第10期 #17
男は北国からやって来た。懐には除隊金があり、いかに物価の高い東京といえども、充分に余裕がある筈であった。
「千六百円になります」
「えっ、カレーとコーヒーですよね」
「……そうですけど」
ウエイトレスはぽかんと口を開けた。
男は店を出てホテルに向う道すがら、急に不安になり、服の上から金を触って確かめる。早く住む部屋を決めなければ、瞬く間に無一文になると思った。
「不動産に掘り出し物はないからねぇ。格安にはそれなりの理由があるもんだよ。それとも、お客さんは大丈夫なの、これ?」
店主は、カマキリを模したポーズから、胸前で手をだらりと垂らして見せた。
それを見た男は大げさにかぶりを振って答える。
「それはちょっと。生き物なら蛇でも蜘蛛でも大丈夫なんですが」
「生き物ねえ……」
店主はそう呟くと彼を見て言った。
「このビルの二階の部屋だけど、一応見てもらいましょうか」
鍵を手に立ち上がり、男を伴い外に出る。
「ちょっと奇妙な部屋だから、なかなか借り手がつかなくてね」
階段を上がり廊下に出ると、三つ並んだ扉の真ん中で立ち止まった。
「ここですよ」
男は案内された部屋の前で首を傾げ、両隣の表札を確認する。
「201と203に挟まれた部屋が、なぜ12号室なんですか」
「詳細は前のオーナーが知っている筈だけど、とにかく私がここを買った時から12号……ん? 12号室だったかな」
扉を開けたとたん、奇妙な部屋と称される理由が解った。玄関の壁から扉の内側にいたるまで、一面に太い緑の蔓が絡みついている。
「除草剤を撒いても、一週間もすれば元通りになっちゃうんだよ」
嘆息しながら振り向いた店主に、彼は即答した。
「この部屋に決めます」
いかに不気味とはいえ、自衛隊の訓練で使用される原生林に較べれば、観葉植物のようなものである。
男は浴槽の縁まで湯を張り、ざぶんと首まで浸った。勢いよくあふれる湯を、少し贅沢な気分で眺める。管理された自然以外は、都会の人間にとっては、気味の悪い存在でしかないようだ。身体が温まるにつけ、心もほぐれてゆくような気がして、徐々に眠くなった。
突然、顔の前に大きな泡が浮き上がり、脂肪片が漂った。男は何気なく胸の辺りを見て愕然とする。白い肋骨の隙間から赤黒い肺の内壁が覗いている。慌てて見回すと、すでに手足も腰も溶けはじめている。
静まり返った廊下にカタリと音がして、部屋番号が13に換わった。