▼意見をいただいたところで、ファシリテーターとしていまいちど与件整理いたしますと、以下のようになるかと思います。
□ 目的 : コンテストサイトとしての公正さを保ちながら、
コミュニケーションを通して「短編」の作品の質を高めるには、
どういうことに気をつけたらよいか。
□ 問題 : プロトコル(コミュニケーション上の暗黙の了解)の混乱
プロトコルとは、例えば、先生には先生に対する接し方をしたり、親には親に対する、友達には友達に対する振る舞い方を変えるというような、コミュニケーションのやり方のことです。相手によって私たちはプロトコルを変更する。近い言葉で言えば、マナー、エチケット、ドレスコード。
「書き手(作品・感想・投票すべて)の意識にまかされるべきことが公にされた」という旨の意見がありました。
書き手の意識がつまりプロトコルで、いろんな人が来るところなのにこれを個々人にまかせているから、混乱、不和、が起きるのだろうなと思いました。
※また、再確認ですが、ここで何を言おうがなにも決まらないです。個々人の認識が個々人の認識として個々人に認識され、それに影響されるかどうかは個々人の認識の領分です。
行為の意味を明瞭にしておきたいと思っています。
▼現状のプロトコル
現在、短編で採取されるプロトコルはざっくりと、以下のように分類できるのではないかと思います。
□ 媒体 :
・ 短編内(感想票、掲示板)
・ 非短編内(メール、ブログ、SNS、オフ会、その他)
□ 内容 :
・ 批判
→ 私的感情を含まない、作品レベルの批判の内容
⇒ 作品の質向上、につながる?
・ 好意
→ 私的感情を含む、作品、個人レベルの好意の内容
⇒ 馴合、につながる?
・ 中傷
→ 私的感情を含む、作品、個人レベルの悪意の内容
⇒ 荒れ、につながる?
これらがミックスされて「短編」のコミュニケーションが形成されていると思われます。
また媒体がSNSであっても感想票(記名ならば)であっても、内容が批判であっても中傷であっても、これらには発信者、受信者ともに「相手の認知」というものが伴ってきます。そして「相手の認知」こそコミュニティの発生要素ではないかと考えられます。
※「内容」に関する補足ですが、
作品のどこどこが悪いと私的感情抜きで指摘するのが「批判」。
感想をいただきありがとうございますといって自作解説したりするのが「好意」
先日私が投稿した(http://tanpen.jp/bbs/nbbs.cgi/temp/673)のようなものが「中傷」
▼コンテストとコミュニティという媒体の性質の違い
両者の違いは、「短編」サイト内であれ一般的であれ、以下のように捉えられているものではないでしょうか。
□ コンテスト :
→ 批判的プロトコルが求められる公正無私の公的審査コミュニケーションスペース
⇒ 短編で言うと、感想票
※ 機能としては、作品のクオリティ維持につながる?
□ コミュニティ :
→ 好意的プロトコルが許される私的コミュニケーションスペース
⇒ 短編で言うと、掲示板
※ 機能としては、創作のテンション維持につながる?
そして「非短編内」は、一般的に私的な好意的プロトコルが積極的に許される場所であると考えると、この「非短編内」での交流が活発化しすぎたために、その影響が「短編内」にも及んだのだと思います。
→ 私的属性の強い「非短編内」交流が活発化して、「短編内」の公的属性のコンテストに影響を与えてしまった。
▼プロトコルの混乱という問題
例えば以下のようなことが、意見から見ると、問題になっているかと思われます。
□ 「批判⇔好意」
→批判的空間であるべき「感想票」で、私的な「好意」票と思われるものが見られる。
□ 「感想票⇔掲示板」
→批判的内容が求められている「感想票」の内容に対して、私的空間である「掲示板」で私的な返信がなされる。
□ 「記名感想票⇔相手の認知」
→批判的空間であるべきコンテストにおいて「記名感想票」が投じられると、「相手の認知」が伴い、コミュニティが発生してしまう。
これらは今回、問題としてトピックのあがったものです。
個々人の持つプロトコルによって、その内容に対して正当な媒体、媒体に対して正当な内容というものがあると思います。
その個々人同士のプロトコルの相違から、「媒体と内容の不一致による混乱」が生じるのだと思われます。
▼まとめ
□ コンテスト(公)とコミュニティ(私)
コンテスト(感想票)=「批判的内容(作品レベル)」クオリティ維持?
