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第93期予選時の、#9傷の話(でんでん)への投票です(4票)。

2010年6月30日 22時8分1秒

 森の部族はまさに未知や神秘の象徴で、出会ってから主人公の現実は夢との境界がなくなり、やがて夢が現実に取って代わる。これは主人公の世界の変化とみていいと思う。落ち着いた筆致は切迫していないようだった。

 気になるのは、はじめに傷をつけた女といえば母親じゃないのか、という疑問があって、それが(おそらく)破れた初恋になっているところを考えると、これをある共通語のように扱っているのかなと考えられるところ。
 恋愛ではないかもしれないけれど、僕は恋愛ととらえているので、印象が少し軽くなってしまったのが不満でした。

参照用リンク: #date20100630-220801

2010年6月30日 19時35分21秒

私はどうも批評言語で小説の感想を書ける頭の持ち主ではないので、つたない読書感想文になってしまう。その点、作者に申し訳ないな、と思う。

この小説を読んで――と思わず書いてから気づいたのだが、この「短編」を読んでとも、この「作品」とも書かずに、無意識のうちに「この小説」と使っていることが、なんだか私にはこの小説の自分内評価が最高に高いことを意味しているように思える。そうだ、この「傷の話」は私にとって、短編とくくるには惜しい広がりと深さがある話になっている。それはもう小説と読んでしっくりくる手応えなのだ。これが1000字であることを忘れる。

どこがいいのか? 難しいな。根本的なところだけ、無責任に書かせてもらうと、この「小説」に対する作者の取り組む姿勢が好きだ! というところだろうか。こんな理由ではやっぱり作者に納得してもらえないか?

この話は、心の傷をもつ「僕」が、その傷を自分の生活範囲で向き合うにはあまりに耐え切れなくて、放浪している話だと読んだ。個人的に生活空間で向き合うには重過ぎる問題も、移動しながら、その逃避を通じてならば少しずつ向き合っていけるのではないか、という「僕」の声みたいなものが、なんとなく冒頭の森を抜けたという記述から伝わってくる。

私が作者の作品に対する姿勢が好きだ! と思ったのは、この作品が上記のようなあらすじを補足するための化学式を書くように創られていないところだ。こうしたら読者はこう思うだろうとか、ああやったらかっこいいかな、流行っぽいな、という、或る程度の読み手なら見透かしてしまうようなイヤラシサがない。それは誤解されるような悪い表現をつかうと、作者が、ちゃんと不器用な誠実さを残している、ということでもある。

たしかに作者は練られた表現を使うし、描写も的確だ。でも、私は、本当に奇妙な出来事ならむしろ小説より現実に起こる、と思っている。小手先のロジック、意表をつく展開なんてどうでもよい。この作品の、実は不器用なくらいなストレートさがいい。傷をもった僕のところに傷をつける話、その晩に傷をつけた原因の女がでてくる――この流れはストレートすぎる。だから、実は文芸サイトではこの点で評価されないのではないか?

……だから好きだ! といったら作者はやっぱり侮辱ととるだろうか。もしも侮辱ととられるならば、残念としかいえない。でも、作者自身が本当に主人公と同じような傷を持っているのかはともかく、主人公「僕」のそばにいて、主人公と一緒になって、(今後、僕<たち>はどうやって、この傷を治していこうか?)と答えを探そうとしている。タイミングはよすぎるが、主人公の求めに対して、作者は精一杯、この主人公を救うために準備をしていく。傷をつけた村人の話をこしらえ、その夜に主人公が本当は一番会いたかった相手に会えるように、それができるだけ普遍的な形で読み手に納得できるように精一杯の仕組みをつかって、最後に再会させている。その作る手際に作者の体温をかんじる。

僕はこの、作者が主人公を最後には救わなければという姿勢。しかし、普遍性ということを考えて、可能な限りの劇を用意して読者にも受け入れられるよう配慮しながら、主人公と読者の間にたって物語をつくっていこうという姿勢。ちゃんと作者が自分のつくりだした人物たちに責任をとろうとしている。1000字だからといって、サジをなげていない。これは大事だと思うのだ。この姿勢があってこそ、次の段階、単純から複雑へ、が開けてくると私は思っている。

初期の金井美恵子の小説は、書いていることは難解だ。でも実は、その難解な、読み手を迷路にまよわせるうねる文体の奥に、何も知らない純粋な少女のような素朴な愛情だとか感性がベースにある。その難解さだけ、知性的な部分だけに気をとられると、金井美恵子を理解できない。荒川洋治もしかり。彼の詩はほとんどわけがわからない。だが……その詩の奥にあるものは。

ひとつ不満をあげると、これはここに書くことではないが、作者の村上春樹に対する批判である。わかりやすい? 陳腐? ……でも、そうだとすればバルザックの小説のほとんどは昼ドラになり、ドストエフスキーは冗長なサスペンス、谷崎潤一郎はただのフェチ作家、開高健はジャーナリストまがい、ブローティガンは甘えん坊、ヘミングウェイは2流のナルシスト、プルーストはたれながしの日記、ということにならないだろうか。私は村上春樹だけが好きではないし、というか、私も「好き」ではないのだけども、作者の村上春樹批判の文面が、ちょっと創作の姿勢としてポイントがそこなのか? プロットの単純複雑が決めてになってるのか? 大切なのは「思い」ではないのか? あとの肉付けの部分は作者の個性でどうにでもなる、と私は日頃から考えているので、ちょっとぶつけてみた。もちろん、これは私論ですよ。つぶやきレベルの。

参照用リンク: #date20100630-193521

2010年6月24日 5時3分34秒

こういうわかりそうでわからない隠喩を固めて、御伽噺のようにした小説に惹かれる。
セリフをカギカッコを使わずに表現する技法も好み。

参照用リンク: #date20100624-050334

2010年6月20日 11時16分14秒

顔に傷をもつ者たちという設定が巧く生かされていないのが気にかかるところで、怪奇の土台となる現実の部分がしっかりしていないので、怪奇が上滑りしている感もある。だがそれでも文章の安定感(推敲の余地はあるが)と的確さ。恐怖小説の定石を踏まえているところなどは評価でき、今回投稿された怪談系作品の中では最も出来がいい。

参照用リンク: #date20100620-111614


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