仮掲示板

忙しい読者

 皆さんが小説にかける思いがこんなにも強いことに感動を覚えております。
 でも一般読者はそんな思いに気づく暇がないくらい忙しいのです。私は、実は半年ほど前すでにこのサイトを発見していたのですが、やはりそのうちの少数を一回読んだだけで、「意味が分からない」と切り捨てて、そのまま他のサイトに投稿、お世話になるようになりました。
 それからひと月ごとにサイトを覗き、自分でも投稿したりして、そしてこの前、初めて自分の意見をぶつけてみたというわけです。(選ばれなかったことで、やけになっていたのです。恥ずかしい話です)
 
 多分結構の数の人が、毎日訪れているというのは間違いないでしょう。ですが、私も含めて彼らのほとんどが、忙しい読者なのです。お金を払って買った本ならともかく、ここはネット上ですから。
 恋人とメールがしたい、今日から始まる新しいドラマが見たい、仕事が山済みだ、今日買った涼宮ハルヒが読みたい。欲望と義務の合間に出来た刹那の時間に、彼らはたまたま、このサイトに訪れたのでしょう。そんな人々に2回、3回読んでもらうのは無理強いです。
 ここで1回読んで「分かる!!」というのは大きな武器です。短時間で彼らの心をわしづかめるのです。そうしたら、時間の都合で投票はしてくれないかもしれないけれど、その人は、多分また同じぎゅうぎゅうにつめられた時間のごくわずかな隙間に、また読みに来てくれるかもしれない!! 票をもらうことよりも、評をもらうことよりも、賞をもらうことよりも、そんな「時々訪れる静かな読者」の存在は、作者にとって大きなものになると思います。
 ごめんなさい、そうであればいいな、という私の妄想です。
 しかし、どうでしょう。皆さんがほしいのは、評価ですか、読者ですか? 評価なのであれば、自分の作風を貫く、読者ならば、分かりやすさを追求するべきだと思います。

Re:忙しい読者

こんばんわ、ながつきです。

 ここ数日の掲示板でのタンソさんの書き込みを読んでると、だんだん論点がずれてきたので、本当は何が言いたいのかなあと思っていたわけなんです。今日の書き込みを読んで、納得しました。

 「一見してよく分かる」ということが読者をひきつけることにはならないのではないかと私は思っています。誰にでもよくわかるということが、小説の魅力とは限らないからです。ずっと思っていたんですが、タンソさんは例えばどのような作品が、ちょっとよくわからない小説だとお考えなのでしょうか。作品を名指しでないと、タンソさんの感覚がつかめないんです。それはチキンさんも同じです。黒田さんやロチェスターさんは感想をよく書かれているので、こういうのが好きなんだなあと分かります。
 タンソさんが面白いと思ったという「うんどうかいのユウウツ」。私にはいまひとつでした。とむさんがこの作品のどういうところを面白く見せようとしているのかがちょっとみえみえで、それが私の好みには合いませんでした。逆に初投稿の「夏祭り」を読んだ時は、面白い作家が出てきたぞと楽しくなったのを覚えています。ちなみに「荒物屋の怪」なんて大好きですね。
 そういうわけで、何を面白いと思うかははっきり言って好みの問題なので、例えば誰かの作品が決勝に残ったとして、どこが面白くてそれを皆が選んだのか、掲示板に尋ねたらいいのではないですか?逆に何故自分の作品が選ばれないのか問うてもいいかもしれない。短編周辺の方々は、小説に対してとても前向きなのでそれこそこぞって教えてくれるでしょう。しかしそこには個人の好みが反映されるので、聞いたところでやっぱりわからないかも知れない。でもまあ、人の意見を聞くというのは大変参考になりますしね。
 私は写真の世界に身をおいていますが、これも優劣より好きか嫌いかに尽きると思っています。小説もそうでしょう。たとえ村上春樹がどんな賞を取ろうとも何万部も売り上げたとしても「ノルウェイの森」が嫌いな人は嫌いでしょう。(特に村上さんはあちこちからこてんぱんに批判されるのが普通なので)これが好きでこれが嫌いというのがはっきりしてくれば、自分の作品ももっと磨きが掛かると思いますよ。ショートショート形式だって、完成度が高ければ短編でも優勝している作品はあります。

以下に私の記憶に残っている作品を挙げておきます。私はこういうのが好きなので、今後はやはりこういう作品に点が良く、ショートショート形式には辛くなります。
長くなるなあ。

第一期 盂蘭盆会 不老不死
第四期 強盗
第十一期 地下鉄
第二十二期 Antipodes
第二十四期 ハチミツ23号 遠雷 波 あの日のバスはもうこない
第二十五期 夏祭り
第二十六期 風船葛
第二十七期 冬が溶けるとき

ここまで書くために読み返してたら、はまってしまってついつい楽しんでたらえらい時間を食ってしまった。
機会があればまた次回。

Re*2:忙しい読者

〉 ずっと思っていたんですが、タンソさんは例えばどのような作品が、ちょっとよくわからない小説だとお考えなのでしょうか。作品を名指しでないと、タンソさんの感覚がつかめないんです。

 名指しましょう。今回で言えば、9人からの票を受け取ったqbc様の「メフィストフェレス」。私は、分からないと思ったらもうそれ以上の感想は抱けないので、友人にも読んでもらったところ、その友人も、「わけが分からない」と言っておりました。ですが彼は、その理由まで指摘してくれました。
それは、「比喩と事実の書き分けがうまくできていない」「『冒頭部分:電球の交換頼まれ、トイレットペーパーの補充頼まれ』にリアリティがない」(OLは、こんな仕事はしないそうです)後者はともかく、前者が私たちが作品についていけないと感じる一番の理由ではないかと思います。
 そして、たけやん様の「僕と猫」。文章は分かりやすいが、最後に「それで?」という感想を抱いてしまう。テーマがよく分からないということです。
 そして、三浦様「きれいな円が書きたい」が一番まともでした。ただ、本当に読解力のある人にしか分からない、難解な内容であるということは挙げておきたいと思います。
 そして、長月様。「筒井筒」など、作品は分かりやすい分野に入ります。ですが、ありきたりな感じです。新鮮味がないと思います。

 以上、名指しでこきおろしました。皆さんが賛美する作品にもこんなにも問題点があることが、分かってもらえたでしょうか?