⇔
コミュニティ(掲示板)=「主に好意的内容(個人レベル)」テンション維持?
□ 問題点
→ 個々人が持つプロトコルの相違から「媒体と内容の不一致による混乱」が生じている。
★展望としては、やはり「批判」と「好意」のバランス感覚、コンテストとコミュニティの場のわきまえ、あたりなのかなと思います。
★「お互いの存在を尊重する関係」という意見(常套句ですが)も、やはりヒントだと感じます。
>------------------------
というあたりで、また、なにか意見がいただけましたら幸いです。
なにかが決議されるわけでもないですし、ただ意見を出して、これが認識の共有となり、ポジティヴな変化の契機となればと思います。
>------------------------
▼以下、私的所感。
>/////////////////
モバゲーに「教えてgoo」みたいな質問広場があって、先日そこで私は中学生の恋愛の悩み相談に「個人的な意見ですが」と冠をつけて回答をしたところ、「当然もちろん意見を取捨選択するのは私自身です」と余計な心配ですよ的ニュアンスでコメントいただきました。40件近くレスのついていた相談で、この点、物心がついたときからネットのあったいわゆるネットネイティブはリテラシーが高いと思いました。
>/////////////////
「短編」が自分という存在を認知される場所であるならば、茂木健一郎が言うところのセキュアベースとなり、なにか新しいものでも生まれそうな気がしないでもないと頭にフラッシュしないこともないです。
>/////////////////
無名の投票感想であっても「相手の認知」は伴う。コミュニティが発生しないわけじゃないと思う。ただ、もちろん記名の相手とやるよりかはイメージがつかみづらい。
相手がはっきりしたほうが作品を書きやすいかという問題なんだろうか。
>/////////////////
リピートユーザーとユニークユーザーという切口で見ると、リピートが多ければ多いほどコミュニティとしては内輪臭がしはじめ、ユニークユーザーが多ければ多いほど新鮮であると言えるかと思います。
そしてリピートユーザーが発言を繰り返すことでプロトコルが自然と決まってくる。
>/////////////////
「作品+αを評価するのはコンテストとしてフェアではない」といった意見に対しては、読んで泣きそうになりました。
個人レベルでのコミュニケーションが作品制作のテンション維持に繋がるだろうという仮説と、感想は個人レベルで書いて欲しくないという気持ちの間でジレンマがありました。
>/////////////////
私は以前に短編の作品について自作含めて批評し合うメールでのコミュニケーションを一年近く続けていたことがありました。これはとても有意義で、書くこと読むことに対する意識を上げてくれた経験です。一対一であったから、自然にプロトコルが決まったんだろうなと思います。
>/////////////////
「みな小説を書こうという目的のもとにあるのだから、お互いの存在を尊重する関係でありたい。→敵(映画や演劇)がいるのだから、そちらに視線を向けよう」という意見に関してですが。
腹の立つ上司がいると、部下が一致団結するという話はよくあるので、こういう考え方も有り得ると思いました。(個人的には漫画、ゲーム、インターネット、携帯といったあたりも付け加えたいところです。可処分時間の争奪戦といったところでしょうか)
目的遂行のためならその過程にある「批判」や「好意」も構わないというぶぶんまで意見をおしひろげると、有益な見解だと感じました。
もちろん、個々人の作品制作のモチベーションに関わる内的プロセスに関する領域に関与することになるので、実効力があるかというとやはり難しいとは思うのですが。
>/////////////////
「書き手(作品・感想・投票すべて)の意識にまかされるべきことが公にされて、参加している者の品位を落とされた気がした」。
「品位を落とされた」というのは、トピックとしてとても面白いです。わざわざ分かりきったことを公にすることが「品位」を落とす、阿吽の呼吸を明文化することは不粋だ、という理解で正しいでしょうか。それとも「公にされたこと」の内容と「書き手」の意識が食い違っていたことからくる、自信の動揺という意味でしょうか。
「呼吸を明文化することは不粋だ」であれば、これは自作解説についての「作者の言葉で固定してしまったら正直つまらない」という意見と、プロトコルの相違という観点から言えば、類型だと思います。
