第10期 #20
あの人はそこにいる。湖を見渡す宿の窓辺に腰掛けている。
湯上りなのか、浴衣をしどけなく着て団扇で煽っている。
髪が揺れる。俺の心も揺れる。襟元に零れる白い胸が濡れているような。
はやる俺を擽るように、風鈴の涼やかな音色が聞こえる。窓辺から青白く月の光が射し込んでいる。あの人の愁いに沈むような青い横顔。窓辺の手摺には解かれた赤い帯が垂れ下がっている。
やっと今日という日が来た。今日こそ俺はあの人を抱く。
俺は立って、あの人を抱き寄せた。
あの人は恥ずかしいのか顔を伏せたままだ。殺したいほど愛しい奴。
唇を奪った。燃えるような口付け。火照る体。震える心。遠い篝火。紫の夜。青い月。赤い帯。燃える瞼。蕩ける花芯。
あの人を抱いている…はずなのに、俺は、一体、誰を抱いているのか分から
ない。あの人は顔を背けたままなのだ。体は俺に許すし、唇も与えてくれる。
でも、目を覗き込もうとすると、顔が月の影に隠れてしまう。
俺は焦っていた。今、俺のこの腕の中にあの人がいるのに、部屋の隅にあの人の浴衣が脱ぎ捨てられているのが分かるのに、不安が募ってならない。
だからこそ、俺は一層、あの人を強く抱き締めた。決して放さない覚悟で。あの日、一人で湖に沈んだあの人だから、今、この手を放したら、二度と抱くことなどできない。
俺は、手摺にある帯を手に取って、俺達二人の体を巻きつけた。二人の体が絡み合い求め合えば、それだけ帯が俺達の体に食い込むように。
次第に息が苦しくなってくるのだった。何故か、あの人を抱けば抱くほどに、俺の首がきつく締められるようだった。
ついには気が遠くなってしまった。
脳裏には燎原の火が燃え広がり、やがて炎の海は真っ赤な焦点へと収斂していった。
何処とも知れない世界へ渡っていってしまいそうだ。何処へ行くのだ!
何処へ行く?! そんなことはどうでもいい。あの人と一緒なら湖の底に沈んだって構うものか!
気が付くと、俺は小船に乗っている。俺一人で、何処へとも知らず漕ぎ出していた。
ただ、オールの代わりに手にしているのは、だらりの帯なのだった。その赤い帯が、俺の手を抜け出して、蛇のように俺の首に巻きついてきた。
ああ! 俺は今こそ、あの人に愛されている!
その翌朝、宿には帯で首を吊った俺の姿があった。