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本文: 〉 こんばんは。以前ツイッターで流したメモを少し膨らませ、二つの小説について感想を書いたので、ここに貼っておきます。 〉 〉『できるだけ素っ気なく、でも優しさを忘れずに』 〉 そう言えば、高橋源一郎の『虹の彼方へ』の書き出しは、「そして私が話す番になった」だった(…と思う。手元に本がないから、不正確かもしれない)。書き出しからいきなり小説を物語の中に巻きこんでいくためには、ちょっとしたコツがいる。euRekaさんは、そのコツをよく知っている。 〉 「寒かった。/男はピストルを動物に向けながら、私の質問に答えた。」 〉 冒頭から一気に物語のただ中へ間合いをつめていく、この書き出しの呼吸が素晴らしい。今作に限らず、euRekaさんの作品は、どれも書き出しの切れ味の鋭さにおいて群を抜いている。 〉 この後に続く展開には、ちょっと照れがあるような印象があった。うんと破目を外して出鱈目になりきることのできない「はにかみ」が、全編を薄い膜のように覆っているように感じた。 〉 ただ、言葉の奔放さに身を任せたような小説が、えてして言葉の凶暴さを際立たせ、殺伐な・陰惨な作風に偏りがちであるのに対し、今作はあくまで明るい。あっけらかんとしていて、それでいて、柔和で優しい。 〉 言葉の自走性に賭けた小説ではあるが、本質的に叙情的な書き手なのだと思う。それを肯定・否定のいずれにとらえるかが、今作の評価の分かれ目だと考える。僕自身は、この優しい明るさを、貴重だと感じる。 〉 〉『精神の統一』 〉 安部公房が、短編小説『夢の逃亡』の中で「名前」の存在論的考察を展開してから、もう60年近く(60年以上?)が経った現在、僕たちは匿名の海の中でアイデンティティの複数性をもてあそぶことに、すっかり慣れっこになってしまった。 〉 高橋源一郎は『さようなら、ギャングたち』で、喜々としてお互いの名前の付け合いっこをする恋人たちを描き、阿部和重はフリオ・イグレシアスの歌詞に乗せて「みんなわたし」とうそぶく。そんな時代にあって、名前を盗まれることの寂しさをここまで痛々しい声で訴える小説は、しかし、はたしてアナクロニズムの一言で片づけられるべきものだろうか。 〉 「駅前から近くの神宮に向かった。しかし名前がないと、願い事も聞いてもらえないのではないかと心細くなった。僕は、自分の名前が思い出せますように、そしてもう何も無くなりませんようにと、お願いした。」 〉 このようにしてしか表現できない孤独が、何というか、ひしひしとした切迫感とともに、読み手につきつけられてくる。「銀河鉄道の夜」でジョバンニが洩らす哀れな独白のように、僕はこの声を受け止め、立ちすくみ、批評しようなどという気持ちをかなぐり捨てて、おお可哀想に、と呟いてしまう。この箇所が今作の突出した部分で、ここに比べると、続く鳩を抱く部分は、感傷が勝ってしまっているように感じた。 〉 なお、僕には不思議に思えてならないのだが、固有名のかけがえのなさをめぐって書かれたこの小説において、どうして主人公の名は「○○」と伏字で語られなければならなかったのか。作者に訊いてみたい気がする。
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