ところで、色々な人が集まった場所ではその様々な「呼吸」に合わせられずに呼吸困難になってしまう人も出てきてしまうのかなと思います。
興味深く拝読しました。
> わざわざ分かりきったことを公にすることが「品位」を落とす、
> 阿吽の呼吸を明文化することは不粋だ
おっしゃるとおりの意味で書きました。
> これは自作解説についての
> 「作者の言葉で固定してしまったら正直つまらない」という意見と、
> プロトコルの相違という観点から言えば、類型
そういう感じ方もあるだろうと思いました。私は少し違うと感じます。
できるだけ短くするために省略しましたが、私は作品が「作者の言葉で固定」することなどありえないと思っています。たとえ作者を名乗る人が自作と名付けた文章について何かを語ったとしても、それは他の感想なり批評なりと同列の、ひとつの考え方の提出にすぎません。
いずれにしても読み手、書き手の意識にまかされるべき部分であって、一個人の意見(参加者に義務付けたり啓蒙する意図がない)なら公表される意味はないのではないかと思います。
> 色々な人が集まった場所では
> その様々な「呼吸」に合わせられずに
> 呼吸困難になってしまう人も出てきてしまうのかな
それはあるのでしょう。
媒体や場に限らず、どんなところにおいても、どれだけ申し合わせをしても、そういう人は出るでしょう。
〉> わざわざ分かりきったことを公にすることが「品位」を落とす、
〉> 阿吽の呼吸を明文化することは不粋だ
〉 おっしゃるとおりの意味で書きました。
私も感想票に記名をしていたので、あの意見を読んでかるく息が詰まりましたが、ただ「記名を控える」という意味も「感想票⇔掲示板」の場所のプロトコルを考えると、意見の言わんとするところも納得します。
「品位」を辞書で引いてみると、
・ goo大辞林 : 人や事物にそなわっている気高さや上品さ。品格。
・ 三省堂国語辞典 : しぜんにそなわった・けだかい(りっぱな)感じやようす。
・ 広辞苑 : 人に自然にそなわっている人格的価値。
とありました。
「自然」というあたりが「暗黙の了解」というあたりに関連してくるようですね。
〉> これは自作解説についての
〉> 「作者の言葉で固定してしまったら正直つまらない」という意見と、
〉> プロトコルの相違という観点から言えば、類型
〉 そういう感じ方もあるだろうと思いました。私は少し違うと感じます。
〉 できるだけ短くするために省略しましたが、私は作品が「作者の言葉で固定」することなどありえないと思っています。たとえ作者を名乗る人が自作と名付けた文章について何かを語ったとしても、それは他の感想なり批評なりと同列の、ひとつの考え方の提出にすぎません。
これは作者と作品の距離、読者と作品の距離という2軸を持ち込むとより分かりやすいかもしれません。
読者(遠)
│
A │ B
│
│
作者(遠)――――――――――作者(近)
│
C │ D
│
│
読者(近)
A象限 : 作者も読者も同じ立場で作品の真の理解に遠い
B象限 : 作者が作品の理解にもっとも近く、読者は作者よりも理解に遠い
C象限 : 作者が作品の理解にもっとも遠く、読者は作者よりも理解に近い
D象限 : 作者も読者も同じ立場で作品の真の理解に近い
「作品が「作者の言葉で固定」することなどありえない」というのは、AあるいはC象限の立地からの意見と考えられるのではないかと思いました。
「作者の言葉で固定してしまったら正直つまらない」というのは、BあるいはD象限の立地からの意見だと考えられるのではないかと思いました。
「作品の真の理解」とはいったいなんだという疑問もありますが、ともあれ、この2軸の範疇で考えられるという意味で、類型的だと思いました。
〉 いずれにしても読み手、書き手の意識にまかされるべき部分であって、一個人の意見(参加者に義務付けたり啓蒙する意図がない)なら公表される意味はないのではないかと思います。
この部分も2軸で考えると、
読み手(遠)
│
A │ B
│
│
書き手(啓蒙)――――――――――――書き手(所感)
│
C │ D
│
│
読み手(近)
A象限 : 書き手の啓蒙を意図したテクストだが、読み手はそのテクストに共感しない
B象限 : 書き手の所感のテクストだが、読み手はそのテクストに共感しない
C象限 : 書き手の啓蒙を意図したテクストで、読み手はそのテクストに共感する
D象限 : 書き手の所感のテクストで、読み手はそのテクストに共感する
AるいはC象限でなければ意見する意味がないという立地からの意見になるかと思います。
