# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | こちらリーディング・カンパニー | 野郎海松 | 1000 |
2 | 『Service Business』 | 橘内 潤 | 996 |
3 | ただいまお悩み中 | ツチダ | 1000 |
4 | アルチンボルドのように | マニエリストQ | 1000 |
5 | 鎌倉物語 | ハチミツボーイ | 993 |
6 | 20世紀 | 坂口与四郎 | 1000 |
7 | 朝顔 | yucca | 973 |
8 | (削除されました) | - | 998 |
9 | 転送 | ラリッパ | 1000 |
10 | 誕生日 | えむいとう | 990 |
11 | 盂蘭盆 | 海坂他人 | 996 |
12 | 不老不死 | 黒木りえ | 997 |
13 | さらばドラゴン | 紺詠志 | 1000 |
14 | さようなら | 川島ケイ | 980 |
15 | 海のそばで | Aky | 880 |
16 | カロンの鈴 | 黒瀬無人 | 992 |
私はリーディングのバイトをしている。
社会人同士のコンパやお見合いパーティで、恋愛下手な男女の間をそれとなく取り持ち、カップル成立の補助を行う―――つまりはサクラだ。
時には成り行き上、変なしがらみが出来てしまう場合もある。特に、あと一組でノルマ達成という時、お邪魔虫を引き離すために気があるフリをするという手は「自爆」と呼ばれ、後始末に困ることも多々あるのだった。
「もうね、大変なのよ。プレゼントとか、ドライブのお誘いとか。ほんと、たまんないのよね」
私は、バイト管理をしている主任を捉まえ焼肉を奢らせた席で、不満をぶちまけた。主任と言っても茶髪のお兄ちゃんだし、年も近いから、友達感覚だった。イケダサトシという名前で、みんなからはサトちゃんと呼ばれていた。
「そういう時のために、マニュアルがあるんじゃん。そりゃまア好みでもないヤツに付きまとわれるのは、イヤだろうけどさア」
「マニュアルって言ったってね、そうそうマニュアル通りにいくわけないじゃん。全然役に立たないよ、あのマニュアル。十年前のヤツなんじゃないの? ……肉、焼いてよ」
「ああゴメン」
「でさア、この前、依子辞めたじゃん? あの子、田舎帰ったんだってよ。ストーカーされたんだって」
「マジで? あるんだなア、そういうこと」
サトちゃんはせっせとカルビを焼きながら、スンマセーン、生おかわり! と、通りがかった店員に声を投げた。
「ねえ、人の話聞いてんの? サトちゃん、何にも悩みなさそうだよね」
「深く考えないのが、おれのポリシー。深く考えてはいけないのが、この仕事のセオリーさ」
「うわ、それって、マネージャーの口癖じゃん! 感じ悪ウ!」
私はマイセンを口に咥えて、百円ライターでカチリと火を点けた。
「私もこのバイト、潮時かなア」
するとサトちゃんは慌てて、
「待てよ、何だよ、そういう話なのかよ。カルビもう一皿いくか?」
「何よ、サトちゃんは別に困らないでしょ」
「それが困るんだって。今、新規(のバイト応募)無いんだって。マジ勘弁して」
「そんなこと言われてもなア」
サトちゃんの慌てた顔はかわいい。スタッフの女の子からもよくからかわれている。結局、特上ロース一皿追加で私は前言の撤回を誓った。お財布大丈夫? と聞くと、
「深く考えないのが、おれのポリシー。深く考えてはいけないのが、この財布のセオリーさ」
サトちゃんは、ちょっと涙ぐんで、言った。
よう、御同業。先輩として、おまえに幾つか忠告しておくぜ。
まず、当分は楽して飯が食える――なんて甘い考えがあるんだったら、今ここで捨てておけ。今日び、俺やお前の代わりなんて、掃いて捨てるほどいるんだからな。
いいか、この商売、所詮はサービス業だ。何も分からない振りして、向こうの一挙手一投足を見逃すな。向こうがこちらに何を望んでいるのか――そいつを常に考えるんだ。
だがな、ただで食わせてもらう換わりに愛を与えてやる――これは口でいうほど簡単じゃない。
向こうの望みってのが、いつでもこちらに完璧を求めてるとは限らねえ。大抵の場合は、向こうが望むハードルを越えてやりゃ、手を叩いて喜ぶんだが、それだけじゃダメなんだよ。たまにわざと失敗してやるんだ。そして泣きついてやるんだ。
向こうの要求を十二分に満たしつつ、たまに失敗してやることで「ああ、この人も自分と同じなのね」と思わせてやれるんだよ――このテクニックをマスターできるか否かで生死が決まるといってもいい。
向こうが俺たちに求めてるのは、一から九まで完璧にこなしつつ、最後の一つは自分を頼ってくれる存在なんだ。向こうに、「この人は自分を分かってくれる」かつ「この人には自分が必要なんだ」、とそう思わせるように振舞わなくちゃ、おまえ、明日にでも仕事干されるぜ。
――ま、一言でいっちまえば、「向こうが望む存在でありつつ、同時に向こうと同じ存在」ってのを演じればいいんだよ。
……なに、分からない? おいおい……おまえ、下に若いやつが入ってきてヤバいんだろ? そんなんじゃ、すぐに相手にされなくなっちまうぜ。
……なに? 「演じるのはもう嫌だ、ありのままの自分でいたい」だと!?