 そして、友人に、ある忠告をもらいました。私のしていることは、単なる水掛け論ではないかと。そんなことをして意味があるのか、と。
 たくさんの読者に分かってもらうことのすばらしさは伝わらないのでしょうか? 本当に、単なる水掛け論で終わってしまうのでしょうか?
 ですが、もう私はすべてを語り終えたと思います。
  

Re*3:忙しい読者

〉 「比喩と事実の書き分けがうまくできていない」

比喩と事実は特に書き分けて
いません。

〉 耳が上に伸びる。犬歯が二センチ伸びる。目尻も吊りあがる。

などの部分ですが、比喩として
「耳が伸びたように見えた」と
読まれても構いませんし、
事実として本当に「耳が伸びた」
と読まれても構いません。

**小説は「ただの文章の羅列」だと
私は考えています。
読まれる方自身の読解によって、
比喩なのか事実なのか「読み分け」て
くだされば良いと考えています。

従って、比喩か事実かを厳密に問われる
読者の方の場合、分かりづらい
と感じられるのも、もっともだと
考えます。



〉 「『冒頭部分:電球の交換頼まれ、トイレットペーパーの補充頼まれ』にリアリティがない」(OLは、こんな仕事はしないそうです)

会社で電球の交換やトイレット
ペーパーの交換を頼まれる人は、
私の経験上では、居ます。
必ずしも仕事として頼まれるわけでは
ありませんが、雑用を押し付けられる
人はいました。

**この作品は「働く20代〜30代女性」
を想定読者としていたため、それ以外の
属性の方には説明不足の表現が散見して
います。
分かりにくいとおっしゃられるのも、
もっともだと考えます。


今回のタンソさんの指摘で、
なるほどやはり万人受けする作品を
書くのは難しいなと感じた次第です。

わからないということ

 これは私の個人的感想なんですけれども、「分からない」ということに対する構えの違いかな、ということが、段々わかってきました。
 タンソさんはご自分が「分からない」ということを最優先で考えてらっしゃるな、と思うんです。さらに言えば、自分が分からないものは、すなわち駄目なものである、と価値判断されていませんか。
 そもそも言語による伝達には、本当に百%「分かる」ということはあるのかな、と私は思ったりもするのです。分かったと自分で思っていることも、誤読である可能性は常にあるわけです。
 『メフィストフェレス』は私は真っ先に票を入れたので、改めて考えてみたのですけれども、確かに不可解な点が全くないとは言えない。たとえば最後の一文はきわめて象徴性の高い表現です。私は語り手が「食事に誘う」と言ってますので、若い男と歓談しているんだろうと解釈しましたが、ここには性的なイメージがあると感想で書いた人もいました。(もぐらさんでしたね)
 こういう場合何が正しいか、ということは「分からない」わけです。作者に聞けば答は返ってくるかも知れませんけれども、それも一つの解釈にすぎない。
 「分からない」ことは解釈すればよろしいので、それは読者の自由に任されているのです。解釈した上で、自分なりに共感できるかどうかが問題になります。私だって世間のOLの実態なんか知りませんが、こういう人は学校の教室にもいそうな、一つの普遍的な存在であると言えないでしょうか。
 小説というものは、ある特定の人間を、限られた場で描き出すのではありますが、実は個々の読者の共感によって自由に飛翔する可能性を持つものです。それがなければ『こころ』だって百年まえの単なる妄想にすぎない。
 それで思い出すのは森見登美彦という作家が最近、『走れメロス』など古今の名作を翻案した短編集を出したという話ですが、あれも、最近の読者はあまりにも禁欲的になったというか、自分に引き寄せて読む機能が弱まったせいかも知れないですね。
 もうほとんど雑感になってしまってますけども、「自分が分からない」こと即ち悪、間違い、不完全であるという考え方は、やはり学校教育の弊害かも知れないなあとも思うのですよね。昔の私も含めてですが、正しい答は一つだけ、全部綺麗に謎が解けてなきゃいけないというのは強迫観念だし、それが分かるように表現してくれ、というのは甘えにすぎないこともある。
 とは言っても世の中バランスは非常に大切で、読者の「分からない」を頭から否定すれば、これは作者の独りよがりにもつながるので、別にタンソさんの感覚を全否定しているわけではないです。ただご自分の「分からない」にも少し疑いを持って頂ければと思うのです。
 ちなみに私も『僕と猫』には首を傾げました。正直に言えば「分からない」のですけれども、そうは言いたくないので黙ってます。考えれば何か理屈は付くんじゃないかと思うのですが。

Re*3:忙しい読者

水掛け論、それは曲がりなりにもこの場に「議論」があった場合です。
タンソさんの出されている意見で、議論は成り立っていません。
 
 つまりどういうことかというと、タンソさんはすぐに「だれそれがこう言ったからこうだ」という書き方をされてますね。
「チキンさんが言ったから」「友人が言ったから」「OLはこんな仕事はしないそうです」など。その言葉に対してあなたは何の検証もせず、事実として認識し持ち込んでしまう。非常に危険なことです。
 それからもう一つ、あなたはそれらの意見を持ち出すだけで、あなたの意見を述べていない。これでは議論しようがありません。私はあなたのご友人のことも知らないし、どこぞでお勤めされているOLさんかもわかりません。背景もわからないのに「友達が言ったから」では物事は通らないと思いますが、いかがでしょうか。もう少し自分の意見に対してしっかりと責任を持ってください。
「比喩と事実の書き分けがうまくできていない」事がこの小説の欠点になる理由を教えてください。あなたはずいぶんとそのご友人をリスペクトしているようですからご友人の説明でもかまいません。
 OLにも色々あるでしょう。会社の大小、職種によってやることも全て違うでしょう。「メフィストフェレス」では、会社内で彼女の立場を実に明確に描いていると思います。「『電球の交換頼まれ、トイレットペーパーの補充頼まれ』にリアリティがない」(OLは、こんな仕事はしないそうです)この小説がどのような形を持って描かれているのか気がつかず、ずいぶんとんかちなところをついていらっしゃるのに、さもありなんと提示されても困ります。こき下ろすとはこんなでたらめをすることではありません。
 何で私がこんな事を噛んで含めるように説明しなければならないのか、実に情けない。