仰るとおり「書き手の意識にまかされるべき部分」だと思いますが、ただあまりにもその意識が個々人によって違うので、無用な時間を費やしている面もあるかと思います。そこで意見を公表していただき、なにかポジティブな変化が起きれば、と思っております。
※再三言っているのでしつこいですが、やはり意見を出されてもなにも決定はされません。
〉> 色々な人が集まった場所では
〉> その様々な「呼吸」に合わせられずに
〉> 呼吸困難になってしまう人も出てきてしまうのかな
〉 それはあるのでしょう。
〉 媒体や場に限らず、どんなところにおいても、どれだけ申し合わせをしても、そういう人は出るでしょう。
「呼吸困難」の人は少数派なので、このことについて考えることはコストの無駄ゆえ基本的にしませんが、しかし気にならないわけではないのですよね。人類みな兄弟はキモいと思うのですが、しかしそうであったら良いよなとも思います。
なんか予想外にちゃんと問題提起になっていて驚きました。
昨日はちょっとエキサイトしました、すいません。
今回僕の書いた記事は、「俺ルール」を押し付けようとしたわけではなく、波乱を巻き起こしたいわけでもなく、個人攻撃をしたいわけでもなく、ただ単に、前から思っていたことで、「でも別に面倒くさいからいいや」なことで、「でもまあ元ネタがあったほうが話しやすいか」くらいの気持ちで書いたもので、それにしてはちょっと反応が激しすぎると思いました。空気読めなくてごめんなさい。
所感にレスってのはどうかわからないんですが、とりあえず三つだけ。
>無名の投票感想であっても「相手の認知」は伴う。コミュニティが発生しないわけじゃないと思う。ただ、もちろん記名の相手とやるよりかはイメージがつかみづらい。
>相手がはっきりしたほうが作品を書きやすいかという問題なんだろうか。
これはただ単により反応がしやすくなると思っただけで。
それと、わたなべさんの記事を読んで、「○○さんの気に入る作品を書こうとしてしまう」ことがあるんじゃないかと思いました。でまあ、実際そうすると票を「得やすく」なるでしょうね。その繰り返しで「短編向き」の作品ばかりが並んでしまわないかなと。ただの思いつきです。わたなべさんに対して害意はないです。
>「作品+αを評価するのはコンテストとしてフェアではない」
>個人レベルでのコミュニケーションが作品制作のテンション維持に繋がるだろうという仮説と、感想は個人レベルで書いて欲しくないという気持ちの間でジレンマがありました。
ひどい言い方になりますが、「建前上のフェアさ」として「その作品以外のものを持ち込まない」と考えました。でまあ、それでフェアかというと、実際のところはそんなわけにもいかないと思います。どうしても個人レベルのものが入ってきてしまうと思います。これは僕自身がそうで、普通に好きな書き手とかいますし。他の人にもいると思います。でも、そうしておけば「フェアであろう」とはするんじゃないかなと。すげえ余計なお世話かも知れませんが。
>自作解説についての「作者の言葉で固定してしまったら正直つまらない」
これはどうも個人的すぎるようなのでスルーしてください。僕が自作解説が好きじゃないってだけです。
あと、僕はもう部外者の立場にいると思っていて、実際こういうところでやり合いたいほうじゃありません。んで、まあ、ちゃんとやれる人がやったほうがいいと思うんですけどね(逃げたと言われたらまあその通りです)。それと、あんまり掲示板に出てこない人の意見も聞いてみたいんですが、どうかなぁ。
〉 それと、わたなべさんの記事を読んで、「○○さんの気に入る作品を書こうとしてしまう」ことがあるんじゃないかと思いました。でまあ、実際そうすると票を「得やすく」なるでしょうね。その繰り返しで「短編向き」の作品ばかりが並んでしまわないかなと。ただの思いつきです。わたなべさんに対して害意はないです。
▼いちど「短編」優勝した「短編向き」と思える同じラインの作品を投入しても、予選は通っても結晶では票が得られない、というのが私の経験則です。既視感が出てしまうのだと思っています。そういう意味でコンテストは難しいなあと感じています。
また、「短編向き」の作品ばかりが並ぶという懸念、私もそうなったらつまらないなと思っています。しかし、短編の参加作品を読んで、「あ、こういうの自分も書いてみたい」という動機から参加する方もいると思いますので、そうなる傾向もあるのかなと思いました。自分自身も、短編に訪れて1000字でこんな作品が書けるのだなという驚きが参加の動機のひとつでもありましたから。
