第104期予選時の、#2ちょこん(Qua Adenauer)への投票です(1票)。
ちょこん
ちょこんを、ちょこんと、3回くりかえしている。意味を暗示する繰り返しは2回でよいのではないかなぁ? と、いった感じだ。
2日ほど考えたことを書いて感想としたい。まず、何となく既読感がある。最初は感じないのだからよくできた話ならでの、デジャブーだと思う。そうならば、なぜ、芥川の短編に既読感が浮かばないのか……なんぞと想像が広がった。この作品、「ちょこん」では、疑似体験ができていないのではないか、こういった二人の関係、良いな、と、……欲望とか、羨望の気持を描き立てて、いいなぁ。 で、終わっている。
それに対して、芥川のポンと思い付く短編の、蜘蛛の糸、鼻、ちょっと長いが羅生門などは、感情ではなく仮想の体験を作り出してくれる。仮想の体験のためには、ある塊の感情だけでなく、それを入れる世界が必要でその世界の枠組みは、見も知らずの読者と作家が共通する実態世界でつくる。
……だから、現実感・テンポラリーがないと駄目なんではないだろうか?と、……同じく芥川の「薮の中」(たしかそんな題名だった、山賊に男が殺される話か? 女が裏切る話か、たしか山賊が矢分の中で犯罪を犯す、……そんな話だった、ようなと、おもうのだが、……)を、思い出し、比べながら考えた。
薮の中、という小説は疑似体験の、不能なことを、推察させる構造になっている。だから代表的な作品ではあるが、どことなく、デジャブーがある。アラビアの話やなにかの、翻案じゃないか? とも、思うような、ところがある。いやいや、もちろんよくある話で、本当のトコはわからないという事件は、共有しているんだが、共有している体験が疑似体験ではなく、擬似推測・うわさ話の体験。と、いうことなのだ。……だと、いうはなし。
そこで、ちょこんの繰り返しを2回にとどめて、蜘蛛の糸ならおしゃか様と蓮の香のような、時間共有の構造にしたらよいのではないか? ちょこんのどれかを、削って、「ちっさな子供が偉そうに文庫本をとろうする」など、描いたらどうだろうか? と、想像が広がった。
いろいろと、もう数日にわたって楽しませていただいております。この作品を推薦します。
参照用リンク: #date20110516-093453