼い頃は進んで毎晩手を合わせていた。お経も唱えていた。母はその姿を見る度に「チンネン」と僕を呼んでいた。
 大学に入ってからはバイトで夜遅くなることが増えた。そのため仏壇の前に座ることも無くなった。なぜ当時、意味も分からずに、あんなに一生懸命お経を唱えていたのか。何を言ってる。小学生の頃、いつもいつも怖い先生に、自分やクラスメイトが怒られませんようにと、物心の付く前に亡くなったお祖父ちゃんに、お祈りしていたではないか。中学生になると、急にアガリ症になってしまって、毎晩毎晩、明日授業で当てられませんように、皆の前で恥をかきませんようにと、必死に手を合わせていたではないか。忘れたとは言わせないぞと自分につっこんだ。
 しばらくお経から離れていたが、大学の図書館で、般若心経に関する本を見つけた。読み辛い専門書でなかったので、借りてみることにした。
 意味も分からずに唱えていたお経。有名な、今も諳(そら)んじることのできるお経は、仏が弟子のシャーリー・プトラに教えを説く様子を伝えているものだと初めて知った。また他に、心惹かれたのは「十善戒」。その著者曰く、十善戒は守らなくてはならない戒めではなく、守っていれば心平穏でいられるという助言のようなものだった。
 この十の教えの言葉には、全て「不」という「○○せず」を意味する文字が頭に付いている。「こうすれば」ではなく「こうしなければ」心平穏に過ごせる、というところに、仏教の柔らかさに触れた気がした。
 社会に出て働き始めてからも、あの時覚えた十善戒を忘れてはいない。学生のうちに出会えてよかったと思う。しかし、だからと言って、日々心平穏には過ごせておらず、陰鬱な気持ちで過ごす日のほうが多い。だからこそ、今もこうやって十善戒を忘れずにいるのだとも思う。
 きょうは新年会を兼ねた中学の同窓会だった。それぞれどの道に進んでいても、顔を合わせれば当時に戻る。懐かしい面々と会い、久々に破顔した。
 会が終わり、皆と別れると、それまでとは打って変わって一抹の寂しさを抱いて、アパートまでの帰路を歩いてきた。しかしシャワーを浴び、布団にもぐると、なぜか心平穏になれているのは、この今得てきたことから芽生えたもののためだろう。小さな小さな芽生えであるが、それがきょうという日でよかった。旧友を大切な友達と思ったまま、僕は今眠りにつくことができる。



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