〉 ひどい言い方になりますが、「建前上のフェアさ」として「その作品以外のものを持ち込まない」と考えました。でまあ、それでフェアかというと、実際のところはそんなわけにもいかないと思います。どうしても個人レベルのものが入ってきてしまうと思います。これは僕自身がそうで、普通に好きな書き手とかいますし。他の人にもいると思います。でも、そうしておけば「フェアであろう」とはするんじゃないかなと。すげえ余計なお世話かも知れませんが。
▼「フェア」じゃないと周囲に思わせること、コンテストが公正な場となっていないと感じさせないことが、重要なんだなとあらためて思いました。
感想票無記名は、その建前であれ「フェア」であろうとすることの手段ということになりますでしょうか。つまり「フェア」が保たれているならば記名でも構わないということになってくるのでしょうね。
〉>自作解説についての「作者の言葉で固定してしまったら正直つまらない」
〉 これはどうも個人的すぎるようなのでスルーしてください。僕が自作解説が好きじゃないってだけです。
▼自作解説は野暮だと私も思っています。ただ時には作品よりも解説のほうがおもしろい時もある。これは読者としての意見ですが。
曠野さんにちょっとした作品解説を求めたら「営業上の秘密です」と回答されたことがありました。私自身も作者としては自作解説は好んでいなかったわけですが、この時に作者と読者によって解説の必要性というのは違うのだなと思いました。
〉 あと、僕はもう部外者の立場にいると思っていて、実際こういうところでやり合いたいほうじゃありません。んで、まあ、ちゃんとやれる人がやったほうがいいと思うんですけどね(逃げたと言われたらまあその通りです)。それと、あんまり掲示板に出てこない人の意見も聞いてみたいんですが、どうかなぁ。
▼とにかく意見は欲しいですね。多くの意見を共有したいです。
前の作品の方がよかったとか、この人は優勝経験者だから、とか、そういった作者と作品を結び付けながらの投票は以前の方が多かったような印象を持っています。ただ、それでアンフェアだったかというと、そうでもなかったと思います。というのは、毛色の違う作品を並べておいて票を入れろとなったときに、純粋に作品だけを比較するのは非常に困難だからです。何か特定の評価軸があればいいわけですけど、どういう作品に投票しろという公式ルールがない以上、その評価軸の選定自体が恣意的になりがちなんじゃないかな、と思います。
それまでのプロセスを踏まえるとどうしてもアンフェアな部分が生じてしまうけれども、かといって毎回まっさらなところから始めるのもコールアンドレスポンスというか積み上げていく楽しみのようなものがないわけで、コミュニケーションの加減とも通じるところがあると思いますが、一概にどちらが優れているとはいえないですよね。
短編のシステム自体はどちら側にも振れるものですが、参加者が何らかのコンセンサスを明示的に共有しているわけではない以上、純粋なコンテストを志向する人にとって純粋でない部分が不快に感じられることを回避するのは困難だろうな、と思います。
その不快さを超克する何かがあればいいわけだけれども、それは個人がさがすものかもしれないし、全体で追求するべきものかもしれないし、システムで規定するべきものかもしれないというね、非常になんというか、この、やれるのか! というね。
俺のターンは終了している気もするんですが、一応。
ちゃんと説明できているかわからないんですが、とりあえずいろいろ書いてみました。全然まとまっていませんよ。けっこう話が飛んでますよ。
〉 前の作品の方がよかったとか、この人は優勝経験者だから、とか、そういった作者と作品を結び付けながらの投票は以前の方が多かったような印象を持っています。ただ、それでアンフェアだったかというと、そうでもなかったと思います。
僕もアンフェアだとは感じていなかったと思います。ただ、作品以外のものに触れて、そこを評価しているものに関しては、その当時から「それは違わない?」と思っていました。例えば、紺詠志さんが自分のサイトで触れられていた制作秘話?の部分を抜き出してきたりだとかには、「何だかなぁ」という気分でいました。
「作者と作品を結びつける票」というのは、「作品越しに作者を見る」ものと「作者越しに作品を見る」ものがあると思います。「読者→作品→作者」と、「読者→作者→作品」という感じでしょうか。これはqbcさんが前に書いていたような、いなかったような。よくわかりません。
人それぞれ感覚の違いはあると思いますが、僕は「読者→作品→作者」はそれほど気になりませんが、「読者→作者→作品」が気になります。