 今期のqbcさんの作品について私が言わせていただくとしたら、これはqbcさんの得意分野である、人物の戯画化だと思っています。私はこの手の作品はあまり好きではありません。私は「コットンワンピース」「生活問題」の方がずっと好きです。しかし票を入れました。それは何故か。小説としてきちんと成り立っているからです。こういうタイプの女はその男をメフィストに見る妄想があっておかしくありません。そういう女を私は容易に思いえがくことが出来たからです。
 
 ちなみに私の作品にコメントいただきましたが、私は自分の作品に対するあらゆる感想に対して何も言わないと決めております。だがしかしあえて言わせてもらえば、わかりやすいというのは心外です。あれはご存知「伊勢物語」を現代風に焼きなおしただけなので「筒井筒」を原文で知らないと面白くもなんともない。皆が皆、「伊勢物語」が面白くて仕方ないと思っているわけではないので「わかりやすい」とは言い難い。しかも何百年も前の話の筋で、後世の小説が踏襲するのはもはや当然、新鮮味がないにきまっています。もっと他の欠点を探してください。

 時間が来たので、今日はこれまで。


大丈夫だと思いますが

 タンソさんのためにちょっとフォロー。もちろん、余計なお世話です。
 この書き込みにおける長月さんの立ち位置は、やはり「書き手」側なのですね。「書き手」というのは作者に限らず、顔を出して感想を発表する人、批評家としての書き手も含みます。
 長月さんにこういう風に言われても、タンソさんはやはり、読者はそんな厳密な議論を展開する必要があるのか? と疑問に思っているのではないでしょうか。水掛け論というのは、そういう意味ではありませんか。
 長月さんに対して、タンソさんの立ち位置は、いわば読者の声は神の声って感じだと思うんですよ。「読者」はさしたる努力を求められず、しかしその言い分は無条件に受け入れられるという(表現にどうも棘が混じりますが)しかし私はこれも決して否定しません。そういう読者もテクストには存在しうる。
 で、長月さんは知らず知らずタンソさんを「書き手」側の人間として話しているんですけれども、これは愛情であり信頼です(気持ち悪いことを言うなと叱られそうですが)
 勝ち負けから言えば、こういう「読者」と「書き手」がまともに対話すればですね、読者がかなうわけがないんです。「読者」は黙る他ない、となって、タンソさんがこの対話の最初の頃に言われた疎外感を味わうことになるわけですね。
 でもそれでいいのかな、と私は思っているのです。ここには永住できないと再三タンソさんは言いつつ、きっと離れては行かれまいと私はひそかに信じているのですが、やっぱりタンソさんの発言も意味がないわけじゃない。
 このたびいくつかの作品について言及されたことについては、皆さん何ごとかを感じ、考える所があったろうと思います。私もその一人です。
 そして、さらに得られた反応によって、タンソさんも何か学ぶ所があるに違いないと思うのです。そうして「読者」から「書き手」に成長していっていただきたい、なんて言い方をしますと偉そうですが、当然私もその途上にあるんでして、芸術の道には限りがない。
 話が散らかってきましたけども、タンソさんも寄稿されているからは、物書きとして進歩したい、という思いがありますよね。であれば自分を「読者」として低く限定してはいけません。
 長月さんが詰問しているように見えるかも知れませんが(私だけだったら困るのですが)、そういうことを言ってらっしゃるのだと、私は思います。決して凹まそうとしてるのではない(……そうですよね?)

 そして私の個人的な感想ですが、やはりね、作者に面と向かって「作品は分かりやすい分野に入ります」なんて言っちゃいけない(笑)タンソさんは褒めたつもりかも知れないけれども、考えてみれば、友人や恋人に向かってでも、あなた分かりやすい人だねなんて言ったらそりゃ気を悪くされるでしょう。
 実は私も長月さんの作品はある意味「分かりやすい」という気はしてるんですよ。るる氏などに比べてみればそうですよね。だからタンソさんの意見も一部同意です。ではどんな風に批評したら受け入れられたのか? それを考えていただきたい。(受け入れられる必要はない、という答も当然ありでしょう。すべては自由なのです)
 繰り返しますがこれは私の感じ方で、そういう発言を頭から否定するわけではないです。ただ、創作の仕事の上で、人の気持ちを察しながら言葉を操る力は不可欠です。そしてその経験値を積むために、掲示板での議論・対話はたいへん有効であると、私は自分の経験から言いたい。物書きなんてものは引きこもりの傾向があるもので、私なんか、ネットがなかったら本当に成長できなかったですよ。

反論

 この前の投稿は旅行先からだったので、突発的に書いたのです。検証がないのは申し訳ないことです。友人が言ったことをそのまま書いたのは、旅行に一緒に行った友人の考えをホテルで聞いて感動いたしまして、すぐに皆様にお伝えすることがよいかと思ったのですが、怒らせてしまうことになってしまいました。申し訳ありません。
 ですが、やはりまだ反論すべきでしょう。

〉私はあなたのご友人のことも知らないし、どこぞでお勤めされているOLさんかもわかりません。背景もわからないのに「友達が言ったから」では物事は通らないと思いますが、いかがでしょうか。

 あなたはあなたの小説を読む人々の背景が分からなければ、批評の内容を受け容れないのでしょうか。文章表現が下手な人、自分の意見に責任を負いきれない人は私以外にもいます。それでも精一杯、小説の問題点を指摘してくれる読者を、私みたいにあしらうのでしょうか。私にはいいですが、他の方には絶対止めてください。二度と読んでくれなくなります。
 
〉「比喩と事実の書き分けがうまくできていない」事がこの小説の欠点になる理由を教えてください。あなたはずいぶんとそのご友人をリスペクトしているようですからご友人の説明でもかまいません。
〉 
 それが上手に為されているなら話は別ですが、今回はマイナス面にしか作用していない。しかし、魅力にかわりうる点なのでこれは精進あるのみです。
 

〉 何で私がこんな事を噛んで含めるように説明しなければならないのか、実に情けない。
 
 言いすぎですよ。書き手のエゴが丸出しになってきています。解説して「やっている」と読者に思われたら最期です。これでは何度も言いますがその人は、二度と読んでくれなくなります。私以外には絶対に止めてください。
 

