「桜の樹の上には」の感想に代えて、2本の1000字小説
(長文なので興味のない方はスルーしてください)
三浦さん
解説ありがとうございます。これを読んでやっと私にも内容が理解できました。まともな感想をこれまで書いてなかったので、ここらあたりでちゃんと批評を書いてみたく思ったんですが、それも書けるか不安なので、いっそのこと私も小説で返信しようと思います。
私自身が感心し、あるいは感動したテーマはそのままに、私が物足りなかった(生意気ですが)点は作り変えました。まあ、余興と思って読んでもらえれば光栄です。真似して思ったのは、三浦さんの文章は詩情があって、そこは真似できないなと思ったことと、あえて話をクリアにしないことも大事だということがわかった気がしました。また暇があれば、投稿作品の解説をつけてくれるとこうして三浦さんと遊びができてうれしいです。同じ桜を眺めている気がしました。
「贋作 桜の樹の上には」(文字数・1000)
私はまもなく目が見えなくなるらしい。医者が理由を説明している。その声は次第に遠ざかり、私はひいじいさんを思い出している。じじも目がみえなかった。だから遺伝なのかな? どんな顔だったかすっかり忘れてしまったのに、じじの手が温かったことと「メードーだ!」という口癖は覚えている。なぜそこだけ覚えているのか、わからない。
私が村を出てから二十年たっていた。目が潰れてしまう前に一度帰ろうと思って、帰宅後すぐに支度をして家を出た。晩の寝台列車に間に合って乗り込む。真夜中、隣の寝息がうるさくて目が覚めた。外でも眺めるかとカーテンを開けると真っ暗だった。月も星もみえない。目が慣れてくるのを待っていたら、急に頭痛がした。
春の晩だった。夜中に目が覚めて、勝手に布団を抜け出して庭にいた。みんな寝静まって、明りひとつない闇の中、少女の私が古い桜の樹の下に立っている。私は夢遊病だった子供の私を眺めている。少女はハッと意識を取り戻した。真っ暗で怖いのだろう。震えている。私が行きたくても体が動かない。
「大鳴動だ!」
そうだ。あのときじじが来てくれたんだった。私は少女の私とひとつになった。ひやりとカサカサの手で私を抱いてくれたじじ。呪文のような鳴動という言葉。私は不思議に思っている。じじも目が見えないはずなのに。じじは怖くないの?
やっぱり盲目になりたくない。その世界は矮小的で孤独すぎる。私はじじのようにはなれない……気がつくと列車は着いていた。眠ったようだ。降りると真冬のしゃきっとした太陽が照っていて、少し元気になった。
実家を守ってきた父は私の急な帰郷にも慌てず、二十年のわだかまりが溶けていった。私の部屋はあの頃のままだった。私は毎日何もせず、眠った。按摩になるのも難しい。琴が弾けるわけでもない。いずれ目は潰れる。さてどうしよう?
お手伝いさんが桜が咲いたと私を呼びにきた。はいと返事をした途端、視界から色が消えた。ついにきたか!
桜の木に走った。吹く風が私の鼻腔の奥に桜の匂いを届け、それは優しかった。黒い花びらの舞いが耳に響きはじめたとき、私は鳴動だ、と叫んだ。
この桜はじじが咲かせたものだろうか。急にこの木が愛しくなった。二十年間、この家も桜も嫌いだったのに。
「目がみえなくなったわ」
お手伝いさんが慌てて家に戻っている間、私はじじが好きだったという高砂を小声で謡った。気持ちがよかった。
「贋作2 桜の樹の上には」(文字数999)ケータイ小説っぽく
○
こんにちは。
もうすぐ、私の目は見えなくなります。治せないそうです。目が見えなくなってもこうしてメールのやりとりができるのかどうか、わかりません。誰かに手伝ってもらったら、またメールがうてるかもしれない。でも、今までのような愚問(?)はもう書けなくなるかもしれない。誰かに読まれるのが恥ずかしいからね。
私からの質問です。
<目がみえない世界にも希望はあるでしょうか?>
●
こんにちは。
稲妻に さとらぬ人の 貴さよ
俺は君に、少し意地悪する。これは芭蕉の詠んだ句だが、この句を君に贈るのは残酷すぎるかもしれない。俺はその効果を十分に知っている。
来世はあるか、と釈迦は訊かれて答えたそうだ。ある、といっても正しくないし、ない、といいきるのもおかしい。あるかもしれないし、ないかもしれないというのは真実ではないし、来世はありつつ、来世はない、というのもどこか違う――つまり釈迦にさえ先のことはわからなかった。視力のない世界の希望のことは俺にはわからないとしかいえないが、その問いの答えはもしかしたら、一本の桜の木を眺めることにあるかもしれない。
○
こんにちは。
まだ見えています(笑)。でもこれから盲目になる人に、桜の木を眺めろなんて残酷だわ。悟ろうとしないことを説くくせに。実は私は二十年ぶりに生家に戻っていて、庭に桜があります。曽祖父が好きだった桜。そのじいさんも目がみえなかった。なのに、花びらをみては「メードー」って叫ぶんです。質問です。メードーってなんですか?