「前の作品の方がよかったとか、この人は優勝経験者だから」というのは、「作者」の部分がマイナスになっていて、なんていうか、「読者→作者→作品」であっても、それがプラスになることもあればマイナスになることも同じようにあり、そういったところでアンフェアさというものをあまり感じていなかったと思います。わかりづらい気がするので補足しますが、例えば「紺詠志」という「名前」が、同時にプラスにもマイナスにも作用する、という感じです。やっぱりわかりづらい。
なんかもう書きづらくなってしまったんですが、記名と票公開可/不可もあったと思います。昔は記名をしている人は今より少なかったですし、票を公開している人も全体の半数ぐらいだったんじゃないでしょうか。隠していた/隠されていた部分が多かったというか。その後ろにある人格を隠していた人が多かったというか。その是非はともかくとして、感想票の内容も一歩引いたようなものが多かったように思います。
人それぞれ好みというのはあります。けれども、同じ人が同じ作者の作品に何度も票を入れていた場合、はっきりそれとわかってしまう場合、やはり僕はそこにアンフェアさを感じます。なので、という繋ぎが正しいのかどうかわかりませんが、qbcさんの『つまり「フェア」が保たれているならば記名でも構わないということになってくるのでしょうね』というのにはイエスです。
記名について、どうも禁止したいみたいにも読めるんですが、僕としてはそんなにこだわっていません。馴れ合いに繋がるというよりも、「コンテストとしてアンフェアに見える? のか? どうなのか?」というニュアンスです。
あと別にね、何かを決めようとしているわけじゃ全然ないので。僕自身、明確な何かを持って書いてるわけでもないので。それはほんと理解してください。
〉 「前の作品の方がよかったとか、この人は優勝経験者だから」というのは、「作者」の部分がマイナスになっていて、なんていうか、「読者→作者→作品」であっても、それがプラスになることもあればマイナスになることも同じようにあり、そういったところでアンフェアさというものをあまり感じていなかったと思います。わかりづらい気がするので補足しますが、例えば「紺詠志」という「名前」が、同時にプラスにもマイナスにも作用する、という感じです。やっぱりわかりづらい。
無意識の内に「作者」の部分がマイナスになる例を2つ挙げていたことからもわかるように、私は、「読者→作者→作品」がプラスに働いた例をあまり見てとれていなかったようです。それでもアンフェアだと思っていないのは、やはり前述の通り、いずれにせよ作品だけを評価するということは絵に画いた餅みたいなもので非常に困難だと考えているからです。作者を意識することだけを殊更に批難することもないんじゃないかな、と思っています。
〉 なんかもう書きづらくなってしまったんですが、記名と票公開可/不可もあったと思います。昔は記名をしている人は今より少なかったですし、票を公開している人も全体の半数ぐらいだったんじゃないでしょうか。隠していた/隠されていた部分が多かったというか。その後ろにある人格を隠していた人が多かったというか。その是非はともかくとして、感想票の内容も一歩引いたようなものが多かったように思います。
感想票の内容にこだわる方がいる、というのは最近の発見だったんですが、私としては投票が主で感想は従(しかもかなり比重が低い)という位置付けだったので、わりと形式的なものとしてとらえていました。
フェアかどうかとは違う話になりますが、読むのは好きだけど書くのは苦手、という人にとっては、あれが結構心理的な障壁になるんじゃないかというのが以前から気掛かりです。ボタンをポンポン押しただけの票が増えるのもあまりよくないのかもしれませんけど。
〉 人それぞれ好みというのはあります。けれども、同じ人が同じ作者の作品に何度も票を入れていた場合、はっきりそれとわかってしまう場合、やはり僕はそこにアンフェアさを感じます。なので、という繋ぎが正しいのかどうかわかりませんが、qbcさんの『つまり「フェア」が保たれているならば記名でも構わないということになってくるのでしょうね』というのにはイエスです。
ここが一番興味深いところだったんですが、私は「同じ人が同じ作者の作品に何度も票を入れて」「はっきりそれとわかってしまう」ことがあったら、それはアンフェアな投票行動の結果ではなくて、極度にフェアな投票行動の結果だと考えると思います。『極度に』とつけたのは、投票過程がある程度見えたり、自分の後で他人が投票することを見越せたりすると、その影響を受けてしまうことが多いと思うからです。投票者がそれらを含めた諸々の影響を撥ね除けたら、今より票が偏るんじゃないかと思っています。非常に複雑な問題なので、想像に過ぎませんが。
