ながつきゆうこさん、読者さん、返信ありがとうございます。
読者さんは拙作への感想を書いていただいて、まあ、それが自分でもはっとするというか、それが肝だと思っている内容で、これは問題として全体に敷衍してもイケるんじゃないかと思ったので再び書かせていただきます。
〉少年には「悪の行為」にすら思える影踏みや、集団に馴染むことのなかにも、ひょっとしたら希望が生れるかもしれない、というような、微かな視野の広がりの可能性を、作者はこの少年主人公に与えてもよかったのではないか? と思った。
これは小説が「肯定的」か「否定的」かという問題ですよね。じつは、これは千字小説にかぎらずぼくが小説を読んでまず気にするポイントで、ぼくにとっての課題でもあります。ぼくは「肯定的」な小説であるにこしたことはないと思っていて、その点で読者さんの意見はモロにぼくに直撃する問題提起でした。
それでは小説が肯定的であるために、どうすればいいかなのですが、ぼくは小説が肯定的であるためには、否定の否定になっていないと駄目だと思っています。小説内で全肯定的に「人生って楽しいヤッホー」みたいなこと書かれてもまったくリアリティが無い。これでは物事に対する否定的な目線をまったく捨象していると思います。この例で言うと「人生って楽しい」をまず、「そんな楽しいことばっかりじゃねえよ」と否定して、「そうはいっても楽しまないと」ともう一度否定ですね、ここで肯定が完了します。
73期に目を移すと、決勝に残った「うどんだよ」は否定の否定をしていて、「水の線路」もギリギリのところで否定の否定になっていると思っていて、ぼくは予選でこの二作品に投票したのですが、否定の否定(つまり肯定)をできているというのが推した理由のひとつです。その点でぼくの小説は「否定すべき対象」を顕在化しただけだという自覚があります。千字という制限における課題でもあるんですが、「顕在化」にどうしても字数を食ってしまうなあというのが、いままで何度か参加しての感想ですね。
もちろん、肯定的/否定的の二分論で小説の価値がわかれるわけではないですし(またぼくもそうは思いませんし)、各々の好みで、たとえば文章の流れとか、日常にはない設定とか、判断基準はいろいろあると思うんですが、ぼくは千字で「否定の否定=肯定」をちゃんとできている作品を見ると、単純に凄いなあと思ってしまいます。思い出すところでは、68期のsasamiさんの「九龍」なんかは上手にそれができているように感じました。