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1 ……………………! qbc
不安に。眩暈がする。胃袋が鉄球になって子宮まで落ちる。これは十七才の時。居間でたばこを吸う母親の前を通る(もう無理!)。眼球がボコっと外れ鼻裏に転げる(世界が暗闇に変わる)。っ。と叫ぼうにも舌が喉奥へ引きずりこまれていく最中(脳味噌もそのうち落ちるだろう→バレる前に言え!)。
「お母さん! 実は! 私! 彼氏ができた!」
幾千の数ミリサイズの菱形、の鱗に覆われた大蛇が母親の足元で蟠っていて、私はその蛇に頭から飲み込まれ、目の前が真黒に(いや目玉は先程から顔の内側!)。
十一才の時。母親は私に暴力を振るった。蛇はその様子も眺めていた。
「今度ね、友達と映画を見に行く!」
すると子供時代の母親が私の膝裏へ金属バットを力いっぱい振る。
私は前方によろめく。
少女時代の母親が私の額を金鎚で殴る。
私は後へゆれる。
現在の母親がフライパンで私の延髄を叩く。
私はスギの木のようにまっすぐ立つ。
私は三人の母親にメッタ打ちにされる。それを蛇は眺めていた。
この線! この線から入ってきちゃ(絶対に!)、(ああでも母親は右足の踵を2センチ浮かせた!)、ダメだからね!
私が社会に出るようになり、職場の男性のことや別居中の父親のことを話し、或いは疑問を提出すると、母親はいつも決まって沈黙した。その度に私の視界は暗黒に(……十七歳から私は蛇の腹じゃ?)。
私はある日、部屋の隅でうずくまっている。部屋は消灯してあり目玉も顔面の内側だから暗い。なのに傍らに母親の蛇がいることだけは分かる。私はこの、物心ついてからいつでも、常に、四六時中、二四時間週七日、私の心の側に、近くに、いつでも居る蛇に、憎悪以上にその身近であったという点ひとつを頼みに気安さをも抱いていた。私は初めて、蛇に話しかけてみた。
「あんたもヒマね」
蛇は答えた。「そうでもない」
「ヒマ人はみなそう言う」
蛇は笑うように鳴いた。「しゅしゅー」
その緩んだ鳴き声が私の神経を大胆にさせた。今までの闇の世界が嘘のように思えた。いやそもそも(まさしく!)私に過去なんてなかったのかも。
「ねえ食べられるのかしら」
言って私は蛇に噛みつく。人間で言ったら喉笛のあたり。もうこれで。しゅーなんて鳴けない。呆気ない。私は蛇を平らげる。美味。そして視界が戻る。
蛇の皮がすこしばかり残っていたのでそれを首にちょっと巻いてみた。ネッカチーフ(かわいいでしょ!)。
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2 スピーチの草案 qbc
ご結婚おめでとうございます。もう一度。おめでとうございます。
二年前に新郎は私の教え子でありました。実を言えばあまり出来の良い学生でなかったのでありますが勘繰るに彼は私のような学問にまみれた年寄り男のことを珍しく思い、それで興味を持ったのでしょう。よく酒を酌み交わしたものです、よくあることです、好奇心を媒介とした青年と老人の交際。世間一般では普通の、有り得ないことではないです。このスピーチの機会はその縁で頂いた次第です。
彼が酒席で口にすることと言えば私の専門である考古学ではなく、喰い物と恋でした。
「のれそれ、という魚をご存知ですか?」
「知らない」
「残念です」
彼は次々と私に話題をぶつけました。私の返事の殆どが「知らない」「興味がない」でした。彼は私の関心領域がどこにあるのか探っていたみたい。「先生の恋愛は?」と問われたことがあります。その時は無言で退けましたが今日ここで応えたく思います。
私は結婚をしておりません。しかし恋愛を嫌悪しているのではありません。私は淡い恋を好みます。自分と相手の心がふれるかふれないかの、その間の煙のような感情を愛しています。
健康で艶やかな、肉づきの良いのが私の理想です。それは私の職場の手伝いの女性かもしれません。私は恐らくその女性を一目に見て恋したと思う。彼女は私によく飴を呉れます。その他の仕草の観察からも彼女が私に良い感情を抱いていると思う。だが告白の仕方が分からない。
文献を取ろうとした時、彼女と手と手がふれあいます。温もりが伝わる。体温は様々な感慨を催させます。そして肌、驚きの小さな声。また視線が瞬間に交わる。互いに微笑を浮べ手を引く。