〉 ちなみに私の作品にコメントいただきましたが、私は自分の作品に対するあらゆる感想に対して何も言わないと決めております。だがしかしあえて言わせてもらえば、わかりやすいというのは心外です。あれはご存知「伊勢物語」を現代風に焼きなおしただけなので「筒井筒」を原文で知らないと面白くもなんともない。皆が皆、「伊勢物語」が面白くて仕方ないと思っているわけではないので「わかりやすい」とは言い難い。しかも何百年も前の話の筋で、後世の小説が踏襲するのはもはや当然、新鮮味がないにきまっています。もっと他の欠点を探してください。

「だがしかしあえて言わせてもらえば」結局言うんじゃないですか(笑)
 ちなみに私、伊勢物語は知っています。焼き直し作品だとは気づきませんでしたが、どっかで見たことある感、これで納得です。
 あなたには芥川龍之介という有名な小説家を紹介しましょう。焼き直し作品が多々ありますが、原文を知っていようがいなかろうが、面白いですし、未だに新鮮です。
 他の欠点ですが、ありません。結局、欠点も美点も少ないようです。あなたが分かりやすいという言葉に心外を覚えるのであれば、もう語彙力の少ない私になす術はありません。こうやって、他の人の口をつぐませることは、私以外には止めてください。


 総じて、あなたがた書き手は、投稿作品がもうすでに完成しているものとお思いなのではありませんか? だからできる限りの反論を駆使し、自分の、あるいは仲間内の作品を守ることに躍起になっていらっしゃる、そういう風に映ります。
 いいですか。あなた方は、完全な作品をつくることなんて出来ないんです。もっとレベルの高い人々ですら至れない境地に入るなど、エゴのきわみです。そのために、読者は必要です。特に、どんな拙い形であれ、問題点を指摘してくれる読者が私には必要なのです。
 ちなみに、私をここから消し去ることは簡単ですよ。書き手が総力を挙げて反論し続ければ、じきに弱い読み手は泣きながら逃げていくことでしょう。 

Re:大丈夫だと思いますが

 フォロー有難うございます。ですが、あなたにも反論。
〉 勝ち負けから言えば、こういう「読者」と「書き手」がまともに対話すればですね、読者がかなうわけがないんです。「読者」は黙る他ない
 
 おかしいです。他のサイトを見たことありますか? 全部が全部とは言いませんが、書き手はほとんどの方が低姿勢です。プロアマ関係なく。逆に、読者の方が強すぎて「言いすぎだろ、イジメなさんなって」と仲裁に入りたくなりそうなところも多々あります。このサイトは特異です。

〉そうして「読者」から「書き手」に成長していっていただきたい、
 自分を「読者」として低く限定してはいけません。
 
 ここもそうです。読者の方が低い位置にいるって何事でしょうか? 読者がいなけりゃ、その小説は路頭に迷ってしまうんですよ? そんなだったら、私は、「書き手」になんか成長したくない。読者の目線で作品をつくりたいです。

〉そして私の個人的な感想ですが、やはりね、作者に面と向かって「作品は分かりやすい分野に入ります」なんて言っちゃいけない(笑)タンソさんは褒めたつもりかも知れないけれども、考えてみれば、友人や恋人に向かってでも、あなた分かりやすい人だねなんて言ったらそりゃ気を悪くされるでしょう。

 
 よく分かりませんね。小説は友人や恋人じゃありません。小説です。
 ・・・・・・じゃあ、分かりやすい、ではなく「考えを共有できました」ではどうですか? こちらの方が、私の心により近づきます。
  
 
 書き手から、書き手兼読み手に成長してください。

Re:反論

 こんばんわ。
なかなか面白く読ませていただきました。
 特に怒っていません。お気遣いなく。ただ、すぐになんでもその通り!にしてしまうような印象があったから、気になっただけです。世の中はあまり親切ではないですからね。


〉〉私はあなたのご友人のことも知らないし、どこぞでお勤めされているOLさんかもわかりません。背景もわからないのに「友達が言ったから」では物事は通らないと思いますが、いかがでしょうか。

〉 あなたはあなたの小説を読む人々の背景が分からなければ、批評の内容を受け容れないのでしょうか。文章表現が下手な人、自分の意見に責任を負いきれない人は私以外にもいます。それでも精一杯、小説の問題点を指摘してくれる読者を、私みたいにあしらうのでしょうか。私にはいいですが、他の方には絶対止めてください。二度と読んでくれなくなります。

ここでずいぶん飛躍されましたね。
小説のことは言っていなくて、議論の仕方を言ったまでです。
人に意見する時はそれなりに確証が必要だと思うのですが、いかがでしょう。もしくは自分の意見。これのほうが重要かも。
私の小説に対する批評ならいつでも何でもかまいません。
最近短編はとっても私に優しいので、昔みたいにガンガンこき下ろしてくれていいのになあと思っています。もう、昔なんて、立ち上がれないほどだったから。
そういう経緯を経て、自分の作品に関しては何も言わないのが賢明だなあと思ったんです。
 
〉〉「比喩と事実の書き分けがうまくできていない」事がこの小説の欠点になる理由を教えてください。あなたはずいぶんとそのご友人をリスペクトしているようですからご友人の説明でもかまいません。
〉〉 
〉 それが上手に為されているなら話は別ですが、今回はマイナス面にしか作用していない。しかし、魅力にかわりうる点なのでこれは精進あるのみです。
〉 

でも、参考までに書いてみてください。これだけじゃあ、議題だけで本題無しになってしまう。例えば、「〜だから、好きじゃない」とかそれだけでも主体性がわかるってもんです。

〉 何で私がこんな事を噛んで含めるように説明しなければならないのか、実に情けない。
〉 
〉 言いすぎですよ。書き手のエゴが丸出しになってきています。解説して「やっている」と読者に思われたら最期です。これでは何度も言いますがその人は、二度と読んでくれなくなります。私以外には絶対に止めてください


情けないですよ、新作も書かずに何やってんだ、俺はと言う気持ちでいっぱいです。本を読む時はそれなりに想像しながら読むのですが、それを否定しちゃうとはじまるものも、はじまらないでしょう。

