10 夏の続き;わら
“心からの同情”と“義務的な同情”という、二種類の“同情”があるのだとしたら、この小説で提示された「罪悪感」というのは、ようするに“義務的な同情(薄い同情、嘘の同情)”にたいする罪悪感ということになるのだろう。たとえ同じ学校の生徒であっても、それほど親しく付き合ったことのない相手に“心からの同情”を寄せることは難しい。
この小説で言うところの「罪悪感」は、学校のような大きな集団の中にに身を置いたことのある人なら、誰でも覚えのあることだろう。しかしそれをただ読者の前に示すだけでは、単なる“あるあるネタ”に終わってしまうのではないか。
もう一歩踏み込んだ何かを期待します。
11 確変男になりたいよう;Revin
ごく表面的に読めば、パチンコに狂った男の憐れさと、パチンコというゲームの不毛さや虚しさを伝える小説、ということになるだろうか。しかし、もうちょっと想像を進めて読むと、これは現実と虚構の近似性について書いた小説ではないか、と考えることもできる。
パチンコ台の中ではエヴァンゲリオンの物語が展開されていて、主人公はパチンコ台の中の綾波レイに感情移入する。そして自分(主人公)のことを憐れむバアさんの視点(現実)を、綾波レイを憐れむ自分の視点(虚構)にスライドさせることで、“現実”と“虚構”の境目のような場所を作り出し、主人公はその場所に立ちすくんで全体を見渡しながら、どこかやり場のなさを感じている。なぜなら“現実”と“虚構”が、あまりにも似ているからだ。
主人公はゲームに負け、一旦現実に引き戻される。そして「ああ、派遣に登録しよう」と言って、現実の中に微かな活路を求めようとするが、そもそも“派遣”というものは、マネーゲーム(ちょっと古いか)における最下層の駒でしかなく、主人公は現実の世界においても、ゲーム(虚構)から逃げることが出来ない。
今の時代を生きる人間には、やっぱりどこにも抜け道はないのでしょうか。