私はそれだけで満足です。あの体温。肌。声。視線の交錯。あの頬笑。それだけでとても官能的です。私はその感情の記憶を再生し、反芻します。何度も何度も。彼女が私を愛しているという予測は、もはや確信に変わります。
しかし確信はやはり行動を促しません。私はお気に入りのレコードに毎晩、寝床に就く前、針を落とせば満足なのです。
ただこのような趣味の私は子を産み増やす重要な事業に参加する意志がないというという点において、自分自身を人類にとっての荷物のように思っています。しかしながら彼は今、子を作るべく家庭を築こうとしています。その素晴らしい勇気をここに心から賞賛したいと思います。
ご結婚おめでとうございます。
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3 プラットフォーム qbc
正月。実家傍の商店街の行事で餅をつく。
姉夫婦が来ていた。姉の長女がいた。十三歳。二年ぶりの姪は大人の真似をするようになっていた。
「どうぞ」
大根おろしと正油の餅を俺に差し出す。俺はそれを齧った。うまかった。
「だが磯部巻のほうが好きだ」
「持ってきます」
姪は三八秒で戻ってきた。俺の手の中の餅と磯部巻を交換した。齧り掛けは姪が食べた。姪は仕合せそうだった。俺は三二歳だ。
年上の男と話すのが珍しいのだろう。いらい姪は俺に懐いた。
ある晴れた土曜日だった。テレビで紹介されたカレーを食べたいと願われて姪と街に行った。手を繋ぎたいとせがまれて断った。
食べ終える。うまいカレーだった。
「帰ろうか」
「早すぎる」
昼間の光が姪の黒髪の滴りに跳ね返ってうねる。姪は微弱な非難を篭めて俺を見上げた。
俺は思った。きみは綺麗だ。成長したらきっと更に。将来有望な人を虐げる機会を与えてくれありがとう。
プラットフォームに立つ。
「これから用事がある」
「分かりました」
姪は気丈だった。拗ねなかった。
姪は俯いていた。生まれてから十三年しか経過してない頬はうつくしかった。地球の大気にまだあまり汚されていないからだろうか。
「進呈します」
姪がぬいぐるみを差し出した。姪の携帯のストラップに付いていたものだった。
頂戴した。その時に気付いた。姪の手の甲に絆創膏が貼られている。絆創膏の下に好きな人の名前を書くおまじないを俺は思い出した。理解しがたい。
滞りなかった。昔に勤めていた会社の女の後輩の家に行き、女の資格の勉強を手伝い、不意に香水を何処に噴霧するか尋ねた。女は髪をかきあげる。ある類の女は年上の男に弱い。
むきだされたうなじに口付けて性行為を始める。とてもすてきに気持ちがよかった。
事後に俺は嘘をついた。
「あした休日出勤」
プラットフォームに立つ。
風が冷たい。
最終電車に乗る直前だった。姉から携帯電話にメールが来た。
姪を一人で帰したことを叱責する内容とともに以下の文面が添えられていた。
――姪のぬいぐるみを返してあげて。
――あれは貰ったんだ。
――ご冗談を。
あのぬいぐるみは姪の宝物だそうだ。誰にも渡すはずがないらしい。俺は姪のかわいらしい罠にかかったことを知った。俺がむりに姪から奪ったことになっていた。
姉のメールはこう締め括られていた。
――次回の姫の所望はオムライスとのことでございます。
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4 紙片 qbc
今までなかったことだが掛けようとした相手の番号が携帯電話のメモリから消えている。そんな筈はないがなんらかの切っかけでデータを消去してしまったのかもしれない。或いはそもそも番号を登録していなかったのかもしれない。
わたしは三二歳だったかもしれない。会社員だったかもしれない。男性だったかもしれない。自分のプロフィルさえ時おりに不鮮明になる。ただ以前に恋人がいるときは別だったのだが。例えば恋人の目が年齢からくるわたしの服装への興味の減退をきびしく監視する。わたしの年収を見張る。わたしがわたしである輪郭は、恋人の言葉が形づくっていた。
ところで、会社の後輩にひどい物忘れをする男がいた。会社では博覧強記なのだが、社外ではしょっちゅう何かを忘れた。彼はこのほど、五年間の交際の末に恋人と別れた。彼は言うのだ。
「よくよく考えたうえの結論です。分かりますよね、先輩は。だから話しているんですけれども。彼女が言います。
――なんでこの前、がんばるって言ったのに、それを忘れるの。