そしてこれは、読み手に言っているんではなくて、あなたに言っているんですよ、タンソさん。
私は、最初からあなたに話をしているんです、タンソさん。
他の読者なんて知りません。
書き手のエゴではなくって口が悪いんです。お里柄です。
あとね、これは考え方の根本の違いなんだけど、私は読んでもらっているとは考えていないです。暇だから読んでんだろうなあ位に思っています。
お願いですから読んでくださいって思っている人もそりゃいるでしょうが、
私は頼んでないんです。だから読まなくてもいいんです。
でも読む人がいて、褒めてくれたりけなしてくれたりする。すごいなあといつも思っています。これがインターネットのすごさですね。

〉「だがしかしあえて言わせてもらえば」結局言うんじゃないですか(笑)
〉 ちなみに私、伊勢物語は知っています。焼き直し作品だとは気づきませんでしたが、どっかで見たことある感、これで納得です。
〉 あなたには芥川龍之介という有名な小説家を紹介しましょう。焼き直し作品が多々ありますが、原文を知っていようがいなかろうが、面白いですし、未だに新鮮です。
〉 他の欠点ですが、ありません。結局、欠点も美点も少ないようです。あなたが分かりやすいという言葉に心外を覚えるのであれば、もう語彙力の少ない私になす術はありません。こうやって、他の人の口をつぐませることは、私以外には止めてください。


言っちゃいます。こういう機会はめったにないんで。
芥川さんに出来ることを私が出来たら、こんなところでこんな生活はしていません。

欠点も美点もない、で、あなたは好きですか?嫌いですか?
私はそこんところのあなたの意見を聞いていますよ、タンソさん。


〉 総じて、あなたがた書き手は、投稿作品がもうすでに完成しているものとお思いなのではありませんか? だからできる限りの反論を駆使し、自分の、あるいは仲間内の作品を守ることに躍起になっていらっしゃる、そういう風に映ります。
〉 いいですか。あなた方は、完全な作品をつくることなんて出来ないんです。もっとレベルの高い人々ですら至れない境地に入るなど、エゴのきわみです。そのために、読者は必要です。特に、どんな拙い形であれ、問題点を指摘してくれる読者が私には必要なのです。
〉 ちなみに、私をここから消し去ることは簡単ですよ。書き手が総力を挙げて反論し続ければ、じきに弱い読み手は泣きながら逃げていくことでしょう。 


何度もいうようだけど、私が書くことで、書き手の総意と思っていますね。
これを危険だと言っています。
いろんな人がいて、いろんな小説を書いています。
これは、私が、タンソさんに、この辺がおかしいのではないかなあと
思った所をあなたに向けて書いています。
書き手、読み手ではなく私があなたにですよ、タンソさん。
そこんところお願いしますね。

で、私は今、人生の岐路に立っているので
今回はすぐに反論できましたが(でも十分じゃない)、突然ネットにつなげなくなるかもしれない。申し訳ないですが、いずれ片付きますので、また次回。

長月さん(Re:反論)

長月さん、こんにちは。

〉小説の問題点を指摘してくれる読者を、私みたいにあしらうのでしょうか。私にはいいですが、他の方には絶対止めてください。二度と読んでくれなくなります。

読者にもピンからキリまであります。どうぞ誰にでも妥協されるのではなく、今までの長月さんの「ちょっと冷たい感じ」を維持されてお書きください。そのほうが色気があります。

〉 言いすぎですよ。書き手のエゴが丸出しになってきています。解説して「やっている」と読者に思われたら最期です。

今回、長月さんの作品が伊勢物語を題材にしていた、という話はおもしろく読ませてもらいました。村上春樹にならって「自作の解説はしない」と長月さんもおっしゃってますが、もっと解説をしてください。村上春樹もいろんな形で解説しているような(解題と称して全集などでは)気がします。伊勢物語は読んだことがないので読もうと思うきっかけになりました。エゴのない書き手なんて……

〉 あなたには芥川龍之介という有名な小説家を紹介しましょう。焼き直し作品が多々ありますが、原文を知っていようがいなかろうが、面白いですし、未だに新鮮です。

芥川の何をすすめてるんでしょうか? 私は個人的には後期の私小説的なのが好きです。

〉こうやって、他の人の口をつぐませることは、私以外には止めてください。

そうでしたか? 今回の長月さんの書き込みはとても優しさにあふれていたと思います。へりくだるやさしさとはちがって、一歩ひいた大人の優しさとでもいいましょうか。

〉あるいは仲間内の作品を守ることに躍起になっていらっしゃる、そういう風に映ります。

本当に? 長月さんの「感想」を読ませてもらう限り、仲間意識なんて感じませんよね? むしろ、ちょっと鋭くて、それがいい刺激になる。否定するならサイト全否定ではなく、個人のある作品の否定であるべきだし、長月さんの感想を読むかぎりでは、けっして全否定ではなく部分否定になっていると思う。

〉 いいですか。あなた方は、完全な作品をつくることなんて出来ないんです。もっとレベルの高い人々ですら至れない境地に入るなど、エゴのきわみです。そのために、読者は必要です。特に、どんな拙い形であれ、問題点を指摘してくれる読者が私には必要なのです。

「会いたいと思えどもおまえではなし」という格言がありますが、読者ならどんな読者でもいいんだろうか。このような意見に惑わされることなく、いろいろと生活の事情があったとしても、一読者として長月さんの次作を「短編」で読めることを期待しております。「きらら」の賞を受賞されて「プロ」となっても参加はやめないでいただきたいものです。

海坂さん(Re*2:大丈夫だと思いますが)

海坂さん、こんにちは。

以前誰かのコメントのなかで「眼中の人」について反応してくれてありがとうございます。が、あれは海坂さんにこそ読んでいただいて、ぜひとも執筆を続けていただきたい。以前、ずいぶん前ですが本屋で短編をあつめたショートショートの本のなかに海坂他人の名前をみつけたことがあります。図書館の検索機械に名前がでてきたときは驚きました。「眼中の人」ではありませんが、どんどん書いてください。そして100枚も2枚半も根元は同じところだと思ってます。100枚の世界で忙しくとも、2枚半の「短編」も忘れないでください。