はっ! 処置無しだね。おまえとは、これでサヨナラだ。もう会うこともないだろうな。
「あら、どうしたのかしら? この子、急に泣き出しちゃって」
「お子さん、今年で一歳でしたっけ? 赤ちゃんは泣くのが仕事っていいますからね。家の子も、たまに夜泣きしたりで大変でしたからねぇ」
「何だかこの子、お兄ちゃんになってから夜泣きが増えた気がするんですよね……どうしてかしら? 前はもっといい子だったのに……あら、泣きつかれて眠っちゃったわ」
「ふふっ、手のかかる子ほど、寝顔がかわいいものよね」
あばよ、御同業。せいぜい、テメエのままで愛される――なんて下らねえ夢でも見てるんだな。
明日は結婚式なのにソープランドに居る自分は、果たして最低なのでしょうか。
しかも驚かれるでしょうが、自分は女だったりするのです。
情夫の借金の連帯保証人になった挙句逃げられた、
という、まあ小説とかでありがちなパターンです。
おっと次のお客が参りましたようです。
まさか結婚前日に自分の尻の穴を舐めくられる羽目になるとは、
少女の頃は思いもしなかった私です。
結婚相手はもちろんこの店で客として知り合った、
のとは違い、
こんな卑下た店には近寄りもしない東大卒の会計士です。
二十八の若さで、もう月給50万取ってます。
彼とは電車の中で知り合いました。
私が落としたコンパクトを彼が拾ってくれたという、
これまた小説とかで超ありがちなパターンです。
おっと次の客です。まさか結婚前日に、
乳の先っちょをこねくり回される羽目になるとは、
まったく自分で自分が信じられない私です。
初めて訪れた彼の家は超巨大でした。
私の実家=小屋に来られてはやばいと思い、私は、
実家は火事で丸焼け、両親はその時焼け死んだ、
と未来の旦那に大嘘をついてしまいました。
彼は育ちが良いので疑うという事を知りません。
罪悪感で一杯の私を、涙を流して抱きしめてくれました。
次の客です。どうして結婚前日に、
逆さ舐め舐め、汁飲み飲みなどされなくてはならないのでしょうか私は。
なんと彼は私を処女だと思っているようです。
処女とソープ女では、びっくら仰天こくほど逆さまです。
果たして結婚初夜に私が処女でない事がばれたら、
彼は驚き怒り落胆するでしょうか。いいえ。いいえ。
多分、彼は許してくれるでしょう。
彼ほど優しい人間はきっとこの世に居りません。
いっそ手術して処女膜再生しようか等と企んでしまう私とは、
正反対の彼です。
また客です。身体中、熊の様な剛毛です。
どうして結婚前日に剃毛プレイを提案され、
また割増料金でそれを呑んでいるのでしょうか私という女は。
私、追い回されています。
店に童貞捨てに来ただけのつもりが、
初体験の衝撃の大きさに性欲と恋愛感情がごちゃ混ぜになり、
ストーカーと化した、という男です。
結婚相手である彼の存在も、当然知られてしまいました。
彼とのデートの帰り道、突然路地裏から現れ、
この女はソープ女だアソコ真っ黒けだと私を罵りました。
もちろん彼は育ちがいいので針の先ほども信じませんが、
事実だけに私はヤバイと思い、彼と別れた後、
密かに逆ストーカーをしてヤローのアパート
人間の風体なんて野菜を寄せ集めればできてしまう。それはすでに五世紀近くも生きているのだから本当なのだ。ものなんてそんなものなのだろうと僕はそのことを知った日から思うことがあってあるものを作ることにした。
ひと月が過ぎて形はできた。柔らかな曲線。溶けそうな触感。不定形。あらゆる素材の組み合わせ。そこから長く細い管が無数に突き出ている。所々金属が鈍く輝いていた。さてこれからだと満足な僕はそれをまるで可愛いペットを扱うように時々さすったり抓ったりした。舌で嘗めてもみた。檸檬のような味がして少し塩っぱくもあった。ありがたいことに無臭だった。
「大人は汚れている」僕はほくそ笑む。
さらに月日が過ぎてすべての装置が完成した。室はメインの形と作動機の周囲に僅かな隙間を残し天井まで届く無数の真空パックで埋まっていた。真空パックはメインの形と細い管で繋がってその中にはすべての必要なものが詰まっていた。
僕はテストを何度も繰り返した。空気の具合。水流の具合。物流の具合。廃棄の具合。作動機の操作具合。そして時計の具合。どれも支障がなく完璧だ。あとは決行するだけだった。
「大人は嫌いだ」呟いた。
僕は汚れた大人になりたくないと思っているところの大人だ。どうして大人はあんなにも汚れてしまうのだろう。人間は産まれると白から灰色になって真黒へと悔しくも退化してしまう。僕は黒くなりたくないと思う。真黒になる前に手を打っておきたいのだ。大人を完全に破壊したかった。
全裸になった。それからメインの形に潜り込んで寝そべった。広くも狭くもない。続いて呼吸器のマスクを顔に当てる。あとは作動機のスイッチを入れるだけだった。そうすればメインの形も密封されてすべてが作動する。