約束するんです。けど、すぐその約束を忘れるんです。そのたびに彼女は怒る。その都度、俺は忘れないようにがんばるから、って答えるんです。でも、先輩、なんど約束しても俺は忘れるんです」
わたしたちは喫茶店で話をしていた。彼の顔はしわくちゃの折り込み広告だった。しかし彼はよく喋った。
「どうしていいか分からなくなりますよね、忘れると。相手に対してまずいな、という気持ちと、それから、忘れることなんてどうでもいいじゃないかという気持ち。たぶん約束じたいがどうでもいいから忘れるんだけど、でも、彼女の手前、それは言えないでしょう。傷つけるから」
優しいかどうかじゃない。忘れないかどうかじゃないだろうか、人間は。わたしは怖くなった。このまま電話番号を忘れたままでいると、わたしは彼のようになるんじゃないか。番号をおもいださなくては。彼のようには。このままでは。もう。
わたしは机の上の紙の束をひっくり返した。床に散乱する紙片。たしかメモがある。番号を書いたメモが。メモをもらっておいて良かった。あった。番号。きみのか。いやちがう。きみとはちがう名前が書かれてある。それは不注意で濡れてがびがびになっているかもしれない。丸められて潰れているかもしれない。わたしは、懸命に探した。泣きだしてしまいそうだった。もうなにもかもを忘れたくはなかった。
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5 毛にまつわる物語 qbc
人間はおもしろい。新入社員ガイダンスの最後に、右上をホチキスで留めたB5版のコピーの紙束が配られた。
「小説です。お疲れでしょうが、一時間ばかり割いて明日までに読んできて下さい。短いですから」
題名は「毛十本」。こんな話だった。
――第一毛
私は毛深い。人を裏切るたび、一本ずつ生えていったからだ。父親を欺き、金をせびったときに腕に一本。母親に嘘をつき、学校を休んだときに脛に一本。そして――
同期入社は一人。女だ。十人の会社に二人の新卒者が採用された。出社三日目の昼休みに同期が言った。
「第五毛が良い。あなたは?」
「俺は、うん。まだそんなに読みこんでないから」
「毛」に関する問答は朝から四度目だった。しかもそれぞれ違う人から。あれが好きこれが好き。話題がうまれる。「毛」を間に社内は結ばれていた。例えば第五毛。色の話で、色の名前を知るたび毛が生えていく。この第十毛まである短編集随一のうつくしい幻想怪奇譚だと、読んだときに思った。俺は同期の性格の一端を知った。まるで「毛」は鏡だ。なるほどこの会社はおもしろいことを思いついた。
二年経った。一所懸命に働いた。会社の理念を理解しようと努めた。楽しい。同期が一昨日に辞めた。辞め際、こう言った。
「私、ほんとうは第三毛が好きだった」
「そうか」
第三毛は、女が男を一人知るたび、毛を生やす話だ。三毛派であることを告白するのは、女っぽいと思われるのを嫌ったため、と同期は語った。
俺はずっと彼女のことを五毛派だと思っていた。そう思い、接した。その彼女に対する勘違いが彼女を苦しめ、彼女を退職に追いこんだのかもしれない。嘘はつかないほうが、良いのだろう。信じられないものは、去るしかないのだろう。素直になれないものは、これはかわいそう。
社長に呼ばれた。
「書く書かないは、自由なんだけれど」
「毛十本」に代わる物語を書いてみないかと言われた。この質問は、三年目の社員に必ず訊くらしい。また「毛十本」が社長の手になるものだということも教えられた。そこで分かった。なぜ「毛」なのか。社長が禿頭であることに由来しているのだろう。
九日間、悶々とした。十日目の夜に然るべき気持ちでキィボードの前に座った。会社の役に立ちたかった。キィを叩くうち、指先があつくなる。手首が痺れだし、叩けなくなった。けれども、しばらくすると回復した。ふたたびキィを叩き続ける。続き続ける。
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6 泉 qbc
泉が湧く。庭に。
俺は叔母に訊ねる。
「どうしましょうか」
縁側に立って庭を眺めていた俺は居間にいた叔母を振りかえる。叔母は俺に背中を向ける。腕組みして台所へ消える。叔母は困ると台所に逃げる。
