仮掲示板

Re:障害者観について

なかなか伝わらないようで、自分の文章力のなさにほとほと呆れます。

〉 障害があろうがなかろうが、誰とでも同じように生きていけること。それを目指していきたいということです。
〉 現実にはあまり達成されていないこの目標を、作品では達成させていきたい。
〉 今回はごく普通の一場面を書いたつもりです。

「誰とでも同じように生きていけることを目指すこと」が目標ということでしょうか。それだったら、既に誰もがそう望んでいると思います。「誰とでも同じように生きていけること」が目標なのだとしたら、現実においてまだ達成されていませんし、この作品中でも達成されていませんね。

〉 障害者に夢を見させるのは残酷だという意見がありました。しかし子どもの夢を、大人は「ありえない」こととして切り捨てていくものでしょうか。

前回のレスでも書きましたが、こどもが夢を見ること自体はごく自然なことだと思います。しかし、叶わないことがわかっていながら夢を見るように誘導する行為はどうなのでしょう。夢を見させたことに対して責任が取れるのでしょうか。

〉 子どものころにプロのスポーツ選手を夢みて、叶う人はほんの一握り。それを「ありえない」から夢を見るなと言えるでしょうか。別の形(プロではない場など)で叶えたり、夢みた気持ちを糧に生きたりするのでしょう。
〉 障害があってもなくてもそれは同じ。

同じではありません。歩けない人が50m走のオリンピック選手になることは残念ながら無理です。どうやらこの「同じではない」という単語に過剰反応されているようですが、その人が歩けるようになるかどうかは純粋に肉体的(医学的)問題であって、「社会」とはほとんど関係ありません。つまり、障害者であるという問題の核には肉体的問題があって、それを治すことが唯一の根本療法なわけです。で、現在の医学では治せない、という時点で、ようやく「社会」が出てくるわけですね。つまり社会的問題を解決するという行為は対症療法なわけです。この二つの問題点はもちろん互いに関係しあっていますが、不可分というほど複雑に絡み合っているわけではありません。
何が言いたいかというと、「障害者も健常者も同じように生きられる」ことを実現するには大きくわけて二つのアプローチがあるということです。また、一言で「肉体的問題」「社会的問題」と言っても、その中はさらにいくつかの問題に細分化することができます。何故そんなに細かくわけるかというと、それぞれの問題に対して別個にアプローチされてるからなんですね。肉体的問題で言えば、治療法の研究、手術療法、投薬療法、リハビリ(も更に細かく言えば物理療法、作業療法など)といったようなことが挙げられます。
もちろん、それらの問題を総括的に捉えることは重要ですが、そのためにも、まず問題点をそれぞれ明確にしていく必要があるわけです。問題が不可分だと言って、おぼろげな全体像だけを追いかけても何もできないのです。

同様に、
>しかし「少女が夢見たサーフィン」を具体的に捉えようとする考え方では、建設的な未来はないのでしょうね。
と書かれていますが、この少女の夢を具体的に捉えることは非常に重要なわけです。二本足でボードの上に立って波に乗りたいのか、ただ波に浮かぶことがしたいのか、夢を具体的に把握した上で、少女の現在の状況と照らし合わせて最善のサポートを尽くすことが建設的な未来と言えるでしょう。

この少女の夢に関して、翻車魚さんは
>「少女が夢見たサーフィン」がどんなものであるかなんて、誰にもわかりません。作品中に表現されていないのですから。
と書かれていますが、作品中には
>お父さんが昔、オーストラリアでサーフィンしたんだって
とキーワードがしっかり提示されています。また、他の二人の少女の夢が「テレビのバレー」や「愛ちゃん」のように「自分の足で立って」活躍する選手に憧れているという内容であるため、この少女も同様に「自分の足で立って」サーフィンに乗る夢を見ているのだと判断しました。読者としては、このように作中に書かれている言葉を元に読み取っていくしかないので、翻車魚さんが意図した内容と異なるかもしれません。だとすればそれは僕の読解力が悪いのであって、もっと精進しないといけないと思いました。

おそらく、翻車魚さんはまだ何となく「障害者も健常者も同じように生きていけたらいいなあ」という理想を思い浮かべたに過ぎない状態だと思います。ですから、「同じではない」「残酷」「違和感」など、その理想と相反する要素を持つ単語に対して過剰に反応してしまっているのではないでしょうか。

Re*2:障害者観について

>もぐら様

 「誰とでも」より「誰でも」のほうがよいようです。失礼しました。
 「誰でもが同じように生きていけること」が目標です。漠然としていますから、すぐに達成できるものではありませんし、本作のみで達成しようとするはずもありません。そのような考え方で書き継いでいく、というだけにすぎません。当然ですが。
 「既に誰もが望んでいる」とおっしゃいますが、私はそうは思っていません。望みの内容は違うでしょうから。

> 夢を見るように誘導する行為
は作品中のどの部分を指すのかわかりません。
 サーフィンの例を挙げておられますが、文中の少女が具体的にどういう夢を見たかを追求することを本作では目指していないということです。
 夢を抱く子どもは具体的にイメージしていないことも多いと思います。スポーツをするのに必要な能力を、はじめから具体的に考えられる子ばかりではないでしょう。だからそこを書く必要は、本作ではないと考えています。具体的な(PTやOTの)サポートを事細かにイメージしていただく必要を感じません。
 たとえばサーフィンの例を実際の問題として考えると。子どもには、父親が楽しい思い出として語った経験を、自分も共有したいという願いが強いと思います。ならば実は「サーフィン」と固定する必要がなくなってくるのです。
 障害があっても「こんなことは無理だ」と決めつけずに、自由に他者に話せる雰囲気を書こうとしました。これまでの文学作品では、そういうことに気をつけられたものがないと感じています。先に書いたように障害者の特殊性が扱われることが多いと思っています。障害者だから感動した、というように。

 夢を受けとめた上で、その夢のためにどんな手伝いができるかを考える、という順序が、私にとっては基本です。
 健常者に近づこうとすると限界があり、健常者と全く同じになることはほぼ不可能と言えます。原則として治らないものを「障害」と呼ぶのですから。
 理想は、障害があっても治療なんかせずに健常者とともに生きられることです。障害者=少数者、健常者=多数者で、社会は多数者に便利なようにできています。そこを見直してもいいと思っています。

> キーワードがしっかり提示されています
 キーワードは、読者が読み取るものですから、そのことについては何も申し上げられません。しかし書き手としては意図しておりません。

 もぐら様のおっしゃることは理解しているつもりです。むしろ私の意図が伝わらないのでしょう。それはそれで仕方のないことです。問題の捉え方が根本から違うのですから。ここですり合わせる必要を感じていません。違う考え方を提出し合えばそれで充分だと思います。

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