「これで僕は大人を破壊できる」
作動機が微かな音で動き始めた。少しずつ体温と同じ水が入り込んでくる。呼吸器も順調だ。時計のスイッチが入ったようだ。そして僕はふわりと水に浮いた。
すると外界の音が消えたように思えた。無音の闇にでもなったように感じた。がそれは今の僕にとってどうでもいいことだった。僕から大人の世界は消えたのだから。
「大人よさようなら」僕は目を瞑ると心のなかで呟いた。
それから逆廻転する時計の音を聞きながらゆっくりとゆっくりと眠りについた。
僕は僕の野菜の子宮のなかに浮いてどこまでもどこまでも流れた。
小さな小さな小さな虫になるまで。
江ノ電の鉄道員(ぽっぽや)の高嶋は暮れる夕日を見つめていた。輝く瞳は夕日を切なく滲ませていた。「駅長さん!」高嶋の背後に、くわえる部分は誰のとも知らない縦笛を喉の奥まで突っ込み嗚咽しながら声をかける少女がいた。「大丈夫かい?」高嶋はスクラッチカードを削るように少女の背中をさすった。焦げ臭い異臭が周囲に漂った。少女は縦笛を吐き出し高嶋に微笑んだ。「ごめんなさい。アガペーを感じたくて・・」うっこり少女の不機嫌な果実ぶりは高嶋を困惑させるとともに不思議と誘惑させられた。よだれでダラダラな縦笛をゴミ箱に投げ捨て少女はベンチに腰掛けた。いたずらな海風が少女の髪をもて遊ぶように激しく吹きつけた。高嶋は駅帽を飛ばされないように手で押さえながら、少女の隣に腰かけた。少女の瞳も夕日を滲ませていた。高嶋はそれに気づかないように話しかけた。「totoがまたお母さんにばれたのかい?」少女は東京から週一回離婚した母親の元に遊びに来てた。高嶋は母親から無事に電車に乗れるようにと頼まれていたため少女が駅を訪れるたびに彼女に注意を向けていたが、いつからか少女を何十年も前に亡くした自分の子供のように感じていた。自分がしっかりしていれば死なずに死んだ子供。トイレで大をするときは裸にならないと出来ない自分のせいで死んでしまった、自分の子供。母乳ではなくサッポロ一番のカス汁で育てた自分の子供。高嶋の心には一生外れない鎖がかかっていた。「totoはばれなかったけど・・」高嶋の問いかけにうつむきながら少女は答えた。高嶋はゆっくりと腰を上げた。「もうすぐ電車が来るぞ。」帽子をかぶりなおし、指をせんろに向けた。少女は高嶋のお尻にカンチョ−を二度かまし笑顔で高嶋をみつめた。高嶋はそんなことは気にせずに電車を迎えた。電車が運んだ、蒸し暑い風を浴びながら少女は口を開いた。「ごめんなさい。」電車の扉が開き、少女は電車に乗った。「なあに、おじさんに謝る必要はない。また何かいたずらでもしたんだろう?気にするな。お母さんも許してくれる」夕日に反射した高嶋の顔は真っ赤に染まっていた。少女は微笑み手を振った。電車の発射を知らせるベルがなるのを合図に高嶋は少女に敬礼した。扉が閉まり電車がゆっくりと動き出した。扉のむこうで少女が何かを言っていたが、高嶋にわからなかった。少女がいつもキセルしていることが母親にばれたことを。
「20世紀に忘れ物した!」
水井恭介は日曜日、身重の妻の由美子と昼食を食べている時、突然叫んだ。
「食べたら行ってくる」
由美子は、冗談とも本気とも取れない口調できいた。
「時間を超えられるの?」
恭介は、頷いた。
「帰ってこられるの?」
今度は二回頷いた。
「5時までよ。念のため、携帯電話を持っていってね。」
大きく頷く。
「20世紀は何処だったっけ?」
とりあえず、東の方向へ向かう。
バス停にリトルリーグの少年達が並んでいる。バスがやってきた。恭介も一緒に乗り込んだ。バスはガラガラで少年達の話がすっかり聞こえる。誰がミスしただの、ここが弱いだの。その中の一人の言葉に彼らは静かになった。
「そういえばさ、3組の山下絵里が来てたぜ」
少々の沈黙の後、誰かが「ふーん」と言い、そしてまた試合の話に戻った。
(3組の山下は、可愛い子なんだろうな)
恭介はクスクス笑った。彼もリトルリーグにいた。好きな子が試合に来たと聞いた時、胸がバクバクした。仲間にばれないように、「ふーん」と聞き流す振りをした。バスの窓を開けた。いい天気だ。
ビー
少年達が降りた。
「すみません、僕もです!」
慌てて恭介も降りた。もたついているうちに少年達は見えなくなった。
バスを間違えた。少年達がやってきたところへ行くはずだったのに。
20世紀に間に合うのだろうか。
着いたのは野球場。だが、探しても見つからない。
(そっか。)
帰ろうとすると声が聞こえた。
「久しぶり」
「水井くんも」
3組の山下、否、1組の相模が笑った。
「俺、今日は5時までなんだけど、でも本当はもっと早く帰らなきゃいけないんだ」
相模はふんふんと聞いた。
「だから手短に話すと、相模のことが好きだった。15年経ったらかっこよく言えると思ったけど」