俺は叔母を追いかける。足元の畳は古いために踏みつけると沈みこむ。叔母が色あせた紺色の暖簾の向うに見える。黒いストレッチデニムに包まれた叔母の脚が見える。俺は暖簾をくぐる。台所に叔母が立っている。灰青の刺子の割烹着の背中が見える。叔母は俺に背中を向けている。顔をうつむかせている。乳白のうなじが見える。
すべては俺の母親の杜撰が原因だった。
俺は東京の大学に合格する。地方に住む俺は東京に住む子供のいない叔父叔母夫婦の家に下宿することになる。しかし叔父が家にいない。叔母が言う。
「よその女のところに行きました」
三五歳の叔母は俺の叔父に嫁いできた人で血縁ではない。俺は母親に連絡すると言う。しかし叔母はそれを止める。俺を下宿させることによって幾許かの金がもらえるらしい。女の一人身には金が要ると叔母が言う。
俺の母親はすべての取決めを電話で済ませた。それが原因だった。
背後にある黄ばんだ障子の向こうの庭では泉が湧きつづけている。二人きりの夕食の最中に俺は落ちつかない。
叔母は海老の白和えを俺にすすめる。真魚鰹の照り焼きをすすめる。里芋と蛸の味噌汁をすすめる。
「――さん、たくさん食べてね」
俺は泉に怯えながら食事をする。
「健康な体で学校に通って良い成績をもらわなくちゃ、この生活は成りたたないんですから」
叔母が口癖を言う。
三日が過ぎて週末になる。叔母が泉への対処方法を俺に伝える。湧き出る泉の温度は入浴に適しているから、これは温泉だと教えられる。
「穴を広げて底に板を敷けばお風呂になります」
俺の健康にも庭に温泉があることは望ましいことだと叔母は言う。
「ただし気をつけてください。温泉を掘る時には天然の致死性のガスが出ることもあるそうですから」
「そんなこと、どこで知ったんですか?」
「インターネットです」
「じゃあ」
「はい」
「死ぬおそれもありますね」
「お気をつけあそばせ」
叔母は俺をからかう。
掘削作業には手間がかかる。俺は穴を掘る。広げる。底をならす。昼になると叔母が塩結びを作ってくれる。添えられた赤い柴漬をつまむ。仕事をやりきれば、ご褒美になんでも好きな物を作ってあげると、叔母が俺に約束する。
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7 はりこ qbc
二歳下の後輩から連絡があった。部室棟が改築のために壊されるから来てほしい。私は働いているが彼女はまだ大学三年だ。
土曜日。私は部室棟の壁から一七九センチ離れて立っていた。女同士の付合は面倒。わざわざ時間を作った。見あげた。五階建。三八の部室を収容したむきだしのコンクリート。昇った。踊り場に下品な落書。美術部が書いたのかもしれない。三階。手芸部々室。入る。連絡をくれた後輩が待っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
一年ぶりに部室を訪れた。後輩が訊ねた。懐かしいですか。私は答えなかった。後輩は片隅の赤い三角錐を見た。工事現場にあるコーン。私はAの学生時代を思いだした。
A。
彼は部室にシェイカーを導入し、ソフトドリンクでノンアルコールカクテルを作った。三六種のレシピを持っていた。私の一歳年上で、手芸部々長だった。神棚を置いた。質問ノートを作った。例えば「恋人はいますか?」「世界は平和ですか?」「仕合せですか?」。一ページに一つの質問が一センチの太さの黒ペンで紙面いっぱいに書かれている。それを手繰り女の部員と会話した。彼は女に人気があった。私達の心の襞を精読した。私は彼と交際していた。三月。彼は工事現場の赤いコーンを一つ盗んで部室に運んだ。
「新入部員だよ」
彼は手芸と部員を愛していた。彼の奇妙な行動は私達に娯楽をあたえるためだった。
ある十一月の雨の晩。私は江古田の駅前の居酒屋で酒を飲んだ。終電を逃す。雨宿りに部室に行くとAがいた。私達はキスをしてみだらな姿になった。繋がった。そして終えた。
彼が言った。
「子供の頃に戻りたい」
「どうして?」
私の体はくすぶっていた。あの頃にこんなことはできなかったでしょう。彼は神棚を見あげた。あそこの裏を覗いてごらん。
神棚の裏にはレコーダがあった。盗聴器だと彼が教えてくれた。
彼が言った。
「こういうことは、くだらなくないですかね」
今や彼は全貌を明らかにしていた。私は彼の頭のうしろを撫でた。彼は自分の汚点を自分で愛していた。部員を喜ばせる下衆な努力を自分で愛していた。その自分をさらけだす機会を待ち望み、相手を探していた。私は、自分が彼を愛していることを確信した。
