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 夏休みで暇になったので、久しぶりに作品を読んで何か書いてみようと思った。特に誰かの役に立つとも思わずに自分のために書いたので、こんな読者もいるのか位に考えていただけばと思う。

『葬式にて』 (しん太さん)
 小説というのは終わらせ方が難しいなと思う。今思いついたのだけれども小説と物語の違いは、終わりで苦労するかどうかかも知れない。物語というのは大体必然的に終わる。「いつまでも幸せに暮らしました」とか言っておけば話は済むわけだ。
 で、この作品だけれども、「それだけのちょっとした話」と言うが、それだけじゃあるまい、と私は思ってしまうのである。この語り手何歳か知らないが、葬式で笑い出しちゃった、というのはまあいいとして、その後坊主の頭まで叩いたらいろいろ騒動になるだろうと思う。私など気が小さいから余計なことが気になる。創作というのは文字の列だからどんな荒唐無稽でも書けるわけだが、それに何がしか現実味を持たせようと思えば、やはりその中で起こした事件に作者なりの責任を取らなければならない。
 まあこれもジャンルの問題で、リアリティにもいろいろなレベルがある。他のことを優先する、という立場も勿論あってかまわないのだろう。

『隻手の音を聴け』(くわずさん)
 面白い試みであると思うが、端的に読みにくい。たぶん行番号(?)の順に並べ替えれば意味(というのも問題があるが)が通る文章になるんだろうと思いつつ、面倒くさいのでやっていない。
 でもやらなきゃ仕様がないよな、というわけで、やりました。エクセル様は便利だね。ふむふむ。まあ普通の、というより普通よりけっこう読ませる文章であると思ったのだが、なぜこれをこんな切り刻んだのかよくわからない。
 一つ考えられるのは、私もよく知らないけれども、昔ロラン・バルトとかいう仏人の哲学者がおって、この人はポスト構造主義たら言って、こんな風にテクストを切り刻んで何やら分析というか創作したんだそうであるが、(よくも知らないことを語るのは恥ずかしいね)作者もしかしてこういう故事を意識したのかも知れない。まあ、だからこの作品がどう読めるとかいう提起はできないけれども。

『京都』(みさめさん)
 渡辺淳一の不倫小説みたいな状況を読み取ってしまったのだが間違っているだろうか。語り手(女性だなと何となく思ったけども男性だとしたら面白いね)が欠勤を連絡しているらしい相手が、勤務先の上司(これは男性だと思われるが)であるらしいので。
 状況もよくわからないのであまり語れることがない。とりあえず最初の一文からしてかなりぎくしゃくしている。作者は文章感覚をすこし磨いて頂きたい。
「仕事から逃げるように突然明日も休みを1日もらって京都にきた」
 明日も休みなら一日じゃないんじゃないか。丸一日、という意味かも知れないが、いずれにしてもリズムが悪い。「仕事から逃げるように休みをもらって京都にきた」でいい。必要なら後で情報を足していけばいい。文章を整理することと、書きたい内容を整理することは同じなんだと思う。

『夜道』(グラックマさん)
 これもよく状況が呑み込めない上に、最後の文「大切な人を自分の力で守れない」云々が浮いているような気がして仕方がない。それまでの記述は、私の読む限りでは、単に関係が冷えかけている若い男女ということで、この語り手「僕」は何か一人で思い悩んでいるようだとは思うが、この最後の文につながっていくような話が具体的に何か書いてあったかどうか。突然今までの情報になかったことを言い出されても読者はうろたえてしまう。

『擬装☆少女 千字一時物語35』(黒田皐月さん)
 最近個人的な理由で怪談を研究していたのだが(というのもよくわからんが)これはよく出来た話だと思う。作者は周知の通り長きにわたってこの題材を追究し続けているわけだが、これまでの諸作には正直言って、そんな都合よくいくかいなと感じさせられるものもあったのだけれども、この作品は異性装に含まれる負の面を直視していて、深みがあった。自分の書いたことに真摯に向き合う、責任をとる、というのはこういうことだと思った。