相模は、やっぱりふんふんと聞いていた。
「知ってたよ」
「待ってた?」
「去年結婚した」
「そっか。
そっか、ありがとう」
「連絡もしなかったのに、よく来たな」
実は今日の昼に思い出したことを告白した。相模は笑った。
時間になる。
「相模、俺、子どもが産まれるんだ。それで相模の名前をくれ」
相模は目を瞑った。
「じゃあね、『千里』はどう? せんり。またはちさと」
「ありがとう。大事にする」
「じゃあね」
相模千尋は行ってしまった。
忘れ物の他に、お土産までもらった。
「20世紀は楽しかった?」
「懐かしくて泣きそうだったけど、今のほうが楽しい。それに、すごく大事。」
21世紀が。
貴方に触れたいの。
今度は私から。
陽の当たるベランダで、毎朝そんなことばかり考える。
暗い暗い、けれどとても温かい所から勇気を振り絞って飛び出した。
はっきりしない意識の中で、それでも眩しい光を感じていた。
目を覚ますと、貴方の笑顔があった。
「――なんだ、お前何処から来たの?」
また新しい温かさを私は見つけた。温かい、心。
貴方に生命をもらい、その指先で生かされる。
「お前良かったな、花屋の俺んトコに来て」
大好き。
貴方の声も指も笑顔も。
貴方が触れてくれるから、私は生きている。
貴方に触れたいの。
今度は私から。
まだお日様の位置がとても高かったから、帰りがとても早いのだと思った。
扉が開いたその先で、貴方はまるで凍えるように立っていた。
――泣いてるの?
どうして、泣いてるの?
とても、とても、悲しいの?
靴を脱ぐのもままならず、肩を、膝を、したたかに打つのも構わず。
痛い、とても痛い心があった。
倒れこむように、うずくまって静かに泪を流す。
泣かないで。どうか、悲しまないで。
「……誰?」
貴方は泪に濡れた瞳のままで私を見つめる。
「君は誰?」
私がわかるの?
「どうして泣いてるの?」
貴方に届いた、私の声。
「なんでも……いいだろう……」
震える声。瞳から流れる幾筋もの泪。
貴方に触れたいの。
今度は私から。
貴方に触れながら、私は幸せに包まれながら、貴方の嗚咽を聴いていた。
「なんで……、あんた誰なんだ」
震える肩。縋りながらも吐き出すように投げつける言葉。
「ふざけるな……、出て行け、出て行って……くれ」
わかったの。
私は貴方に今触れるために、此処に来た。
この瞬間の為に。
「大好きよ」
いつも私に触れてくれてありがとう。
「貴方が大好き」
貴方の心に触れられて良かった。
「だから、泣かないで」
優しくしてくれてありがとう。
「そ、……やって、おふくろも言うんだ……」
私に触れて下さい。いつもみたいに。
「大好きだから泣かないでって……」
貴方が触れられない私なんて、ないのと同じだから。
「もう……、もう、起き上がれないのに……っ」
私に触れて下さい。
そうしたら、今度は私も貴方を抱きしめるから。
貴方が大好きだから。
いつの間にか眠ってしまったんだろう。涙と汗で湿った顔を拭いて、起き上がる。
西日が暑くて、ベランダを開けた。
「あれ、雨なんて降ったっけ……」
足元の、鉢植えの朝顔は幾つもの露に濡れていた。
男は部屋に入った。付けっぱなしのテレビに眉をひそめる。
銃声とドレスの胸に広がる赤い薔薇。
ソファに座った男は上着を脱ぎ捨て、ネクタイを緩めた。テレビの画面を眺め、リモコンを手にする。
料理を作る手。
ソファから離れ、男はキッチンに向かった。缶ビールを手に部屋へ戻り、再びソファーに座る。
フルカラーのカートゥーン。
男はビールをすすった。頬に手をあて、濡れていることに気づき、いつから泣いていたのかと怪訝そうな表情を浮かべる。
天気図に雨。
男は愛人と鉢合わせになった時の妻の表情を思い出した。「合い鍵はまずかった」という声は震えている。
未知の宇宙を旅する調査船。
妻の裏切りを知らせた電話の声が誰だったのかを男は考えた。誰も思い浮かばない。
枝からぶらさがった大蛇。
男は眉間に皺を寄せ「あいつか」とつぶやいた。しゃがれた男の声だったことを思い出し、安堵のため息をつく。
血と汗にまみれたボクサーの苦痛に歪んだ顔。
男は部屋を見回した。この暮らしを得るためにしてきたことを思い出す。
横を向いて倒れている女の背中を飾る赤い薔薇。
男の目に再び涙が浮かんだ。「あの女と暮らしたいんでしょう」となじる妻の声が耳をよぎる。
出来上がった料理。
男は苦悶しながら天を仰いだ。幸せだった頃の二人が白い天井に浮かぶ。
モノクロームのカートゥーン。
思い出の中の幸せに男はやりきれなさを感じた。缶ビールを手にし、カラだと気づき、握りつぶした感触に顔をしかめる。
天気図に雪。
男は立ち上がり、サイドボードからブランデーとグラスを取り出した。ソファに戻り、水のようにブランデーを飲み干すが、体の芯は冷え、心が温まることもない。
