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よっこらせっと第58期感想10-12です。

で、第四弾。

10 例えば千字で刹那を 黒田皐月さん 1000

 刹那という言葉が出てきたので最近読んだ本から少し引用してみる。「せつない話」(結構古い)というアンソロジーを編んだ山田詠美は、巻末で「せつない」という気持ちについて、「五粒以上の涙では解決できない複雑なもの」と表現している。ここで私が注目したいのは五粒という数ではなく言葉ぜんたいから伝わる感覚のほうであるが、ここであえて数に注目して思考してみた。つまり――「それでは五粒の涙とは何ミリリットルを指すのか」「正確に五粒以内であると誰が決めたのか。どのように測定したのか。統計を取ったのか」「では小説家として、どれだけ少ない涙でせつないが表現できるのか」――私は何だか、乾いた砂を手の中でこすり続けているような気持ちになってしまった。おそらく今の主人公の感覚も、これに近いものではないだろうか。徹底的に極小時間を追い求めることで、自分に何かの意味を見出そうとているような、血のにじむ孤独な努力。

 言葉での語りを志向する者が言葉に意味なり解釈なり感覚なりを見出し、それを自分の表現にしようと志した時、物理学的に定量できるものだけを求めているわけにはいかなくなるのだと思う。qbcさんの感想でも時間の感じ方について言及されていたけれど、時・分・秒あるいはコンマ以下の数字そのものではなく、その時間のなかにあるものについて書かれていたそのことばが私には印象深かった。もし黒田さんが「千字で刹那を」という物理的に限定された環境を先に設定することなく、自由奔放な感性で「刹那」を求めようと志向した時に、やはり同じ事をお思いになるのではないか。そんなことを考えた。


11 男たちのヤマト 大股 リードさん 781

> 「極上のを頼む」

 今度何かの折に使いたい。

 ところで昔戦艦大和について少年向けに書かれた本に書かれたある水兵さんの言葉「一番でっかい船に乗せてください」を少し思い出した。だからなんだというわけではなく、血気にはやるお殿様な若僧の大艦巨砲主義には参るぜ、みたいなことを思ったり思わなかったりした。そんなわけで、最近の映画タイトルのまんまで、しかも中身が全然違ってるくせに、奇妙にマッチしているのが愉快痛快だった。


12 ジョー淀川 vs 峰よしお 頭をわしづかみされるハンニャさん 999

 峰よしおが出版社に全く愛されている感じがないところは、筒井康隆っぽくてよくあると思ってスルーしてしまったのだけれど、戦場ヶ原さんの感想を読んで、そうかそこもツッコミどころだったのか、と改めて自分が鈍ってるなあと感じた。「よしおのちょうしを、どれだけのせることができるか、」はわざと違和感を出したのだと思うけれど、まあ瑣末はいいとして。

 本物しか愛せない男が愛していたのは文書化された規則であった。本物しか愛せない男は言いすぎだろうと思う。社則なんて社長の一声で変わるものだってことは、新入社員でも気づく。そういうツッコミ方をしてしまって楽しめなかった。どうも自分は笑いのポイントが人とずれているらしい。でもハンニャさんの作品に通底するつきぬけて明るいテンションは好きで、自分もこういうのが書けたら人生変わるなとかなり本気で思っている。

お疲れ様でした、Re:よっこらせっと第58期感想

久々のご感想を、ありがとうございました。
「刹那」は「切ない」に起源を持つのかと疑ってしまいました。BookShelfにはなかったから、違いますよね。

〉10 例えば千字で刹那を 黒田皐月さん 1000
〉 言葉での語りを志向する者が言葉に意味なり解釈なり感覚なりを見出し、それを自分の表現にしようと志した時、物理学的に定量できるものだけを求めているわけにはいかなくなるのだと思う。qbcさんの感想でも時間の感じ方について言及されていたけれど、時・分・秒あるいはコンマ以下の数字そのものではなく、その時間のなかにあるものについて書かれていたそのことばが私には印象深かった。もし黒田さんが「千字で刹那を」という物理的に限定された環境を先に設定することなく、自由奔放な感性で「刹那」を求めようと志向した時に、やはり同じ事をお思いになるのではないか。そんなことを考えた。

