第43期予選時の、#21上空(川野直己)への投票です(4票)。
小説が物語であるのは、物語の器として小説が選ばれた時であって、小説を小説足らしめるのに必ずしも物語は必要でなく、それでは一体小説を小説足らしめているのは一体何か。その思索のあとが川野さんの作品にはあって、今回の『上空』がその到達点だとは思わないが、方法はある程度確立されてきているように思う。
他にも上手い作者がいる中で、こんなことを書くのは気がひけるが、川野さんは短編参加者の中で、「小説を書く」ということにもっとも自覚的な作家なのではないか。もちろん「小説を書く」ということに自覚的であるから優れている、というわけではないし、他の作者に対しても、そうであらねばならないと思っているわけでもない。
参照用リンク: #date20060314-172041
おれは陣場山に登山したことがあって、あと身近な土地の名前が出てきたりとかで、ようするに作品の近所に住んでいて、そういうところに親しみを感じました。なにしろ、そもそも、状況有利な村人同士の疑心暗鬼とかが原因らしいですからね、そういう感覚も鑑賞の一助でしょうともそうですともね。おお、どうしても一言いいたくなってしまった。
そういう親近感をもって読み進めていくことは、たとえば日常的な、白いごはんをよく噛んで米の甘さなどをよく味わって楽しみながら食べていくことに似ている気がするのだけれど、そうしてよく噛んでいるうちにやがて、一粒硬くてこれは噛めつぶせない米が混じっているなとふと気づき、それでもやみくもに噛みつづけていると、しだいにその硬いやつが増えてきて、咀嚼できず、やがてはその硬いやつばかりが口中にあふれてきてしまい、どうやらその硬いものとは要するに砂粒なのだと気付き、それならこのざらざらした嫌な感覚も理解できるのだが、一度口の中に入れたものをなぜか吐き出すことができず、とにかく口の中にざらざらとした嫌な感覚だけが残ってしまう、というような感想をいだきました。
(僕)以外はだれも出てこないお話といった印象で、あとは実在の地名や、天皇や、老人や、(僕)が一方的に、勝手に、感興を抱いたものばかり。(僕)が投げかける言葉はどこからも跳ねかえってはこない。そしてその(僕)は眼が赤くなるほど疲れている。赤くなるのは眼の白い部分ですよね。つよい孤独のにおいがしました。
おれが作品を噛んだように、(僕)も(赤身を醤油に浸し頬張りながら)、実在の地名や、天皇や、老人のような、(僕)以外の砂粒を噛む。砂粒を飲みこんでからだの中に必死にしまいこもうとしている、だが疲れてとりあえず眠った。そんなふうに見えました。からだの中にとりこんだら、物分りの良い大人になるんですかね。どうでしょうか。そしてなぜ、ほおばる必要があるんでしょうか。ともあれ、その作業にまつわる苦労を感じました。頑張ってください。孤独か孤高の違いは判断しかねました。
参照用リンク: #date20060314-142152
川野さんの作品、楽しみにしていた。
この作品のどこかに、もっと感情を表す一文があったらよかったなぁと思う。
参照用リンク: #date20060304-202806