宇宙人との遭遇。
共に暮らし、妻の心が分からなかったように、妻も自分の心は分からなかったと男は思った。「あいつの心も同じだ」という声は酒にまみれている。
溶岩に飲み込まれる大地。
アルコールが急速に回った男はグラスを落とした。割れたグラスをそのままにして、男は瓶から直接ブランデーをあおる。
グラブを突き上げ勝ち誇る者とマットに倒れた者の姿。
「負け犬か」と男は自嘲した。幸福だった全ての過去を思い出した男には、未来は何も見えない。
再び銃声と白い壁に散らばる赤い薔薇。
リモコンが落ちた。チャンネルが変わる。
砂嵐。
しばらくしてドアが開き、誰かがテレビのスイッチを切った。
トイレのノブに手をかけたときに、内線電話のベルが鳴った。
たぶん74回目の実験開始の連絡だ。
「今すぐそっちへ行くから……」
電話はいつものように、返答も待たず途中で切れた。
チョークが折れる程の勢いで方程式を書き殴り、抜け出して行く学生にさえ気づかぬ熱血講義に感銘を受け、教授に師事することを決めた。
ぜひ我が社にと、熱心に誘ってくれた先輩院生を振り切り、天才教授と共に研究することを選んだのだ。
卒業後、初めてこの研究室を訪れた時は、両手を握り「よく決心してくれた。大陸間を三秒で移動できる夢の転送機開発に、ぜひ力を貸してくれ」という言葉には感動してナミダした。しかし、その研究は失敗のオンパレードだった。
彼は背後で震動する転送カプセルを無視し、出入り口の扉に視線を移した。15秒後には実験に失敗した教授が、第二実験室からハゲ頭を掻きながら現われるはずだ。
「どこを向いておる!」突然の背後からの声に彼は思わず股間を押えた。
あやうく我慢していた「モノ」を漏らすところだった。
「済みません。てっきり扉から……って、まさか?」
「失礼な奴め、成功だよ。にわかに信じがたいのも頷けるがな。隣の部屋のカプセルで、物体を生成する分子を解析、分解し、こいつで再生した訳だ。FAXと同じ理屈だな。これを応用すると、こんなことも出来る」
そう言うと設定ボタンをいじりカプセルに飛び込み、そして消えた。
再び現われた教授は平然としていたが、内心得意満面であることは大きく開いたその鼻の穴が示している。
「教授! 何も変っていませんよ」
教授はニッと笑い、キャップのひさしに手をかけゆっくりと脱いだ。
「あ、髪の毛が! こいつはハゲにも効くんですか」
「いや、移動可能なだけだ。不要な毛をこの機械が自動的に選択して移動する」
そういうと教授はアンダーシャツをたくし上げた。
「あ!胸毛が消えてる」
それを見た彼は素早くキーを叩き、あっという間にカプセルに飛び込み、戻るなり装置の金属部分に顔を映し小躍りした。
「あのカッパのような穴だけの鼻が……オォ、視界に自分の鼻が見えるぞ!」
「ところで君、どこの肉が移動したのかね?」
「教授、それはまた後で、先にオシッコに行ってきます。さっきからガマンしてたんですよ」
そういうと彼は小走りにトイレに駆け込んだ。
しばらくして聞こえた彼の叫び声で、教授はどこの肉が移動したのかを理解した。
今日は俺の誕生日で、祖父の命日でもある。そして、たぶん今回が最後になる恒例の集いが開かれる日だった。
俺は一足先に会場に訪れ、控え室で着替えていた。慣れぬ着衣に悪戦苦闘していると、宴会会場のスタッフが控え室にやってきた。俺は愛想良く会釈したが、スタッフは怪訝な目で俺を見た。そして、早口で宴会の準備が整ったことを告げ部屋から出ていった。
鏡台の前に立ち、衣服の乱れを慎重に整えた。襟もとの階級章の位置を丹念に調整し、祖父になりきろうとした。支給され一度も袖を通されたことのない軍服はナフタレンの匂いがするが、あつらえたかのように俺の体にピッタリだった。
鏡台の隣に置かれている祖父の遺影と、鏡に映る自分の姿を見比べる。まるで生き写しだった。
八月十五日。俺は二十五歳になった。祖父が戦死した年齢だ。
毎年終戦記念日に「○×守備隊第二中隊遺族会」が開かれた。祖父は中隊の士官だった。その遺族会を毎年滞りなく開催するのが祖母の務めだ。
記憶のない昔から、遺族会に連れてこられていた。祖父にそっくりな俺はこの会の目玉だったのだろう。別に悪い思い出はなかった。
祖母が控え室に入ってきた。八十歳に達した祖母は、杖をつきながら、今にも倒れそうな足取りで近づいてきた。そして、ショボくれた眼をカッと見開くと俺の胸もとに崩れる。
「ばあちゃん大丈夫か」
俺は祖母の肩をつかんだ。驚くほど軽かった。
祖母の真っ赤な目は涙をたたえていた。その瞳の焦点は合っていない。
「あぁ。あぁ。あなた…」
祖母はもう多くの事が分からなくなっている。それでも、名簿を作成し、招待状を送付し、この遺族会を一人でセッティングしたのだ。
「私には分かります。あなたは絶対に戻ってこない。お願い。行かないでください」