私は言った。
「あなたはこういうことをしても、かまわないのよ」
弱者。私は彼をしゃぶりまわしたくなった。一つ言い足した。私以外の人間にはこのことを一生のあいだ黙っていなさい。
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8 毛の抜けた男 qbc
深夜の小学校の校庭だった。バスケットボールコートで男女が話をしていた。女は旅行鞄を持っていた。男は半袖のシャツを着ていた。
女は言った。
「私は知っているよ。もう一度あなたはやり直したいと思っている」
「そんなことない」
「ばかね冗談よ。あなたはだらしのない男。チャンスがあったって、やり直そうなんて気ないわ」
「あの時と同じだ。俺はもう、あのゴールにシュートなんかできやしない」
男はバスケットゴールを指差しながら言った。
「あなたはバスケやっていなかったじゃないの」
「学校の授業時間の範囲内での話さ」
女は旅行鞄を開けた。中から写真のアルバムを取り出して男に見せた。
「懐かしい」
「あなた昔は毛深かった」
「今じゃこんなつるつるだ」
男は女に前腕部を見せた。窓ガラスみたいだった。
「俺は人を裏切るたび毛が抜けるからね。こんなになっちゃった」
「髪の毛と眉毛とまつ毛だけは残っているのね」
「お目こぼしさ。ここ無かったら、見た目変だろ?」
女はうふふふふふと笑った。
「それにこの方が、良いと思わないか? 毛なんかなくて、人間、良いのさ」
「でも、ちょっと物足りない」
女は旅行鞄からバスケットボールを取り出した。
「このボール、あなたの二の腕にあてるじゃない?」
「痛い! 突然人に向かって投げるな」
「見た? 今のボールの動き。あなたの肌があんまりにも滑らかだから、つるりとすり抜けてあんな向うへ行ってしまった。
もしもあなたが毛深いままだったら、あのボールはあなたの腕毛との摩擦で、すぐ足元に落ちていたかもしれない。そうしたらすぐにもう一度シュートを打てたんじゃない?」
「あてた角度の問題さ」
男は向うへ行ったボールの元へと走り出した。
「見てろ」
男はボールを拾い、ドリブルでゴール下まで運ぶ。そしてシュートの構えを取った。
「無理よ」
女は右手を伸ばし、男のシュートを妨害した。ボールは男の足元に転がった。
「シュートするのばれてた。あなたの行動はいつもそう。思い切りは良いけど準備がへたっぴー。そして誰かに邪魔され信頼を裏切るの」
男はゴール下に転がっていたボールを拾った。そしてシュートした。女の妨害はなかったが、フープにかすりもしなかった。
男が言った。
「まあ、お互いにいい汗をかいたじゃないか。今晩はこれで良しとしようじゃないか」
「私はちっとも汗なんか、かいてないけど。仕方ないわ。まあ良しとしておいてあげるわ」
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9 第三木曜日 qbc
二週間前。豊島園でのプール遊びの帰り、若い女は恋人と寝た。正上位の最中「オー脚」と恋人にけなされた。
一週間前。女は江古田で徐行する車に撥ねられ左脚を捻挫した。ぼんやり子と意地悪く母親に笑われた。松葉杖が必要になった。
七月の第三木曜日。女は小平の駅前にいた。ゼミのレポートを作成しなければならなかった。むつかしい課題で、手伝いに痩せた男の院生が来てくれた。
「ぼくは暗い人間なので、貴女のように快活な人だと助かります。喋るのは苦手ですから」
女は、どうして私が明るいとお思いですか? と訊ねた。
「見た目から言って、そうではありませんか」
女は太腿が露出したデニムのショートパンツを穿いていた。女は鮮やかなグリーンのちょうちん袖のブラウスを着ていた。
いいえ。私は。大人しい人間だから。このように恰好から嘘をついているのです。
女と院生は工場の奥で三人の老人に囲まれていた。パイプ椅子に座っていた。院生はメモ帳を手にしていた。女は録音機のスイッチを押した。
「町工場で働く定年退職者の意識調査」
老人たちは色づいた。
「若い女の子と喋れるなんて嬉しいんですよ。年を取ったものは馬鹿にされる世の中です。ところで冷麦を茹でたのでお昼にしませんか?」
「いえ申し訳ありませんが」
女は遠慮した。けれど院生は是非いただきますと答えた。
老人たちは工場の給湯室に引っ込んだ。院生は女の肩をやさしく撫でた。君ね。誘いに乗ることで関係が円満になって口が滑りやすくなることもあるのだからね。
