仮掲示板

紙と画面

 一ヶ月間で掲示板に百五十も投稿があるなんてすごいな。全く流れが掴めないからぜんぜん関係ない話を書くよ。本当はそんなに無関係でもないけど。

 二〇〇七年三月号の「群像」に『音声の回復と現代文学の可能性』という古井由吉と松浦寿輝の対談がありまして、その初めのあたりを少し引用します。
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松浦: 言葉が軽量化したというのか、バーチャル化したというのか、リアルな重さがなくなりましたね。ひとつひとつの文字、ひとつひとつの言葉の持っている固有の重さ、触感、色合い、味わいといったものが捨象され、メッセージだけに還元されて、そういう幽霊みたいな言葉だけが恐ろしい速度で行き交っているような印象なんですよ。
古井: それが極限まで行って、そこから何が出てくるか。全体が非現実化して重みを失っているというのは、何も文学だけじゃなくて、この日本という社会が戦後長い時間かけてそうなってきた。経済成長といい、バブルといい、いずれにしてもインフレでしょう。インフレになると物事が根をなくしやすい。物事がつねに新規に追われて、それなりのいきさつとか歴史を持つ閑もない。そうなってから、もう三代目に来ている。だから、重みがある言葉で語れといっても、そもそも重みという体験がないのだから、できない。文字そのものが、随分心細いものと感じられてしまう。それで、余計に言葉をまき散らす。そういうことなのではないかと思うんです。
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 一昨日、多摩地域の某市の居酒屋で、qbcさんと飲みながら話したことの一つに、紙にペンで書くこととキーボードで文字を打つことの相違、という話題がありました。たとえば僕が小説を書き始めた五年前は、ノートにシャーペンで下書きしたものをパソコンで推敲していたのですが、いつからか直にキーボードを打つようになり、昨年からは再びノートにボールペン、と試行錯誤を続けています。
 キーボードから入力するとき、初めにカナ入力とローマ字入力の選択があり、次にテキストエディタかワープロソフトかを選び、さらに横書きか縦書きかを決めます。紙にペンで書くときには、原稿用紙で縦書きにするか、ノートで横書きにするか。同様に、文章を読むとき、パソコンの画面上ではほとんどが横書きですが、一方で日本語の書物は未だほとんどが縦書きです。
 さて、紙にペンで書くこととキーボードで文字を打つこと、これはおそらくたいへんな違いがあるのだろうと思います。現在の短編参加者には、原稿用紙に万年筆で書いている人もいれば、携帯でむにむにと文字を打って投稿する人も多分いるでしょう。脳から指先に送られた思念のようなものが可視化されて文章になる点では同じですが、実際、投稿作品を読んでみれば、皆が同じように書いているわけでもなく、改行の数や頃合い、句読点の間隔、漢字のひらきかた、これらは執筆の手段によって決定されるといっても過言ではないと思います。
 英語圏における小説家はずいぶんと早い段階からタイプライターを使っていて、また、彼らは主に二十六文字で構成される世界に生きてきたけれど、日本において日本語入力システムが普及したのは僅か二十年ほど前のことです。脳から指先への伝達のしかたや、この新しい方法による影響は、一般的にあまり考えられていないように思います。勿論、僕も解ってはいないのだけど、だから紙から離れることは危険だと思っていて、容易には手段を選択できずにいます。

 けれども「短編」はウェブに存在するのだから、パソコンを使わずには投稿もできないけれど、一言で「パソコンで文章を書く」といっても、まだたくさんの選択肢があります。ここでは特に、文章をウェブに載せる方法の変遷について、幾つか述べます。
 今から七年ほど前にテキストサイトというものが流行したことを、知らない方も多いのではないでしょうか。当時は、テキストエディタなどで作成したウェブページを、何度か推敲を繰り返したのちにアップロードするという形式が多く採られていたと思います。一方、現在ではブログが主流になり、管理画面のテキストエリアに直接入力する場合が多いかと思われます。どちらの方法でもキーボードから入力される点では共通していますが、後者は自分の書いたものの全体像が把握しづらい(テキストエリアはせいぜい十行程度)という側面があり、前後の関係性が断たれやすいという弱点でもあります。
 上に引用した対談で松浦の言っていた「恐ろしい速度で行き交う」言葉というのは、たとえば携帯メールであり、またはブログの記事かもしれないけれど、重みのない、散らかりやすい言葉というのは、確かに増えていると思います。現在の「短編」においても認められる現象です。前置きが長くなりましたが、ここから本題に入ります。

 五年前と現在の短編とのあいだには、テキストサイトからブログに主流の移行がありました。このことが、短編に投稿される作品の質に、どう影響していたか。断片的な言葉の羅列が多くなり、ひとつながりの文章を読んでいる気がしない、そんな作品が増えたと僕は感じています。僕自身が未熟ですから今まで批評は差し控えてきたけれど、正直、投稿作品の半分ほどはいつも最初の一行しか読んでいないし、ひどいときは投稿者の名前だけをみて中身を判断するときがあります御免なさい。でも、もうすこし真面目に考えようぜ、という名前も増えています。適当な名前と、恐ろしい速さで書かれた文章を、推敲することもなく提出しているな、と思われる作品がちらほら見られます。
 今こうして掲示板に投稿している文章さえも、僕はTeraPadで書いたものを一晩寝かせてから見直して、手直しを加えています(そのわりには読みづらい文章で済みません)。インターネットの有利な点は即時性であるとqbcさんは言っていたけれど、否、それに乗って文章を書く必要などはなく、逆に恐ろしいほどの時間をかけて練り上げるほうが面白いものが出来上がることもあると思います。たとえば書いている対象が、途中で変化を遂げてしまった場合、それを反映させればよい密度の高いものが出来上がります。出来上がったものを声に出して読み、前後が綺麗につながっているか、途切れていないか確認する作業も必要です。そうなると自然に改行の頃合いも決まってくる。一行ごとに空間を作るような、視覚のみに訴える書き方はまず否定されると思います。
 言いたいことはまだ山ほどあるのですが終わりにします。最初に引用した古井由吉と松浦寿輝の対談は全部で二十ページほどですから、時間と興味のある方は図書館で『群像』を探していただけたなら、すぐに読めると思います。

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