〉 あと別にね、何かを決めようとしているわけじゃ全然ないので。僕自身、明確な何かを持って書いてるわけでもないので。それはほんと理解してください。
意見のサンプルが増えるのは純粋にいいことだと思いますので、気楽にのんびりとやりましょう。
自分の名前が出てきたので、つい反応してしまいます。いまはもっぱら読者として『短編』を拝見させていただいている者です。
こちらに投稿した作品の票感想に、自分のサイトでの発言が触れられたときには、私としてもかなりイヤなかんじがしました。しかし一方で、私の作品が連続して優勝したときには、「同じ作者がつづけて優勝するのはどうかと思うが」といったような票感想のコメントもあり、西さんのおっしゃるとおり、作者単位の評価はマイナスにもプラスにもなるものと思います。
また『短編』としても「作者別目次」や「優勝者列伝」など少なからず作者という単位を公式にフューチャーしているくらいですので、投票にその視点が導入されるのは、ある程度しかたないことかな、と思います。さすがに「○○さんの作品だからおもしろい」などといった票感想が出てきたりしたら問題ですけど、作品そのものの評価が基本となっているかぎりは、たとえ不公正な視点であるにしても許容範囲内とせざるをえない気がします。
ついでながら、私も戦場ガ原さんと同様に票感想の内容はあまり重視していません。さだかじゃないのですが、企画段階の当初は票だけだったのが、それじゃあやはり無責任すぎる投票や不正が横行しかねんということで、念のためなにかしらコメントを書かなきゃダメってことにしよう、といった経緯だったかと記憶しています。現在はかなり重視されていて、私も決して軽視できない気分ではありますが、ゲームのルールがあくまで「どんな感想であれ1票は1票」であることには変わりがないですね。だから純粋に点取りゲームとして楽しめればいいのですけど、それもなかなかむずかしいことで。
あと、このレスでは無関係な内容になりそうですが、最近話題の「馴れ合い」というか「馴れ合いと見られかねない参加者間の親交」につきましては、大いにいいんじゃないでしょうか。仲よきことはうつくしきかな、とだれかエライ人も言っています。しかし個人的には、いわばコンテスト(投稿作品と票感想)を「舞台と客席」、この掲示板を「楽屋」と考えていますので、舞台と楽屋のケジメは大事にしてほしいと願ってやみません。小説とその感想が掲示板に投稿されたり、掲示板の話題が票感想に書かれたりする最近の状況には非常に幻滅していて、作品投稿者としての参加興味は完全に失せています。
しっかりケジメがついているかぎりは、この掲示板やらオフ会やらmixiやら出会い系サイトやらで参加者のなかに親しい関係やそうでない関係ができたりしても、それが掲示板で露骨に表れていても、舞台でのパフォーマンスにしか興味がない私なんかは一向に知ったこっちゃない、勝手にしやがれ、ってなもんですので、大いにイチャついたりケンカしたりしたらいいんじゃないかと思います。こう掲示板をチェックしているとおり、舞台しか興味ないなんてウソですが、あくまでもゴシップ記事を読むみたいな興味です。私は『短編』に公式掲示板が存在すること自体に疑問を持っているくらいです。お客さんにもマル見えな楽屋なんていらないというか、恥ずかしいじゃないかと。掲示板があるかぎり「内輪」や「馴れ合い」のそしりは避けがたい。というか、それらをあえて見せびらかすのがこの掲示板のおもな機能だとすら思える。
それはさておき、このケジメというのは『短編』がシステム的に対応できるものではなく、いかに主催者が掲示板を「たかが掲示板」と低く位置づけていようとも、参加者各人の意識に一切ゆだねられるものですし、それは全体主義的に統制が図られるべきものでもなく、そもそも万事ご自由ご勝手にどうぞなかんじが『短編』のよさだと思いますので、けっきょく「ケジメのなさ」についても「そういう風潮」として了解せざるをえません。いまはマッチがケジメの必要性を高らかにうたっていたころとちがって、ケジメがないのがブームなんだな、ケジメのないほうがモテるんだな、とでも理解して、それに同調するなり、それが気に喰わなければ参加しなけりゃよい。そうして無為に人材をうしなったりして、はなはだ残念な場合もしばしばありますが、開設時からずっと見てきて、『短編』とはそういうサイトなんだと思う今日このごろ。そろそろ日光が強くなってきたので棺桶に帰って寝なければなりません。