冷麦を食べ終えた。薬味の葱が口の中で酷く匂った。黄金色の薬缶から麦茶を紙コップにもらった。
「きず、腐りませんか?」
老人の一人が女の包帯を指して言った。いいえ。化膿止めを服んでいますから。
院生の携帯電話が振動した。院生は電話で誰かと話すと、大変な用事ができたと女に申し置いて消えた。
「仕方がないですね」老人三人を一人で相手にする労を案じ、女の声はかすれた。「とにかく再開しましょう」
「どうも、さいきんの人の声は小さくて聞こえづらいね」
老人の一人がパイプ椅子を女の方へ擦り寄せた。床はコンクリートだった。がちゃりと音がした。他の二人もそれに倣って女に近づいた。誰も彼もが私に対する加害者に成り得るんだと女は思った。
老人の一人がシャツの袖を腕まくりして言った。
「この力瘤、若い人から見てどうですか」
「すばらしい筋肉だと思います」
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10 ばべぼぼぼべべ qbc
このほど姉さんの背中が神懸かっていることに気づいた。
台所に立つ姉さんを居間から眺めていた時のことだ。姉さんはお嫁に行っていた。半年振りに実家に戻っていた。
姉さんは嫁ぎ先からの帰還の理由をぼくに説明してくれた。
「不倫よ」
姉さんと旦那さんは仲良しなものだと思っていたから、いささか驚いた。姉さんは大根を千切りにしていた。
「腹が立つね」
「いいえ」
私もしていたから。
ある午後に姉さんの買物に付き合わされた。姉さんはぼくの大学生活を訊ねた。ぼくは姉さんの婚外恋愛について詳しい説明が欲しかった。
「似合いそう」
姉さんは売物のマフラーをぼくの首に巻いた。灰色の縞模様だった。そしてぼくを鏡の前に立たせる。
「ほら似合った」
姉さんが健やかに笑うので、ぼくは後ろめたい気持ちになった。
その晩には居酒屋に付き合わされた。
ぼくはそこで姉さんに質問した。ぼくを不倫相手の男代わりにして遊んでいたのか問うた。姉さんは素直に肯定した。それどころか、男が傍にいないと仕方のない女になったと主張した。ぼくはそれが癇に障り、つまらない人になったと感想を述べた。姉さんは呟いた。貴方と真逆のことを仰る男性もいます。
二人でとてもよくお酒を呑んだ。スーパーでお酒を買い、帰宅しても呑んだ。
姉さんは上着を脱いでノースリーブのシャツ姿になっていた。姉さんの上腕部は円く細かった。肌色が白かった。腕が肩口から床に向かって伸びている。植物みたいだった。たぶん生気がないからだろう。
姉さんはぼくに言った。
「また私を観察しているのね」
午前一時に姉さんは酔い潰れてしまった。居間で大の字になって眠ってしまった。
ぼくは姉さんの頭にスーパーのポリ袋を被せた。ポリ袋は不透明だったから、姉さんのお酒で火照った頬はもう見えなくなった。
姉さんの鞄から口紅を取り出す。口紅で、ポリ袋のちょうど姉さんの唇の部分のカーヴを塗った。
その瞬間のことだ。
姉さんの貝割れの茎のような腕が持ち上がり、ぼくの前腕部を掴んだ。力が強かった。掴まれていない部分の肉が盛り上がるほどだった。
姉さんは言った。ポリ袋の向うからだったから、声がくぐもっている。
「どういうつもり?」
「ぼくの知らない貴女にならないで欲しい」
姉さんは答えた。ばべぼぼぼべべ。ポリ袋が唇に触れてしまい、きちんとした発音にならなかった。
ぼくはそれに言葉を返した。
「べばぼ、ばべば」
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推薦作品
毛にまつわる物語(qbc)
感想
qbcさんの、毛にまつわる物語に投票します。
けっこう個人的な好みでこれを選びました。
なぜか毛という言葉がタイトルに入ってる作品がいくつかあったけど、
毛って生理的に気持ち悪いイメージがあるし、目的がよくわからない
毛の登場はあまりおもしろ味を感じなかった。
この作品はオバQみたいに毛をギャグとして使ってるのがわかりやすい
から、良いと思った。
ていうか、読みやすい構成になってたから良かった。
何が起こってるのか読者に想像させつつ進んでいってると思う。
小説は、できごとを書けばそれが起こるのではなくて、
読者が納得してはじめてそのできごとが起こったことになるのだ。
(なるのだ。というのは、ハム太郎のパクりではない)