どうでも良さそうなことですが、言葉には定義があるということが理系崩れの私の感性の基礎にあります。きっとそれが、物理的に限定された環境という枠を最初に設定してしまったのでしょう。
しかし、その枠の中で、「言葉に意味なり解釈なり感覚なりを見出し、それを自分の表現にしようと志す」ことは試みていきたいと思います。いやそう言ったものの本当に追いたいのは、例のとおりの女装少年なのですが。

さてついでですが、以下の感想について異見を提示したいと思います。今期は本当はそういうことがやりたかったのに、放棄宣言をした後にこれとは、うまくいかないものです。

〉12 ジョー淀川 vs 峰よしお 頭をわしづかみされるハンニャさん 999

〉 本物しか愛せない男が愛していたのは文書化された規則であった。

この考え方は柔軟性に欠けると思います。規則とは、法律とは、ルールとは、即ち道具。秩序を維持するために制定された道具ではありますが、これを文字通り盾にとって利用することもあるものです。誤解を恐れずに言えば、それが争議の方法なのです。
ジョー淀川が規則を持ち出したのは、彼がそれを愛していたからではなく、自分の正当性を主張するために過ぎないのです。
それにしても、ハンニャ氏は「峰よしお最高Tシャツ」のような小道具が好きだなあ。

感想の分量は書く人ごとにあるものなのかと思う、黒田皐月でした。なぜなら自分の書く分量も進化しないから。

Re:お疲れ様でした

「刹那」と「せつない」の語源の違いについては、そういえば忘れておりました。違うというご指摘のとおりですね。
 仏教における「刹那」の考え方は、それの定める時間を決める派と、定量的に表すものではないとする派とで分かれるようです。私はどちらかといえば後者に賛成です。

 ところで刹那とせつないとは、語源が違うからといって両者を完全に分離し得ないような気がしています。せつないという感情は「刹那に生じ消えさる」そういう性質を持っているのではないでしょうか。せつないが昂じればかなしいになり、せつないが去ればまた異なる感情が生まれる。「五粒の涙」ですね。
 一瞬に生まれ、消え去るもの、その儚いものを捉えようと心が揺さぶられる。刹那に生まれ、去る感情。この心の動きとせつないという気持ちとは、完全なイコールではないのですが、どこか似ている。これが「刹那」と「せつない」という二つの言葉に強い縁を感じる理由です。
 より仏教に近い言葉にしてみると、悟りを得る過程で、己の業に気づきはらりと涙する心、というところになるのでしょうか。専門ではないのでわかりません。あくまでアナロジーです。

 黒田さんの作品で言えば、「擬装☆少女 千字一時物語9」に出てきたかわいらしいネグリジェを着る少年の、その袖を通し肌を包む至福の時間。その時主人公が感じているものが、「せつない」という感覚だったのではないかと思います。肉体的に男性であるという自分を意識しながら、女性の服を身に纏うことで、自らの存在を確かめ、安らぎを得る。矛盾であるという感覚を抱えながら、ありのままに生きようとする少年。あの一瞬には、少年のすべてがあったのではないでしょうか。
 すると黒田さんは一度、刹那をその筆の上にのせて文字にしたことがある。しかもそのことで短編読者の共感を得てさえいる。そうとも言えるのかと思います。

 このようにして、ことばは意味を少しずつ転じてゆくのかも知れませんね。あるいは自分が知らないだけで、既に同じ思想がより洗練された表現で語られているという可能性もあります。どなたかご存知であれば、ぜひ教えてください。

蛇足ながら。

>> 本物しか愛せない男が愛していたのは文書化された規則であった。

 これは、ジョー淀川が「本物しか愛せない男」と書かれていたから、編集部のみんなも等しく愛していない峰よしお最高Tシャツを愛せないというだけなんだろうか、ハンニャさんのことだからキャラの設定を生かす仕掛けがもっとあるんじゃないか、と思って読んだためです。読み返してみると、切羽詰って取り出しただけという風ですね。ジョー淀川は単に、峰よしお最高Tシャツの持つ何かが許せないということなのでしょう。

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