今期は豊作だと感じました。投票した作品以外にも、これは、と思う小説はあり、名残惜しく思ったので、以下、四篇について感想を書きとめておきます。…では、次は91期でお会いしましょう。
【見習い魔術師と猫「雨空と猫と僕と」】
ところどころみずみずしい文体が露出していて、素直な、のびやかな声を持っているのに惹かれる。雨に濡れた猫の描写など、豊かな質感をたたえてもいる。ただ、クリアすべき課題も、それなりにある。
冒頭、「さめざめと」は「降る」じゃなく「泣く」にかかる副詞だと、知った上であえて外しているのだろうが、どんな効果を狙ってのことかはわからない。「基本中の基本、炎を操る魔術式くらい早く覚えてくれないと、私としてはとても困るんだけどね。」といった説明調の台詞へ、「僕は彼女が言うように基本中の基本の術式すら操れないほどの落ちこぼれだ。」という説明が畳みかけられるのは、どうしたものか。
「彼女の仕事は僕が立派な善意ある魔術師になるように補佐することで、僕は見習い魔術師だ。」こんな言わずもがなの「要約」が小説を殺すのだ、ということを肝に銘じた上で、作者は読者の理解力を心配することをやめて、もっと信頼してはどうか。書くこと・書かないことのバランスを、もう一度考えなおしてみれば、作者の本来の美質、ビブラートのかからない美しい声を、もっとしっかりと読み手の心に届かせる術が見つかるはずだと思う。
【ヂアディクト】
冷蔵庫の中の奇妙な住人。思いつきに任せたような荒っぽい筆運びだが、書き手のサービス精神は案外と行きとどいていて、特に「おじさん」の「生きちょる! 生きちょる!」という感嘆の声はまさに「生きちょる」し、「3-2 ひかり」のゼッケンにはただ笑った。全編がこのテンションに満ちていれば、佳作になったと思う。好きなタイプの小説ではないけれど、笑わせる小説には例外なく力がある。
この小説の場合、笑を生み出しているのは「細部」の持つ力だ、と言いたい。細部にこだわる余地は、もっとある。思えば、森さん、宇加谷さん、qbcさんの小説には、さらに豊穣な細部が充満している。
【はぐるま】
唐突に宣言するが、この作者の第76期の「写真班員と市場」は疑いもなく傑作である。ヴァルター・ベンヤミンの「一方通行路」の中の断章の一つに、世界がたちまち一冊の本へ収斂していくさまを描いた詩編があったのを思い出す。ある空間の持つ猥雑な力を、五感を酷使して描ききってみせる力に目を瞠った。描写への信頼が全編を覆っていて、感動的だった。76期、予選票を投じなかったことを後悔しつつ、今、懺悔とともにここに記しておきます。
…さて、今作は、その「写真班員と市場」を裏返したような作品になっている。虚無を言葉で描くことは可能か、なんて禅問答みたいだが、作者はまさにその難事に挑みかかっているように見える。しかし、小説から描写を剥奪し、「白い」の反復に賭けようとしたのは、正しい選択だったか。少なくとも僕には、隔靴掻痒、言葉をいくら重ねても書き手のこだわりが見えてこない、もどかしい思いが残った。小説書きとしての野心というか、向上心を強く持っている書き手だということは強く感じるので、期待しています。
【思い出と記憶の間】
これも力のある書き手で、再読するたびごとに、じんわり味の滲み出てくる作品だと思う。この書き手はずいぶん書くことについての修練を積んだのではないか、と思わせるだけのしたたかさがある。
ただ、好みの問題と言えばそれまでだが、そのあまりに古風な語り口に気持ちを乗せることができず、ここに描かれている埃っぽい男女の関係にも、読む気持ちをそそられなかった。
この小説が輝きだすのは、実は最後の段落ではないだろうか。
「二十一世紀になり、女はかつて希望したように遠い所に居る。」この大胆な踏み出し方にははっとさせられるし、幕切れの、さりげない一節にこめられた繊細さにも、思わず唸る。「あの夜、部屋のドアを開け、いくぶんひんやりとした中に飼い猫の声を聞いた時は実にほっとしたものだった。女は一日中、ガスストーブを消し忘れたのではないか、という心配にとらわれていたのだから。」日常感覚へのリアルな手触りが、失われた記憶の切断面を白々と際立たせる。上手いものである。こんな文章から始まる物語をこそ読みたい、と感じるのは僕だけだろうか。