『ビューティフル・ネーム』(森下紅己さん)
 こちらは前の作品に引き比べ、性転換という事柄を、同性愛を描くのに都合のよい道具として使っている印象があった。事実は小説よりも奇なりというのも月並みであるが、性同一性障害といったら今日び実録がいくらも出版されていて、当たり前だがその方がよほど深刻である。私もよく知らずに言うので間違っていたらいけないが、乳房を取るほどな手術を受けるくらいならホルモン療法とかも受けるはずで、生理が来るというのはどうかと思うし、名前を交換して解決するような軽い問題ではないと思う。

『幽霊』(群青さん)
 私は感想を書くときは落ちを隠す配慮などしないのでご了承頂きたい。これは結局、家族全員じつは死んでいたという話だと読んだけれども、一緒に住んでいて、知らないうちに死んでいたというのはどうも納得しがたい。もしかするとこの語り手がみんな撲殺して知らんふりしているのだろうかとさえ思った。それだとすると怖いと言うより理解できない。あるいは、そこまで幽顕の区別がつかないということは、語り手自身すでに霊になっているのではないかという疑いさえあって、そうだとすればこれは実に怖い。

『夏』(わらさん)
 昔の自然主義みたいに救いのないところが、文学してるなあと思った。葬式は基本的に面倒なのだ。たとえ家族であっても、親友であっても、死者に生者が束縛される葬式という儀式は煩わしい。それが親しくもないクラスメートなら尚更のことだろう。
 殺人事件とかならいざ知らず、単なる交通事故とかで休み中に全校生徒が招集されるものかどうかとも思ったが、この語り手の、死や死者のことなど全く考えず、あくまで周囲の空気にだけ関心がある様子は非常に印象に残った。私にはたいへん寒々とした光景に見え、周囲に合わせるのが疲れた云々と言って父親を刺した女子生徒のことなど思い出したのだった。
 私だったらこういう風に小説を終わらせてしまうのは堪えがたく、つい何か発見とか悟りとかを考えてしまうが、ひたすら人生は空しいものであるという文学も当然あっていいのだろう。

『夏の日』(サカヅキイヅミさん)
 ちょっと何を書いていいかわからなくて、じつは後回しにして最後に書いている。
 淡々とした記述は何となく私小説ふうなのであるが、それにしても何を言いたいかよくわからないなあと思う。澱んだ日常を表現する文章もまた緩くて、特に難もないから問題なく読めるが、どうしてもこの事を書くのだという強さは感じられない。
 この作品が書き手の現実の経験を写したものかどうかは別として、すぐれた私小説というものは、単なる現実の模写ではないのであるよと思う。
 この作品について言えば、現実(事実かどうかは別として)をそのまま、よけいな作為を入れずに描くというのは大切なことで、その辺りは好感度が高かったのだが、もう一つ何か〈現実〉を突き抜けたものがほしいと感ぜられた。

『オルガン』(宇加谷 研一郎さん)
 とても楽しい作品であった。書き手の余裕と遊び心が感じられて、しかも自己陶酔に終わっておらず、ちゃんと読者に配慮していると思った。作者の本意ではないかも知れないが、「行ってきまうす」とか「何なんだわやい」とか、細かい言葉が妙に頭について、真似したくなるような吸着力がある。
 いわゆるメタフィクションという枠組みがまた興味深いというか、「作者の俺」が登場人物と交歓できるのは、ちゃんと彼らをキャラクターとして扱っている証拠である。そういう地点から「空想の諸君」に向けてテクストが開かれるのだと思う。

『あなたの性格がわるいのは母親のそだてかたが原因だったのだ』(qbcさん)
 川上弘美とか江國香織とか、あまり私も読んでないけども、印象として言うと、なんだかこのひらがなのおおい、水のようにあわあわとした文体は(いかんうつりそうだ)この手の女流作家のパロディのようだなと思いながら読んだ。
 文体は世界観を表すというのは本当のことであって、あるスタイルの選択は、必然的に内容を規定することになるのだと思う。言ってみれば、こういうひらがな文体でしか表せないかなしさとかがあって、それは蜻蛉日記の昔から糸を引いているものかも知れない。

