第79期予選時の、#23セザンヌ(みうら)への投票です(3票)。
誰がどこから語っているのか、いかにも不親切に鉤括弧が撒き散らされている。そればかりか、語り手さえも、奇妙なバランス感覚であちらこちらに視線をうつして覚束ない。語り手との関係を表していた「姪」が弟に触れるや「娘」になり、また「姪」の行動を描写していたかと思えばいくぶん暴力的に「めでたしめでたし」と話の流れをぶった切る。「浦島太郎かと思う」この小説の語り手である「私」は、果たして「いつ、どこ」にいるのだろう。全貌を眺めようと待ったところで姿はもやの中に消えてしまい、言葉を熱心に綜合してもひとつの明確な「私」が組みあがっていくことはない。「私」はきわめて不合理な位置からわれわれに語りかける。さて「私」は「太郎」という不可思議な名前をもった「弟」の兄なのだろうか。「私」は小説を不均衡な状況に掻き回すのみで、答えようとはしない。
模写した絵に価値があるのだろうかという、ひとつの問いがある。ご冗談を。価値がないのならそれで火を熾してやればいい、そんなときには小さな余興として、火のなかにりんごでもぶち込んでやればいいのだ。(K)
参照用リンク: #date20090428-211324
今までに読んだことのない感覚っていう観点から言うと今月はこれだけでした。
目的がはっきりしていないから手法が定まらない小説っていうのがあるという前提で考えた時に、このお話は、手法も目的もあるようなのだが、どうも手法が先行し過ぎて目的がぼやけているぞという印象がありました。だから、他に足すべき色はあろうかとも思うのだけど。
参照用リンク: #date20090428-000226
読んで後悔するほどつまらない作品をよみつづけてうんざりしていたところにようやく読める作品に出会った。よかった。日本語だ。うれしい。
参照用リンク: #date20090425-230817