「おはよう、鈴木さん」。挨拶など交わしたことのない佐藤伊織が、ナチュラルにそう言った今日は月曜日で、明日学校へ行ったら挨拶くらいはすべきだろうなどと逡巡していた私ににこやかに微笑んだ。「お、おはよう」と、返事は果たしてナチュラルだったか定かではないが、ひとまず懸案が解決したと胸をなでおろし、と同時にまた違う問題が頭をもたげた。「昨日はありがとう」くらいのことは言うべきだったのではないか。それで私は再びぐずぐずの思考の海に旅立つのだ。
「ほら、あの女装の子、いつもこの時間あそこにいるけどよっぽどお菓子が好きなんだろうねえ」
パートのおばさんが噂話に花を咲かせながらイカの皮をひん剥いた。私がバイトする鮮魚売り場は、お客さんからの注文を受けてその場で魚をさばくのだが、これが売り場の真ん中にあってぐるりと透明のアクリル板で囲まれている。だからお客さんからこちらがよく見えるように、ここからも店内の様子がよく見えた。確かに示された場所を見れば、外国製のかわいらしいお菓子が並んだその先に、ナチュラルにテンガロンハットをかぶった佐藤伊織がうろうろしていた。そうか、と私はブリを取り落としそうになりながら膝を打つ。甘いものなら私にも一家言ある。
「これ、気持ちなんだけど、この間はありがとう」バイト帰りのテンガロンハットを捕まえて、その手にマカロンを押し付けた。怪訝な顔をした佐藤伊織に、畳み掛ける。
「佐藤君、甘いもの好きなんじゃないかと思って、ここのマカロンおいしいし」
「ありがとう、鈴木さん、けど、どうして俺が甘いもの好きに見えたの?」
「だって、ほら、あのお菓子売り場によくいるでしょう?」
そう言うと気まずそうに、口元へ手をやった。
「結構目立った?」
「いや、あのね、私は気付かなかったんだけどパートの人がそう言っててさ」
「そっか……、うん、ありがとう」佐藤伊織はナチュラルでビューティフルな笑顔を浮かべる。私はそれほどナチュラルでもない笑顔で「それじゃあ、また」ときびすを返す。二、三歩行きかけた私の背中に、佐藤伊織が声をかける。
「鈴木さん、魚さばくの上手だね」
一瞬何を言われているか分からないまま振り返る。
「いつも上手だなあと思って見てたんだ、いつも」
それだけ言うと、赤いチェックのミニスカートを翻して、佐藤伊織は駅に向かう雑踏にまぎれていった。それで私は三度目のぐずぐずの思考の海に旅立つ。
続く
それじゃダメじゃん、黒田皐月です。
『続き』という意外な展開に大変驚き、さらに『伊織さんの冗談』で大きな見落としに気づかされて衝撃を受けました。遅れた理由はそれではありませんが。
そういった作品たちを読んで私が何をすべきか、即ちこれらを受けて何を書くべきか、悩みました。ひとつの作品対ひとつの作品という考え方で挑戦するとすれば、『36+1/2続き』に対して『36+1/2』を基準として私なりに書くべきであったのかもしれません。あるいは『伊織さんの冗談』に衝撃を受けたことからこれに対してもひとつ挑戦する選択肢もあったのですが、黒田皐月がふたりの同名の人物を描くということに違和感を持ったため、やめました。
『36+1/2続き』にこめられたメッセージとは何か、説明はありませんが、私はキャラクター設定を練っているのかという指摘と読みました。それならば、私は私の書いた『36.5』あるいは『36.6』に対して、『36+1/2続き』を追う形で挑戦すべきと思い、『36.6』を基準に『伊織さんの冗談』の要素を混ぜて、『36.61』をここに出させていただきました。
難しいと思った点は、『36+1/2』と『36+1/2続き』の登場人物には決まっているがまだ描かれていないであろう設定が多いと思ったこと、それから『36.6』を読んでいることを前提としたくなかったために前提条件の説明に多くを割いてしまったことでした。結果、『36.61』まで二千字をかけてようやく『36+1/2』の終わりに追いついたようなものになってしまいました。これはこれで根本的な問題なのでしょうが、『36+1/2続き』の更なる続編の内容いかんによっては私の方は『36+1/2続き』の展開はは飛ばしてしまうかもしれません。いずれにしても、相当する話は未だに思いつきません。
『擬装☆天狗』には触れておりませんが、ついていけないものと最初から諦めております。済みません。
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擬装☆少女 千字一時物語36.61
世の中には一過性のブームというものがある。大抵は物珍しさだけによっていたものだ。しかし佐藤伊織は違った。実は男なのだという噂と共に洋服屋でバイトを始めた彼にリピーターが多くついていることは、筋向かいのコスメショップに勤める私には手に取るようにわかる。今日も彼の勧めを受けたお客様が何人も、新作のラメ入りグロスを手に取っている。
彼はときどき新作のチェックのためにコスメショップに来る。ちょうど私が商品搬入をしているときには手伝ってくれることもある。私のお礼はなぜかいつもたどたどしくなってしまうが、彼の返事はいつも率直で、何事もなかったかのように今度は何を買おうか悩みだす。
彼は何者だろうか。お客様に囲まれてちょっと私には近寄りがたい華やかさを持つ彼。女の子だから力はなくて当然と率直に言って私を手伝ってくれる彼。新作を前に長いこと迷い試す買い物に時間のかかる彼。彼のことがだんだんわからなくなってしまった。そもそも、本当に彼は「彼」なのだろうか。私が知っているのは、最初の噂だけだ。
「ちょっと、訊いて良い?」
新作のことかと思い、私は気持ちを仕事に戻して返事をしたのだが、彼の問いは違うものだった。
「鈴木さんは私のことをどう見てるのかな、って思って」
意外な問いに私の驚きの声は裏返ってしまったが、それでも彼は失笑を漏らさない。
「ほら、人の目って気になるじゃない。自分がどう見られてるかって気になるの、仕事柄かな」
彼はまっすぐな目で私にまっすぐ問うた。私のまっすぐになれない目は彼に不快を与えてしまっていたのだろうか。しかしそんな疑問も一切の思考も彼のまっすぐな目に吸い込まれてしまって、彼の顔しか見えなくなる。溺れそうなほどに息が詰まる。
「顔、近い」
彼は何もしていなくて当惑しているのは私だけなのに、彼のせいにしてしまった。それでも彼は二歩下がってくれた。均整の取れた足に赤いチェックのスカートが似合っていることがよく見える距離だ。本当に彼は「彼」なのだろうか。
「男の人……だよね?」
遠慮も何もなく、まっすぐに訊いてしまった。こんなまっすぐは違う、という後悔を表情から隠しきれない私を前に、うふふ、と口元と目元だけで控えめに笑った彼は、是とも非とも言わなかった。
「好意を持ってくれてるんだね。良かった、ありがとう」
あの後私がレジに立ったはずなのだが、彼が何を買ったのかは覚えていない。
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第74期作品の改変は、まだ何も考えておりません。別に私などがやらなくても良いのだろうと思いつつ、気分次第でやるかもしれません。