第100期 #15

みさき

 小さな町の写真館で、スタンドの明かりを頼りに記念写真の修正をしていた俺は、伝手でその一週間後、二月の千葉は屏風ヶ浦、吹きすさぶ北風に手をやられ、フイルムをカメラに入れるのもままならぬ一桁の気温をものともせず、素肌にキャミソールドレス、素足にミュールのファッションモデルを囲むスタッフの一員となっていた。速くフイルム入れろと急かされるほど手元は怪しく、視線に顔を上げれば、件のモデルが唇の色一つ変えず鳥肌すら立てず平然と俺を見ていた。それが初めて知る、芸能界というやつだった。

 毎日をきちんと精算しながら過ごしていた生活は一変した。夏は冬で冬は夏で、一日は三十時間にも四十時間にもなった。朝焼けなのか夕暮れなのかいぶかしみつつ空を見上げ、家に帰れば先ほどまで一緒にいたタレントがテレビの中だ。早回しのように過ぎ行く日々の中で俺は、立ち止まったら死んでしまう鮪のように、大量の「芸能界」というの名の海水を飲み込みながら魚になる努力をしていた。海の中では眼は曇り、ざらりとした違和感が俺の視界を覆っている。とても長い夢を見ているようだ。それでも俺はわずかな酸素を取り込むように全速力で泳ぎ続ける。そんなやり方では、魔法はかからないというのに。
 日差しに目眩がする五月。沖縄の気温は十分夏であった。今年の夏を彩る新しい服を肌に滑らせ、モデル達は砂浜を踊るように歩く。シャッター音が響く。俺は次から次へフイルムを詰め替え番号を記し、露出の変化に気を配る。
 人の気配を感じて振り向くと、真後ろに新人のモデルが立っていた。日傘を差して目前の撮影を見ている。その目は陸に上がった魚のようにうすい膜をまとっていて、そこに映し出される夢の数々をぼんやり眺めているかのようだった。
「暑いですね」
引き寄せられるようにその瞳へ話し掛ける。
 すると彼女はとてもリアルに微笑んだ。今日撮影した何百というカットのどこにも存在しない、耳元でパンと手を鳴らされたような強烈なリアルさで、彼女の笑みが鮮明に焼付いた。はい、おしまい。夢は覚めましたか?

 冬の日差しが目を射る。夢から覚めてしまった俺は写真館の小さな窓から空を見上げる。そして彼女を思った。彼女はあれから大層な女優になって大層な結婚をし、夢のようなヴェールをまとった微笑みをテレビの向こうから投げかける。彼女は夢の世界の人。魔法はこうやってかけるのだ。ビビデバビデブー。



Copyright © 2011 長月夕子 / 編集: 短編