紫煙
果てたばかりの博史のそれを、私は口に含む。
「み、美紀!」
あわてて体を起す博史に私は言う。
「女には終わりなんて無いのよ、博史。愛しているならがんばりなさい」
博史は強い力で私を反転させると、腰を押さえ込んで顔を埋める。私はサイドテーブルに手を伸ばし、タバコを取り出して火をつける。深く吸い込んで吐き出せば、紫煙が上からゆっくりと私を柔らかく包む。「愛してる愛してるよ、美紀」博史がうわ言のように囁く。そうやって、いつまでも愛していると言い続けるのよ、博史。
フレンチレストランなんて、くだらない。向かい合ってチマチマ出てくる料理を食べることに何の意味があるだろう。バーキン。そのほうがよっぽど気が利いている。私は血の味がするワインのグラスを指でなぞっていた。さっきから何とはなしにそわそわしている博史は、さもおいしそうにグラスの赤を飲み干すと、思わせぶりに私を見た。
「美紀、俺さ、やっぱり家庭を持つのが夢なんだ。一戸建て買っちゃってさ。可愛い子供、最初はやっぱり女の子かな、男の子も欲しいけど。子供が大きくなるのを見て……」
食器の音や話し声を極力抑えるようにしている人々のざわめきが、かえって増幅されて耳に障る。博史の言葉はそんな周囲の雑音にまぎれて、滑っていく。
「それで、自分の奥さんになるには、どんな人がいいかって言うと、やっぱりキミみたいな……」
私は目の前のワインを博史の顔にぶちまけた。真っ赤に染まっていくシャツ。一瞬、音の無くなった世界で博史が呆然と私を見る。
「私はね、私よりも他に欲しい物がある男なんて嫌いなの」
まとわり付く好奇の視線にうんざりしながら店を出た。思いがけず冷たい風に首をすくめる。あわててファーのショールを巻きつけながら、バッグの底の煙草を探す。なかなか見当たらず、何かが指にぶつかり爪が欠ける。舌打ちしながら、今度はバッグを逆さに振ってアスファルトにぶちまけた。口紅やら鏡やらが景気のよい音をたてて転がり跳ねる。その中でやっとタバコの箱を見つけて拾い上げると、マルボロは一本も入っていない。その箱を右手で握りつぶして、耳を塞いだ。こういう時はきっとあれが呼んでいるんだ。途方も無く柔らかく、逃げることの出来ない記憶が私をゆるゆると締め上げる。
「美紀、ママはあなたを愛しているのよ」顔に吹き付けられる紫煙は私の体に巻きつき、息も出来ない。
今日も隣の部屋から響いてくる、壁を叩く音。激しく打ちつけるわけでもなく、不規則なその音は義務から生じたようでもなく、夜が深まってくれば必ず聞こえた。
いったい何をやっているのだろうか。俺は壁に耳をつけ、隣の様子を伺う。そこに人の動く気配は感じ取れない。隣に誰が住んでいただろうか。いや、誰か、住んでいたのだろうか。俺は立ち上がり、自室を抜け隣のドアをノックする。しかし何の返答も無い。
ドアノブに手をかける。ひやりとした冷たい感触が、手を掴まれたように錯覚させる。そのまま静かに右へ回せば、ぎぎぎという鈍い音を立てて、重いドアは難なく開いた。
閑散とした白い部屋を見渡す。誰もいない。何も無い。カーテンも無い窓から月明かりが差し込み、窓枠をくっきりと畳に写した。
俺の部屋側の壁を見ると、点々と爪痕が残っている。それに触れようとして初めて気付く。俺の爪の中に白いその壁のカスがつまっていることを。
痕を指でなぞる。白い壁に何度もつけられたそれを、何度もなぞる。強く食い込み、長く浅く、強く深く。えぐられ削られへこみ、ヒビが入る。同じ爪痕は一つもない。やがて、指先から侵食されるように記憶が俺の中へなだれ込んでくる。それは腹の底から搾り取られるような俺自身の叫びであった。生きたい、生きたい、生かしてくれと。壁を叩き、かきむしり、頭を抱え、そしてまた何度も壁を叩きながら、生きたい生きたいと。胸のうちで叫びながら乞うていたのだ。生かしてくれと。命にかけて誓う、もう人殺しなどしない。もう二度としないのだから、生かしてくれ。
やがて隣の部屋に誰かがやってくる。取り澄ました顔で、もうどうでもいいような目で空をにらんでいる。何年後か、それとも何日後か、必ずやって来る期限を切られたその時に、生かしてくれと彼も願うだろうか。壁をかきむしりながら。
俺は壁の向こうからそれを見ていよう。もうすでに光を失った、この双眼で。
感想を書くのに最もふさわしくない存在が私なのだと思って先月は何の反応も示さなかったのですが、何やらそんなことなど気にしなくても良さそうな気配なので、書きます。炎上か低迷しかないのかな、この掲示板。
まとまりは明らかに良くなったと思いました。やや拡散気味だったところを、場面数を減らすことで改善したのだと思います。主人公の人物も、こちらの方が描けているように思いました。しかし、それらが良くなった分だけ、ほとばしっていた感情が弱くなってしまった印象を受けました。私は『マルボロ女』に投票しましたが、それは感情のほとばしる様が良かったと思ったからで、二律背反のことかもしれませんが、良かったところが弱まってしまったのは残念に思いました。
改変作家という存在も、斬新でアリかもしれないと思っております。歓迎するのは、無論実力が伴っているからなのですが。