〉読者の方が強すぎて「言いすぎだろ、イジメなさんなって」と仲裁に入りたくなりそうなところも多々あります。このサイトは特異です。

「短編」もときどき読者が強くなるときがありますねー。海坂さんのコメントもいろいろ読ませてもらってきました。今ちょうどいいバランスだと思ってます。

〉 自分を「読者」として低く限定してはいけません。

そうです! 自分を「批評家」として低く限定されてはいけません。個人的に海坂さんは「短編」で票が入らなかったときのことをちょっとビビッておられる気がする。るる氏をごらんなされ! あの天才詩人などはむしろ「おまえらに票をいれられたらおしまいだ、という基準で投稿している」と思っているように想像します。以前芥川賞をやっととった某氏を評して「やっと時代が彼に追いついた」とコメントされたことを覚えてますか。それに対して山田某が「とうとう時代に追いつかれちゃったか」と言ってたことがある。海坂さんも「読者」から「エゴ」なんていわれてもいいので、あの飛行機で少年と出会う強烈な中編(すいません、あれはヒきました)、あれくらいの実験をしていただきたいものです。
 いです。

〉 書き手から、書き手兼読み手に成長してください。

ぜひとも読み手から書き手に戻ってください。

苦笑

〉ずいぶん前ですが本屋で短編をあつめたショートショートの本のなかに海坂他人の名前をみつけたことがあります。

 世の中いろいろなことが起こるなあと思ったものです。何だったんでしょうあれは。後が続かなきゃ駄目だやっぱり。

〉「短編」もときどき読者が強くなるときがありますねー。海坂さんのコメントもいろいろ読ませてもらってきました。今ちょうどいいバランスだと思ってます。

 はいそうです。無用に強かった読者がこの私です。ああ胸が痛む…
 読者が強すぎても人は引いていくんですよね。
 しかし当たり前の事ですが本質的な問題は強弱ではなくて、どのくらい言説に説得力があるかどうかだと思うのですけどね。それは昔からずっと考えてました。作者だから自分の作品の全部を把握しているということもないし、読者だから言いたいことを言い散らしていい、って話はないのよね。聞いてるかな彼は。

〉個人的に海坂さんは「短編」で票が入らなかったときのことをちょっとビビッておられる気がする。

 そんなことないと思いますけどね…単に自分の基準で書けないだけです。
 こんな風に言って頂けるというのは作者として有難いことだろうと思います。いつになるかわからないですけど、降ってくるものを待っています。もしかすると待ちくたびれて終わるかも知れませんが。

〉あの飛行機で少年と出会う強烈な中編(すいません、あれはヒきました)、あれくらいの実験をしていただきたいものです。

 あの手の世界は、別の方面に活かしどころを見つけたようです。「短編」にはたぶん持ち込まないつもりですのでどうぞご安心下さい(笑)

 しかしこんな内輪話をしているとまたタンソさんには嫌な感じなんだろうなあ……仲間外れにしてるんじゃないのよ。

ではもう少し

 大丈夫だったようで何よりです。じゃ、もう少しお話ししましょう。

> 読者の方が低い位置にいるって何事でしょうか? 読者がいなけりゃ、その小説は路頭に迷ってしまうんですよ? そんなだったら、私は、「書き手」になんか成長したくない。読者の目線で作品をつくりたいです。

 ここは食いつき所だと思っていました。自分の書き込みを後で反芻していて、あ、こういう反論があるなと。
 三島由紀夫『文章読本』(中公文庫)に、小説の読者には二種類あるんだという話が出ています。「レクトゥール」というのがいわゆる素人さん、それに対して、小説を本当に深く読める種族「リズール」というのがいると。
 三島にいわせると、
「作家たることはまたリズールたることから出発するので、リズールの段階を経なければ文学そのものを味わうことができず、また味わうことができなければ、自分も作家となることができません」
ということで、明らかに書き手の方が「上」なのです。さすが貴族主義の三島と言いたくなりますが、(こういう所が一部の人に嫌われる原因なんでしょうけども)これに近いことはけっこういろいろな人が言ってます。たとえば水村美苗は誰かとの対談で、「馬鹿には小説は書けない」と言い放ち、小島信夫はある自作について「批評家の言いそうなことは全部考えて書いた」と豪語しました。読者どころか批評家も眼中にないんだからすごい自信だよね。
 こういうこと言う人はいわゆる純文学畑の方に多くて、一方で、いわゆる大衆小説家はタンソさんに近いように見えます。たとえば吉川英治などは、読者一人一人には固有の人生経験があるから怖い、とか、自分の小説は読者が持っていたものを引き出す呼び水の役をするだけなんだ、みたいなことを言っています。
 しかし大衆小説家がいくら「私は読者に奉仕するんだ」という考えであったとしても、彼らの文学的素養が読者と同レベルということは絶対ないですね。これは確実にそうです。
 「読者の目線で作品をつくりたい」というのは、たいへん立派な覚悟と思います。おそらくこの言葉の意味が本当にわかるのは、タンソさんがいつの日か大作家に成長されたときでしょう。

 タンソさんはしきりに、読者がいなくなるいなくなると心配されるけど、そんな怯える必要ないと思うんですがね。だいたい、小説そのものは別に読者がいなくても困らないですよ。作者は路頭に迷ったにしても(笑)

海坂さん(Re:ではもう少し)

海坂さんのコメントはなかなか勉強になります。タンソさんに感謝したいのは、氏のおかげで海坂さんはじめいろんな方の考えが聞けたということですね。私も書き込みを読み、それに自分なりの感想を加えることで考えが整理されていく気がします。

〉 三島にいわせると、
〉「作家たることはまたリズールたることから出発するので、リズールの段階を経なければ文学そのものを味わうことができず、また味わうことができなければ、自分も作家となることができません」

なるほどー。言われてみればそうかもしれない。掲示板上で「書き手」「読者」とはっきり分けておっしゃられる方が多かったけれども、そもそも物語を書こうとしている人自身が自分の作る物語の最高の読み手でなろうとする努力がなければ、それは最終的に普遍性を持たないですよね。

たとえてみれば、塩と砂糖の違いもわからずに料理人になれないのと同じで、自分のつくったものの味の判別くらいできなければいけない。そういう意味では「短編」の<書き手自身も投票する>という仕組みはなかなか深いところがありますね。

〉 こういうこと言う人はいわゆる純文学畑の方に多くて、一方で、いわゆる大衆小説家はタンソさんに近いように見えます。たとえば吉川英治などは、読者一人一人には固有の人生経験があるから怖い、とか、自分の小説は読者が持っていたものを引き出す呼び水の役をするだけなんだ、みたいなことを言っています。

