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〉これは小説が「肯定的」か「否定的」かという問題ですよね。じつは、これは千字小説にかぎらずぼくが小説を読んでまず気にするポイントで、ぼくにとっての課題でもあります。ぼくは「肯定的」な小説であるにこしたことはないと思っていて、その点で読者さんの意見はモロにぼくに直撃する問題提起でした。

〉もちろん、肯定的/否定的の二分論で小説の価値がわかれるわけではないですし(またぼくもそうは思いませんし)、各々の好みで、たとえば文章の流れとか、日常にはない設定とか、判断基準はいろいろあると思うんですが、ぼくは千字で「否定の否定=肯定」をちゃんとできている作品を見ると、単純に凄いなあと思ってしまいます。思い出すところでは、68期のsasamiさんの「九龍」なんかは上手にそれができているように感じました。

「直撃する問題提起」だと光栄な返事をいただいたので、もう一度書かせてもらいます、これが最後ですのでKさんの創作のきっかけとなるのであればありがたいです。

「肯定か否定か」という二分論よりも、「緊張と弛緩のバランス」、もっといえば、小説の人物たちが生きた人間として動いているか(プラグマティズム・・・・・・といってもいいんですかね?)どうか、という問題のような気がします。

つまり、「影踏み」でいえば、慎治・健吾・祐樹・淳・ぼく、と出てくるわけなんだけども、ぼくは最初から最後まで緊張している。呼吸せずに、無呼吸のまま、話がつづく。緊張のまま、「気絶したい」ともっていくよりも、どこかで彼を実際の人間のように緩めてあげれば、もっと生きてくるのではないか、と私は思ったわけです。

慎治・健吾・祐樹・淳の4人の少年も、皆、いちように「ぼく」と対立する側にいて、要するに彼らもまた「緊張」しているんじゃないか。たとえば、淳(いちばんのんきそうですね)が、のっそりと「ぼく」のところにやってきて

「ほんとはよお、おれも影ふみなんてやりたくないんだけんど」(と訛らせてみる)

と「ぼく」に呟かせてみたりしたらどうだろう? 「影踏み」がいやなのは「ぼく」だけではなかったんだ、という軽い驚きを与えるとか。あるいはこの話全体を、成人式の飲み会で、走馬灯のように振り返っている「ぼく」というふうに、ラストで昇華させていく、という時間軸の移動だってある。

私は作品を「肯定否定」でみるというより、主人公=自分は特別、っていう意識を持っててかまわないんだけど、そういう主人公だけが特別ではないという視点をほかの人物や物に語らせているか、弛緩があるか、という点で読んでいることが多いかもしれない。

・・・以上は私の個人的な感想ですので、感想の感想を書いてくださったながつきゆうこさんの意見も興味深いと思いますし、とどのつまり、作家は読者の感想を取捨選択して取り入れていくべきだと思います。私の考えのなかで気に入った部分があれば、どうか役にたててくれると書いた甲斐がありますし、こうして書かせてもらうと、私は私なりの方法論が固まってきて、有意義です。

では74期の作品をこれから読ませてもらいます。ありがとうございました。



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