祖母は、いつもよりも一オクターブ高い声を張り上げた。年齢に相応しくない派手な色留袖、叩きすぎたおしろいに、真っ赤な紅を唇に引いている。祖父しか知らない祖母の姿。
「部下たちが待っている。何を泣いている。しっかりしろ。銃後の守りが無くて兵隊が戦えるか」
祖母から何度も聞かされた言葉を使った。彼女が最後に耳にした祖父の台詞だ。彼女は涙を拭いながらコクンと頷いた。
俺は会場に向かった。後ろから、祖母の小さな足音が聞こえる。祖母がもっとも愛する人に会わせてあげたかった。俺は軍人らしく背筋をピンと伸ばして歩いた。
夏休みに入ると、街はざわざわして歩きにくくなる。
午前中、市民図書館に行こうと駅前のバスプールに降りると、何時にない行列が出来ていた。老人が多く、新聞紙の細長い包みを抱えた者もいる。
ああ、墓場へ行くのか、とおもった。
昨日が旧盆の入りだった。図書館のずっと先に、葛岡霊園がある。老人たちのやや乱雑な列の中に佇んでいるうち、待つほどもなくバスは来て、人々が乗り込み扉が閉まると、菊の香りがひんやりと鼻さきに漂った。
お盆でも図書館は満席だった。
みな、図書館の書物とは何の関係もない受験勉強をしている学生ばかりである。明日が期限の『中国文芸史』の貸出だけ更新してもらって、すぐ帰ることにした。
先日までの酷暑はおさまって、明るい曇り日がつづいている。その雲が濃くなって、暗くかぶさってきたと思うと、シャワーのように白雨が降り出した。
五橋で、一人の老婆が乗って来た。
杖をついた足許はだいぶ覚束ない。そのうえ言葉も縺れ気味である。入り口までようやく歩み寄って、「若林通りますか?」と訊いた声が、運転手まで届かない。
ちょうど扉近くに坐っていて、目が合ってしまったので、とっさに「運転手さん、若林通りますよね」と呼ばわってやり、取次をつとめる羽目になった。二三の問答の後、彼女は無料パスを機械に通して乗り込んで来た。
市が出しているこの「敬老乗車証」は、深い紺色地に色とりどりの水玉を散らした洒落たデザインで、伊達政宗の陣羽織と同じ柄である。しかし昼間などほとんどが「ただ乗り」で占められていると、片道六百円払わされる自分は何なのかと納得がいかない。
老婆がすぐ前の席に座ったので、雨滴でぐっしょり濡れた手と、その手が大事そうに持っているカードが、肩ごしによく見える。
そのうち私は、たいへん不思議なことに気がついた。彼女のカードには「明11.11.11」とある。名前は片仮名がむやみと長くて読み取れない。
明治十一年生まれといえば、今年百二十四歳になるはずだ。
普段ならば、交通局はなんと杜撰な処理をしているかと呆れるだけだが、この日はおのずから別の思いがある。お盆が終われば、彼女はまたこのカードで霊園まで帰ってゆくのか。
思わず辺りを眺めわたすような気分になったが、間もなく眠くなって寝てしまった間に、老婆はどこかで降りたらしい。私がバスを降りた時には雨は止んで、雲が明るくなっていた。
「わたしを食べればおまえは不老不死になれる」
女が飯をよそいながら、なんでもないことのように言う。
「秘薬をもとめてここに来たのはおまえがはじめてではない。いままでにも幾人もたずねてきた。不死になる術をさがしているのでもなければこんな山奥の、こんな山姥のところにまで来ない」
山姥と己を呼ぶ女は、しかし年老いてはいなかった。いって三十五か六、もしかするとかれより若いかもしれない。
不老不死の妙薬をもとめてかれが里をはなれたのは、医者にもさじを投げられたわが子のためだった。
大雪の夜、一晩の宿を請うたかれを女は家にいれ、今日で三日、雪は止む気配を見せない。
女はかれに飯を食わせ、夜は床をともにした。女の肌はやわらかくかれを受けいれた。
「おまえは物怪か」
物怪の肉には不思議な力があるとかれは聞いたことがあった。
「わたしにも子があった」
問いには答えず女は語りはじめた。
「うまれつき腰がすわらなくて、歩けるようにはならないだろうと言われていたが、よく笑うかわいい子だった。父親はその子を見て逃げたから、わたしはひとりで子を育てた。そのうちに男が通うようになった。わたしと添いたいと言ってくれたが、子がなつかない」
女はかれを見ないでつづけた。
「男はわたしの子を舟にのせ、沖で海につきおとした。わたしは知らなかった。あの子がおぼれてわたしに助けをもとめながら、たったひとりでしずんでいっているとき、わたしはなにも知らないで子を殺した男に抱かれていた。なきがらはその日のうちに岸に流れついた」
女が顔をあげた。
「わたしの村には言いつたえがある。自分を愛した者を食うと不老不死になれるという。死んだ子の墓をまもりつづけるために、わたしは永劫生きていようと思った。そうしてわが子を食って鬼になった女はいまも子の墓をまもっている。‥‥ずっとそうしているつもりでいたが、旅人がわが子を救いたいという。ひとの心を捨てたはずの鬼が、いまはじめて死にたいと思った」
