第1期 #11
夏休みに入ると、街はざわざわして歩きにくくなる。
午前中、市民図書館に行こうと駅前のバスプールに降りると、何時にない行列が出来ていた。老人が多く、新聞紙の細長い包みを抱えた者もいる。
ああ、墓場へ行くのか、とおもった。
昨日が旧盆の入りだった。図書館のずっと先に、葛岡霊園がある。老人たちのやや乱雑な列の中に佇んでいるうち、待つほどもなくバスは来て、人々が乗り込み扉が閉まると、菊の香りがひんやりと鼻さきに漂った。
お盆でも図書館は満席だった。
みな、図書館の書物とは何の関係もない受験勉強をしている学生ばかりである。明日が期限の『中国文芸史』の貸出だけ更新してもらって、すぐ帰ることにした。
先日までの酷暑はおさまって、明るい曇り日がつづいている。その雲が濃くなって、暗くかぶさってきたと思うと、シャワーのように白雨が降り出した。
五橋で、一人の老婆が乗って来た。
杖をついた足許はだいぶ覚束ない。そのうえ言葉も縺れ気味である。入り口までようやく歩み寄って、「若林通りますか?」と訊いた声が、運転手まで届かない。
ちょうど扉近くに坐っていて、目が合ってしまったので、とっさに「運転手さん、若林通りますよね」と呼ばわってやり、取次をつとめる羽目になった。二三の問答の後、彼女は無料パスを機械に通して乗り込んで来た。
市が出しているこの「敬老乗車証」は、深い紺色地に色とりどりの水玉を散らした洒落たデザインで、伊達政宗の陣羽織と同じ柄である。しかし昼間などほとんどが「ただ乗り」で占められていると、片道六百円払わされる自分は何なのかと納得がいかない。
老婆がすぐ前の席に座ったので、雨滴でぐっしょり濡れた手と、その手が大事そうに持っているカードが、肩ごしによく見える。
そのうち私は、たいへん不思議なことに気がついた。彼女のカードには「明11.11.11」とある。名前は片仮名がむやみと長くて読み取れない。
明治十一年生まれといえば、今年百二十四歳になるはずだ。
普段ならば、交通局はなんと杜撰な処理をしているかと呆れるだけだが、この日はおのずから別の思いがある。お盆が終われば、彼女はまたこのカードで霊園まで帰ってゆくのか。
思わず辺りを眺めわたすような気分になったが、間もなく眠くなって寝てしまった間に、老婆はどこかで降りたらしい。私がバスを降りた時には雨は止んで、雲が明るくなっていた。