『約束』(冠概和魅さん)
 うわケータイ小説だ。
 可愛くて、切ない。
 けど、余白がもったいない。(笑)
 というわけで詰めて書くけども、物を食った口でいきなり接吻しますかね。って無粋な話はどうでもいいけれども、この表題にもなっている「約束」とは具体的には何なのかよくわからなかった。上で待っててね?約束だよ?とか何とかのたまわっているから、それが「約束」なのか知らんけれども、実際この語り手が冥土で文都くんと会う時にはたぶんいいお婆さんになっているだろうから見分けがつかないかも知れないね。この間の戦争では実際そういう女性がたくさん居たのだけども。
 いやいや、私が約束守ってたから云々という言葉もあるので、戻ってくるのを待ってます。という話であろうか。とすれば、文都も守ってくれると思う。というのは無理でしょう。もう死んでるわけだし。
 とか理詰めに考えては面白くないので、とりあえず、ラブラブな雰囲気(恥ずかしい)を感じればよいのでしょう。作者さんの歳にもよると思うが(たぶん十代じゃないかと見たが)これからいろいろ読んで考えて、勉強して下さいと申し上げておきたい。

『林先生』(小松美佳子さん)
 これも私は川上弘美を連想したが、よく出来ていると思った。というと何だかqbcさんの作品はよくないと言っているみたいだが、別にそういうことでもない。
 にしても、ある作品について何か書くのに、既存の作家とか文学などをすぐ引き合いに出してしまうというのはあまりいい癖ではないかも知れないと思いつつ(しかも元を知悉しているわけでもないのに)でもやはり、居酒屋とか、初老の先生とか、変身とか、似通った材料だなあと思ってしまう。そしてついでに、作中どこにも書いていないのに、語り手は若い女性かなと勝手に思い込んでしまうわけである。
 いろいろ描写を加えたり、話を付け足したりすれば中編になりうる、ふくらみを持った題材かと思った。川上の亜流と思われる恐れはあるが。

『作品』(bear's Sonさん)
 これもちょっと落ちがよくわからない、ので書いてみるが、つまり前半の語り手である青年が、神様の目から見ると、何かこれまでの芸術に新たな可能性を開くような、新進気鋭の才能(どこかの文芸誌の新人賞みたいであるが)の持ち主だった、というわけだろうか。神様の日本語はよくわからない。
 しかしもしそうだとすると、前半で、彼にそういう才能があることを納得させるような語りがないといけないわけで、考えてみるとこれは大変なことじゃないかと思う。要するにテクスト自体が、自らを証明する必要がある。無茶なと言われても、理論的にはそういうことだと思う。
 残念ながら私としては、この青年はそこまで傑出した人物だとは思えなかった。前半の時事批評的な部分にはいろいろ考えさせられる内容もあったが、それほど常人離れしている印象はなかった。

『八月の光』(るるるぶ☆どっぐちゃん)
 前期の三浦さんのと同じタイトルであるが、何かつながりはあるのだろうかと思う。三浦さんの作品は、同じ表題の作品が作中に埋め込まれる形になっていて、(ヒロシマでの被爆体験を持つ日本人のアメリカ大陸放浪譚)という説明があり、そう思ってるる氏のこの作品を読むと、何か透けて見えてくるような気もする。気のせいかも知れない。
 この辺は私も長らく『短編』から離れていたので、思い及ばない事情があるのかも知れないと思う。
 その上で表面的な印象を述べれば、久しぶりのせいか、いつもながら断片的なイメージを撒き散らしていく勢いに、今期はちょっとついていけないような気がした。たぶんこれは受け取る側の問題で、詩というのは元来そういうものだろうと思う。

 残り四作品というところで黒田さんの感想を発見し、大変興味深く読ませて頂いた。仕事早いなあ。
 常連ということで私の考えている所を述べると、贔屓とかではなくて、気心が知れて来るということはあると思う。いくつか作品を読ませて頂くうちに、ああこの人はこういう人なんだ、と読者の中に何らかの像を結んでくる。初対面の人と何回か会っている人とで、しぜんと抱く印象が違うという事は当然あるはずである。
 このような読者の変化の他に、書き手の側には創作の経験を重ねるにしたがっての成長が勿論あるに違いなく、両方の変化が相まって、だんだん評価が定まってゆくのだろうとおもう。
 結局何を言いたいかというと、初めは思うような評価が返ってこなくても、書き続けるというのが大切なのだということである。これはこのごろ自分に対して考えたことであるが。

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