菊池寛なんかもそうですよね。芥川のような心理よりも、生活を描写する(といってもまだ菊池寛は読んでないんです)。でも面白いのはそんな菊池と芥川が親友であり、これに私小説のドロドロの宇野浩二なんかも加わってひとつの大きな文壇があったことだと思うんです。よくもこれだけ作風も読者も違う人たちが仲間になりえた。これはひとえに「読者」を意識するうんぬんではなくて、「いいものをかく」という一点でつながってたからだと思うんですよ。

〉 「読者の目線で作品をつくりたい」というのは、たいへん立派な覚悟と思います。おそらくこの言葉の意味が本当にわかるのは、タンソさんがいつの日か大作家に成長されたときでしょう。

でもまあチキンさんなどの意見を読ませてもらうと「読者の目線」というのもそれはそれで大事ですね。まったく読者は不必要、というわけでもないか、と思いました。

〉 タンソさんはしきりに、読者がいなくなるいなくなると心配されるけど、そんな怯える必要ないと思うんですがね。だいたい、小説そのものは別に読者がいなくても困らないですよ。作者は路頭に迷ったにしても(笑)

そのとおりですよね。そもそもインターネットが普及した現代だからこそ「読者」とか「(素人の)書き手」なんて言ってますけど、一昔前の世代の文士にとっては、まず同人誌が主流で、そこで書きたいものをひとまず書く、というところがスタートですよね。書きたいものを書いて、内部でお互いの批評をしあう。書き手が読者でもあり、批評家でもある。そして書き手に自分の文体のようなものが出来上がった自信がついてから文芸賞に挑戦し、そこで認められたころにおのずから読者(世間)がついてくる。そういうものだったんですよねー

それに、インターネットの投稿サイトでは「書き手と読者」のふたつにわけるのではなくて、もしもあえてわけるとするならば(本当はわけたくない)、「書き手と批評家と読者」ですよね。「読者」というのは「こんなサイトは無駄だ!」「つまらん!」と怒鳴るのではなくて、一日の終わりに電車に揺られながら、携帯電話で「短編」の1000字小説をぼんやりと読み、qbcさんの作品にでてくるOLのところでクスッと笑う、そして携帯を閉じる。そういう人が読者であって、いろいろご意見される方は私からしたら批評家です。

そして批評家は批評家で立派ですし、文士と批評家は表裏一体だと思うんですが、もしも感想と称した批評をするならーーこの私がそうなんですがーー、それなりに批評家の勉強をしなければいけないと思います。ただつまらん、つまらんでは高校の授業にでて「わからない」とイライラしている幼稚園児みたいなものになる。つまらないのは自分がつまらないからだ、という認識を私も持たなければいけないと思ってます。だからむしろ「すばらしい」と思ったことについて述べていきたい。それなら私でもその資格をもつことができる。

というのが海坂さんのコメントを読ませてもらって思ったことですが、やや感情論になってしまいました。コメントの感想になってなかったらこちらの力不足です。申し訳ない。

ちょっとだけ噛みつきます。

誰も指摘しないのでちょっとだけ噛みつかせてください。

〉あとね、これは考え方の根本の違いなんだけど、私は読んでもらっているとは考えていないです。暇だから読んでんだろうなあ位に思っています。
〉お願いですから読んでくださいって思っている人もそりゃいるでしょうが、
〉私は頼んでないんです。だから読まなくてもいいんです。
〉でも読む人がいて、褒めてくれたりけなしてくれたりする。すごいなあといつも思っています。これがインターネットのすごさですね。

「短編」サイトの特徴として、読み手として本気で参加しようと思えば、投稿作品は“全て”読まなくてはいけません。そうしないと、公平な評価、ひいてはマトモな投票すらできませんから。
ですから、「読まなくてもいい」とおっしゃるのは、ちょっと言いすぎだと思いますし、できるならほんの少しで良いですから認識の軌道修正はできないでしょうか?
また、以上の理由で「暇だから……」という認識も、個人的な思考の中ではともかく、コトバとして出してしまっては、少ない時間をやりくりして参加している人たち(私以外にもいるのかはともかくw)に対する侮辱とも受け取れます。

Re:ちょっとだけ噛みつきます。

了解しました。
「暇云々」については語弊がありました。撤回します。

私の作品に限りましては、忙しかったり最初の一行から面白くなかったり私の作品はどうも好きになれない場合、無理して読まないでください。
それで公平な評価が得られなくとも私としてはかまいません。
私は私が楽しんで書いたものを、読んだ人が楽しめればいいと思っています。私が作り上げた物で、最も面白い物は私自身の人生です。小説は私の人生ほど面白くはありませんので、強いてお勧めしません。が、嘘をやるのに嘘をついてはいけないと昔、演出家に言われて以来、私は創作においては嘘を本気でと心がけております。ですが所詮は嘘なので、暇な時にでもお付き合いいただければと思っております。

Re:ではもう少し

全くかみ合わない議論をありがとう。

〉> 読者の方が低い位置にいるって何事でしょうか? 読者がいなけりゃ、その小説は路頭に迷ってしまうんですよ? そんなだったら、私は、「書き手」になんか成長したくない。読者の目線で作品をつくりたいです。

まず、タンソさんと海坂さんでは“小説”の定義が異なります。海坂さんは「作者(小説家)」が書いたらそれは“小説”だ。という考えです。反面、タンソさんは、「作者」が書き「読者」が読んではじめて“小説”といえる。という考えです。つまり、「読者」のいない小説は小説ではなく“チラシの裏”ってことです。この辺をハッキリさせないといつまで経っても議論は平行線のままです。

〉 三島由紀夫『文章読本』(中公文庫)に、小説の読者には二種類あるんだという話が出ています。「レクトゥール」というのがいわゆる素人さん、それに対して、小説を本当に深く読める種族「リズール」というのがいると。
〉 三島にいわせると、
〉「作家たることはまたリズールたることから出発するので、リズールの段階を経なければ文学そのものを味わうことができず、また味わうことができなければ、自分も作家となることができません」
〉ということで、明らかに書き手の方が「上」なのです。