女がつと立って、奥へひっこんだ。ややあって戻ってきたその手には出刃が握られていた。
「生きていればおまえくらいの年の子だ。わたしを食って里に帰るがいい。そうしておまえの肉をその子に食わせればその子はたすかる」
答えないかれに刃をつきつけて女は笑った。
「わたしは死んであの子に会いにいく。おまえは生きておまえの子に会いにいくがいい」
ドラゴンはいつもそこにいた。僕もいつもそこを通って帰った。部活で夜遅くなっても、偶然といったふうで、僕を見つけ、自転車の前に立ちはだかる。車のめったに通らない住宅地の十字路が、ドラゴンの居場所だった。
「よお、悪いな。カネ貸してくれよ」
白いズボンの尻ポケットに両手をつっこみ、猫背でだらしなく歩き、僕に近寄ってくる。アロハに泳ぐ龍金が、ドラゴンのゆえんだ。そう呼べというから、心のうちで、そう呼んでいる。冬であっても、セーターの上に、そのアロハを着ていた。間の抜けた口元が、金魚の顔とよく似合っている。
「ああ、今日は持ってないよ」
ドラゴンは勉強ができないので、高校に行けなかった。体が悪く、貧弱なのでスポーツもできない。小学校から中学まで、いつもイジメられていた。僕はドラゴンをイジメなかった。止めもしなかったが、それでもドラゴンにとって、僕は特別な存在になったようだ。
「マジで? ボディーチェックさせてもらうぜ」
わざわざ足首から、僕の体をぺたぺたとはたきだした。やがてドラゴンの両手は、ズボンのポケットに達して、金属音をキャッチする。僕を見上げて、にたりと笑い、乱暴にポケットに手をいれ、カネを取り出す。
「なんだ持ってんじゃん」
手のひらの二十円を、僕の鼻先に突き出してのち、ぎゅっと握り締める。
「いただいてくぜー」
財布はバッグの中だ。いつも十円玉だけ、音が出るように二枚、ポケットにいれておいている。ドラゴンはそれを持って、いつもなら足早に去るところ、今日は立ち止まったままだった。にたにたしたまま、言った。
「俺よ、引っ越すんだ。準備で忙しいから、今日はあんまかまってらんねえんだ」
「そう。いつ?」
「明日」
ドラゴンは十円玉で腿のあたりをこすって、うつむいた。
「悪いな。今まで借りたカネ、返せねえぜ」
「いいよ別に」
アロハの裾をひっぱって、一匹の金魚をなでながら言った。
「代わりにこのシャツやるよ」
「いらないよ、そんなの」
「そうか、よかった。じゃあ、忙しいから、俺、帰るぜ」
顔を上げたドラゴンは、まだにたにたしていた。二十円を、アロハの胸ポケットにしまい、僕に背中を向けた。それから振り向きもせずに、虫でもはらうかのように手をあげて、みじかく言った。
「じゃあな」
走り出したドラゴンの背に、龍金が踊っている。僕はそれが見えなくなるまで待ちきれず、反対の方向をさして、ペダルを踏み込んだ。
こんなに急に別れが来るだなんて、いったい誰が思うでしょう。
あなたも私も恥ずかしがりやで、なかなかお互いの気持ちを素直に伝え合うということがありませんでしたけど、この前の結婚祝のときにあなたが私の作ったライスグラタンを食べてから、珍しく、うまいなあ、って言ってくれたことに私はなんだかすごく感激してしまって。そこで不意に私はあなたに、ありがとう、と言いたくなって、何に対してなのかもよく分からずに、とにかくそう言いたくて、だけど、なんというかそういう雰囲気に慣れてないものだから結局、ただ笑ってうなづいているだけでした。もうあなたにそんな言葉を伝えられなくなってしまった今では、あのとき言っておけばよかったって、お酒の力を借りてでも、って、そう思います。
昨日の晩、あなたは夜遅く帰ってきて、そのとき私はもう布団に入っていたのですが、眠ってはいませんでした。あなたはいつもそんなとき、なるべく音を立てないようにしているけど、私はたいてい起きていたんですよ。本当は布団から出て行きたいのに、そうするとあなたは、ひとりでゆっくりしたいんだから寝とけよ、と口をとがらせるものだから。はじめのうちは、あなたが静かにお風呂に入ったり、服を着替えたり、冷蔵庫をあさったりする光景を思い浮かべて、その微笑ましさに頬をゆるめて布団にくるまっていましたけど、十年も一緒にいればさすがにそんな初々しさはなくなります。いつも私が眠るのは、あなたのいびきが聞こえてきてから。せめて、あなたが静かにしていたのは、半分くらいは私に気を遣ってくれていたんだって、考えてもいいでしょう。ね。
子供がコックさんになって、そのお店に行って子供が作った料理を食べるのが夢なんだ、とあなたは言っていましたけど、本当に生まれていたとしたら、どうなっていたでしょう。想像してみると楽しいし、寂しくもあります。