●
こんにちは。
まさか爺さんが愛人のメイドを呼んでたというオチでも俺は笑わないよ。鳴動のことだろう。でも冥道のことかもしれないね。地獄にいる仏のことさ。
○
目がぼんやりしてきた。でも携帯のメールをうつならできるから、これ最後かもしれない。見えなくなる前に桜がみたかったけど、まだ咲いてなくて、あ。
■
彼女からのメールを読んだ後、
春の岬旅のをはりのかもめどり
浮きつつ遠くなりにけるかも
と呟いた。三好達治が梶井基次郎を見舞った歌だった。これから視力を失くす女に優しい言葉ひとつもかけられないことに嫌気がさして、俺は台所でニーチェを焼いた。ひらひらととんだ一片に「自己嫌悪という男の病を癒すのは賢い女に愛されることだ」と書いてあった。桜がみたくなった。
□
メールをうってると、お手伝いさんが桜が咲いたのを告げにきた。途端に視界から色が消えて、私は庭へ走った。
自作解説はもうやりません。作者にとっても読者にとっても野暮なことですから。
投稿作品を「作り変え」る「遊び」は私もやってしまっていますが、そうすることで「同じ桜を眺めている気」になれたりしますから、たとえ解説がなくても、そして私の書いたものでなくても、「遊んで」みていいんじゃないかと思います。
「贋作 桜の樹の上には(遊び)」(文字数・980)
私の目が見えなくなる。医者がそう言っている。その声がだんだん消えていく。私はひいおじいちゃんの事を考えていた。おじいちゃんも目が見えない人だった。おじいちゃんの手は老人のわりに温かく、でも老人だからか「メードーだ」という変な口癖を持っていた。
実家を出て二十年。連絡も取らず、結局一度も帰らないまま。失明する前にこの目に焼きつけよう。帰りの電車を待つ間にそう決心し、そのままの勢いで寝台列車に乗り込む。隣の鼾で起きたのが深夜。寝るのを諦めてカーテンを開くと、外は真っ暗だった。じっとその暗闇を見ていたら、急に胸が締めつけられるみたいに痛んだ。
少女が深夜、蒲団から抜け出して庭に出る。他の者は寝静まり、外は月明かりのない闇の中。少女は古い桜の樹の下に立つ。この少女は私だ。夢遊病なのだ。少女ははっとして、すぐに体を強張らせる。目が覚めたんだ。ああ、行ってあげたい。でも、体が動かない。
「メードーだ!」
そうだ。何も見えなくて震えていた私を、あの時おじいちゃんが救ってくれたのだ。大きなかさかさの手で。私は不思議だった。おじいちゃんも目が見えないのに、どうして恐くないんだろう。暗いのは嫌だ。さびしい。私は、おじいちゃんのようにはなれない。
列車は止まっていた。結局眠ったみたいだ。列車を降りる。
実家を独りで守ってきた父は、夜遊び好きな娘が朝帰りしたのを迎えるかのように、私に接した。私はたちまち「父の娘」に戻っていた。不思議だ。私の部屋は、緊急回避的に持ち込まれたものはあったものの、それをどかせばあの頃のままだった。私は親不孝娘らしく毎日何もしないで過ごし、何もしないのでよく眠った。おい、いずれ目は見えなくなるぞ。さあ、どうするんだ。そんなことを考えていると、すぐ眠くなる。
「桜が咲きましたよ」
お手伝いさんの声に目を覚ます。はい、と返事をした途端、目が見えなくなった。
私は走った。桜の下と思われる方向へ。花の香りがしるべになった。やさしい香り。おじいちゃん。おじいちゃん。私は叫んだ。
「メードーだ!」
桜は、きっとおじいちゃんが咲かせてくれたのだ。なんだか愛しい。二十年間、この家もこの桜も嫌いだったのに。
「目、見えなくなった」
お手伝いさんが慌てて家に引っ込むのを聞きながら、私は、おじいちゃんが好きだったという高砂を口ずさんでいた。楽しかった。