『コオロギ』
五官を駆使して、場所そのものの持つ温度や気配をまるごと描写しようとする作者の意気込みに、まず打たれる。例えばこんな描写、
「収容所内はカビの死骸が匂い立ち、彼は、汗の引く日陰の涼しさに生き返った心地がした。彼の足元に黒い虫が飛び出し、それを反射的に踏み潰す。だが靴の裏のつぶれた死骸はどうみてもコオロギだった。灰色の床にひきずった体液が染みて、……」
ここで読者は灼熱の戸外から一転して、ひんやりとした、黴の匂いが鼻をつく、じめじめした空間に放り込まれる。靴底がこびりつく虫の死骸とその体液の感触が、その湿度感をさらに高めるだろう。この後、物語は急速にエスカレートし、近親相姦? …臨死? …復活? …白羽どり!? という、わけはわからないがやみくもに高いエネルギーを発散させながら荒唐無稽の熱気をつき進んでいく。次の一行の予測がつかないまま、思いがけないユーモアの噴出に思わず笑ったりもする。要約のしようがないが、しかし、……要約なりテーマに回収できないものこそが小説なのではないか? という思いを、こういう小説を読むたびに、新たにする。
全体に少し力みすぎているのは事実だと思う。丁寧に推敲すべき余地も、まだ残されている。推敲によって、この小説の荒削りな魅力はむしろ高まるはずだ。
『灰色の瞳』
イメージの乱舞を思うがままに繰り広げてきたこの作者だが、今期では重力の辛さを噛みしめるかのようだ。
「俺」は左脚を切断しているという事実によってまさに「カカシ」的存在であるし、「カカシ」が新聞配達をしているのに対し「俺」が新聞記者という過去を持つことも、この二者の相似性を際立たせている。さらに、「トラック」の運転手を父に持つ「俺」が、まさにその「トラック」に轢かれて片足を失うという、暗いめぐりあわせが提示される。
あたかも労役という主題の重力に不可避的に引き寄せられてしまうように、あらゆるイメージは二度反復されては、「俺」のもとに戻ってくるのである。花吹雪のようにてんでばらばらに舞う、懐かしくも温かいイメージをあえて拝して、作者はいま一度、この重力に身を晒して見せた。「スーパードライ」というタイトルの小説が、タイトルとうらはらに物悲しくも優しい歌を奏でていたのに対し、今期ではまさにドライな、大人の苦味に満ちている。これから先、この書き手がどのような新しい和声を獲得するのか、僕もまた息を殺して見守る。