あなたのいびきは嫌いだし、後ろ髪を引っ張られるのも腹が立つし、目じりの皺もあんまり好きじゃない。だけど、また私は、あなたのいびきが聞きたい、後ろ髪を引っ張られたい、目じりの皺が見たい。私が眠っていると思い込んでいるあなたに、私は起きてるんだって伝えたい。
ねえ、死ぬっていうのはどうしてこんなにも、取り返しのつかないことなのでしょう。
さようなら、あなた。
さようなら、みんな。
さようなら。
未だに台風の傷跡が、屋根瓦や傾いた看板に残っている。隣近所は、誰誰が死んだとか言う噂話で持ちきりだ。心にも無いお悔やみの言葉を掛ける人々。母に連れられてきた葬列から一人で離れると、私は海を見ようと堤防に立った。浜辺では四、五人の大人たちと一匹の犬がいて、嵐の余韻を残す海をそれぞれに遠く眺めている。
水平線のかなたに船が浮かんでいて、じっと見てると浜へと近づいて来た。私の傍を男たちの列が物も言わずに通り過ぎて行く。漁りに出るのだろう。船にのって沖へと出ていく彼らの姿を見つめる。穏やかだった空が薄く曇りはじめ、見る見るうちに青空が暗く重い雲に覆われた。波のうねりが激しく押し寄せてくる。狭い入り江で波が荒れ狂っている。さっきの船を目で追っていると、男たちが甲板に出ているのが辛うじて見える。彼らの体は海に投げ出される。一人、二人。最後の一人は船と一緒に、海にそっくり丸呑みにされた。
そして藻屑となって消えたのだろう。
今日の海は何時にもまして穏やかだ。目を閉じてさっきまでの想像を頭から追いやる。深呼吸をすると、鼻腔から頭に掛けてゆるやかな痺れがあって心地好い。
傍らに鼻を鳴らしながらすり寄ってきた仔犬にもかまわず、私はぱっと目を見開いて、足の向くままに堤防から砂浜へと駆け降りていく。息が上がるのにも構わず、無目的に駆けて、駆けて、駆ける。足下がおぼつかなくなり、喉がからからに乾いて、眩暈を起こしてうつぶせに倒れてしまう。その傍を仔犬が全力で駆け抜けていった。
砂浜に突っ伏したまま目を閉じて、荒い呼吸が元に戻るのをじっと待つ。頬の汗を仔犬が舐めても、お構いなしだ。犬の様に口を開けては閉めて、全身の熱を外に放つ。ゆるやかな坂を下るように、高ぶった心を落ち着かせる。沈黙の隙間を、波の音が縫うように支える。
仰向けになると、薄曇りの空の中で、傾いた太陽が力無く漂っていた。思うように行かないことを嘆くかのように、薄雲を纏ったり脱いだりしていた。私は起き上がって靴底にたまった砂を浜に戻すと、人の消えた海を振り返って、十年前に沈んだという船を想った。
そうそれは遠い対岸から届いたような、ちいさな音だった。
だが大窪の注意をひくには十分だった。客との会話を中断して振りかえった。ふと名前を呼ばれたような気がして振りかえる、そんな感じだ。
「どうしたんですか、店長」
大窪はゆっくりと客に向き直った。営業用の微笑が戻っている。
「変な音が聞こえたような気がしたもんで」という返事に顔なじみの客はあいまいにうなずいた。
「で、この写真の服なんだけど」という客との会話を途中で切り上げ、ほかの店員に任せた。上得意の客を店員に任せることはあまりない。だが、さっき聞こえた音はすべての優先事項を変えてしまうほど彼をひきつけた。だが、音の正体はわからずじまいだった。
仕事を終えマンションに戻っても、音のことが気になりくつろぐことはできなかったが、そのうち眠気の波に飲みこまれソファーで眠りについた。
「ねえ、ケン。いま、鈴の音聞こえなかった」
目の前に姉が幼いままの姿で立っていた。ああ、夢なのだと思った。そして姉の命日がちかいことを思い出した。
「うんん、何も聞こえなかったよ」と幼い大窪はいう。姉はこの二日後、事故で死んだのだ。もしかしたら、と思った。鈴の音について聞きたいと思ったが、夢を自由にあやつれなかった。
「それならいいけど。ねえ、あれで遊ぼ」といい姉は駆け出した。追いつこうと走り出したが、追いつけなかった。
そして夢は覚めた。
空はまだ明けきれていない。ソファーの隅に転がっていたショートホープの箱を取ると、一本取り出して火を点けた。夢と音を結びつけて考えている自分を「バカバカしい」と口にだして否定した。もう一度「バカバカしい」と言い捨て、タバコと一緒に灰皿に捨ててしまうことにした。
姉の法事は問題なく終わった。すべては思い過ごしなのだと思いながらも、胸のしこりがとれずにいた。
その日はとても暑かった。大窪は汗をふきながら信号が青にかわるのを待っていた。視線を同じように信号待ちをしている反対の人ごみに向けた。
チリーン。すぐ後ろで鈴の音が鳴った。大窪は振りかえった。だが彼の後ろにいるはずの人々の姿はなく、ぽつんと少女が立っていた。
少女はゆっくりと、顔を上げた。
大窪が驚き数歩後ずさりすると、少女の姿は消え去り人々の姿が戻ってきた。
「危ない!」という声にかき消されたが「ケン! 危ない!」という姉の声が聞こえたような気がした。