こんばんは。
なるほどー。『糞の礼』ではそういう試みがなされていた(かもしれない)のですね。それはまったく思いつきませんでした。確かに語り手ははじめに「観察した」って言っていますものね。なるほどー。
私が思いつかなかったのは、たぶん、qbcさんの作品の語り手は、いつも読者の隣にはいなくて、常に小説の中にいるように私が感じていたからだと思います。私がqbcさんの作中人物を「身も蓋もない存在」だと他の記事で書いたのは、そのような意味合いからでした。読者の隣には易々とは来てくれない、「泥人形」ではない血の通った人間が、私が物理的には行くことのできない「小説の中」で生きている。その生きている人間が、まるで演劇を披露しているように感じられることに引っかかっているのかもしれません。
私は学業は総じて駄目でしたが、現代文のテストも正答率は低かったと記憶しています。
そういう意味で私は小説をまったく読めないので、開き直って、書かれていること以上の可能性を見つけてやろうという思いで「短編」の感想を書いていたりします。だいたい惨敗ですけど。でも、可能性を発見できた時は本当に嬉しくなります。
私は夏に風邪をひくタイプです。なので、今は気楽です。
風邪も他人事のうちは可愛いものなんですけれどね。おだいじに。
こんばんは、こんばんは、三浦さん。
qbcさんの過去の作品では「コットンワンピース」や「生活問題」「自慰」「美術館でのすごしかた」など、語り手がきちんとそこにいる作品では、私も三浦さんのような感想を持っていました。しかし今期に限っては、主人公自身がその立ち居地に疑問を呈しているような雰囲気を感じたので、このような感想になりました。
三浦さんの作品はqbcさんで言うところの語り手が、パズルで言うならちゃんとどこかのピースにおさまっていると思います。そのパズルのピースを拾い集めながら、これが語り手だったかこれが背景だったかと何とか組み合わせていく作業が面白いです。「みやび」などは、語り手の指し示す方にピースを集めていけばちゃんとその作品世界を歩いていけるのですが、それ以外は全く手がかりの無いパズルを作るようなものです。そういう迷い方は1000字独特であると思いますし、その1000字という舞台を自由に使えるということもまた含めてすごいなと思います。そのすごさを感じたのはまさに最近なんですが、最近の鋭さは特筆すべきですね。以前はそこまで感じる事ができなかったです。
現代文に関しては、簡単に言って「ウォーリーを探せ」と同じようなコツで点数を稼ぐので、小説を読めている事にはならないと思います。「自分の感想や見解や感情をいれない」というのが一つのコツですからね。感情を伴わずに小説を読むなんて間違っていると思います。で、そういう一面的なものの見方を手にしてしまうとそこから抜け出すのに苦労するんです。ですから私には三浦さんがうらやましいです。
風邪のご心配を頂いてありがとうございます。夏風邪の方が辛いと思いますがどうでしょうか。それにしましても季節の変わり目、どうぞお体おいといください。
こんばんは。長月さん。
指摘されてみると、私が書くものはそれそのものがパズルのピースだという気がします。自分が書きたいことを書き上げるために、できるだけ多くのピースを作っておきたいという気持ちがあります。
「ウォーリーを探せ」は確かに苦手でしたね……なるほどー。
夏風邪は体内も外気も暑いのでわけがわからなくなりますね。といっても、私はそもそも風邪をあまり引かないのですが。
風邪が快方に向かっているようで何よりでございます。