この部分でも主張する意味合いが違いますよね。タンソさんは海坂さんの記事123の主張に沿って「作者」と「読者」が対峙した場合、読者がいなければ“小説”として成り立たないのであるからそこには上も下もないだろう、平等だろう、といっているのですが、海坂さんは三島由紀夫氏の言葉を引用して「作者」になるためには「読者」として段階を経なくてはならず、従って「作者」が上なのは当然でしょうと答えています。
 もちろん、作者が「上(というより「神」か)」というのはある側面では当たっていますが、今回の海坂さんの引用では変だと思います。

また、この反論で不快になるのは、海坂さんがこの引用を行うことで、自分を含め、「短編」に投稿しているのは「作者」であるのだから当然「読者」としてはリズールであるかのように受け取れることです。
 んなわけないですよね。2006年4月16日放送の情熱大陸の中でリリー・フランキーさんが、「イラストレーターになりたいのだったら、今日から『私の職業はイラストレーターだ』と公言すればいい」といってましたが、イラストレーターが小説家でも同じことなんですから。

〉たとえば水村美苗は誰かとの対談で、「馬鹿には小説は書けない」と言い放ち、

はい。すみませんねぇ、馬鹿で。

〉 しかし大衆小説家がいくら「私は読者に奉仕するんだ」という考えであったとしても、彼らの文学的素養が読者と同レベルということは絶対ないですね。これは確実にそうです。

そうですね。でもタンソさんもそんな主張(作者と読者が同レベルである)はしてませんよね。一貫して、「作者」が「読者」の目線まで降りていって、そこで楽しめるような「小説」を書きたい。書いてはどうですか?そういう主張だったと思います。



以上、揚げ足取りの反論、というか単なる両者の解説ですが(笑)は終わりです。できればもう少し相手の意を汲んで答えていただけるとまともな議論になったのではないでしょうか?
最後に、これは私の主張であり、たぶんタンソさんも同じように考えて議論をはじめたと思いますが、「短編」をより盛り上げるためには「レクトゥール」を増やしていくべきではないかと考えています。
海坂さんはどうなのでしょう?「短編」に「レクトゥール」は不必要ですか?

Re:海坂さん(Re:ではもう少し)

意見の合うところもありますけど、やっぱりロチェスターさんにも噛みつきます。

〉なるほどー。言われてみればそうかもしれない。掲示板上で「書き手」「読者」とはっきり分けておっしゃられる方が多かったけれども、そもそも物語を書こうとしている人自身が自分の作る物語の最高の読み手でなろうとする努力がなければ、それは最終的に普遍性を持たないですよね。

 自己判断。それは、一歩間違えると自己満足、独りよがりと呼ばれるたぐいになってしまいます。しかも、自分がリズールであると思っておられる方ほどその迷宮から抜け出しにくいのも事実です。やはり、第三者が読んではじめて成り立つのではないでしょうか?
 プロの場合、一級のリズールである「編集者」と呼ばれる方々がいるゆえに、普遍的な作品が残せるのだと思います。
 ただ、「短編」に投稿される作者さん達の何人が友人や家族など、身近に「編集者」を持っているのかは非常に疑問です。

〉それに、インターネットの投稿サイトでは「書き手と読者」のふたつにわけるのではなくて、もしもあえてわけるとするならば(本当はわけたくない)、「書き手と批評家と読者」ですよね。「読者」というのは「こんなサイトは無駄だ!」「つまらん!」と怒鳴るのではなくて、一日の終わりに電車に揺られながら、携帯電話で「短編」の1000字小説をぼんやりと読み、qbcさんの作品にでてくるOLのところでクスッと笑う、そして携帯を閉じる。そういう人が読者であって、いろいろご意見される方は私からしたら批評家です。

 私的には、己の感じたまま「面白い」「つまらない」だけで判断する方が一流の「読者」だと思います。そこから“なぜ”面白いのか、“なぜ”つまらないのかを述べる方が「批評家」です(プロの批評家はほとんどが“褒める”方向で仕事をしてらっしゃいますよね)
 また、「読者」や「批評家」は作品に対してあれこれいう権利(これを説明すると長くなるので今は省略)がありますが、「作者」にはそういった“感想”“批評”に対して取捨選択の自由があります。そういった意味では「作者」は“上”になるのかもしれませんね。

お答え

 直接的な問いになっているので、最後の部分から先にいきますか。

〉最後に、これは私の主張であり、たぶんタンソさんも同じように考えて議論をはじめたと思いますが、「短編」をより盛り上げるためには「レクトゥール」を増やしていくべきではないかと考えています。
〉海坂さんはどうなのでしょう?「短編」に「レクトゥール」は不必要ですか?

 考えてみたらqbcさんが152で応答されていますね。こうやって対話している事態そのものが「盛り上がっている」と言うべきでしょう。
 さもなくばそれこそ春樹にでも寄稿してもらうしかないわけで、小説だけを読んでくれる普通読者ってのは「短編」には望み得ない、少なくとも大きく増やすというのは無理である。というのが私の現状認識です。それは市場という別の原理によってそうなっているのであって、…べきだとか、不必要だと宣言するしないにかかわらず、そうなのです。
 そこが納得いかない人は、読者が増えないのはこれすべて、不埒な作者が読者のことを考えないからだ、とひたすら精神論に走るわけですけども、私に言わせれば、それはオアシスの幻影に引かれて砂漠を彷徨するようなもんです。どこかにいるかもしれないバーチャル読者の影を追い求めるよりは、今ここに集える人々(書き手読み手問わず)との交流が大切なんじゃないか。
 というようなことを、私は「短編」の五年六十期の歴史を通じて考えるわけです。こういう言い方をするとまた、古参を鼻に掛けてとか陰口を叩かれる羽目になるので言いたかないのですが、たとえ読者は爆発的に増えなくても、「短編」はその時々で熱意のある書き手あるいは読み手の人たちが参加して、滅びることもなく続いてきてるわけです(その中でも当然北村氏の設営が特段の意味を持ちます)。レクトゥールなど極端に言えばどうでもいいので、そういうバトンを出来るだけ多くの人が引き継いで行ってくれる方が大切だと私は思っています。

〉また、この反論で不快になるのは、海坂さんがこの引用を行うことで、自分を含め、「短編」に投稿しているのは「作者」であるのだから当然「読者」としてはリズールであるかのように受け取れることです。

 ここはちょっと引用が足りませんでした。三島は続けて、
「しかし依然としてリズールたることと、作家たることのあいだには才能というまか不思議な問題があり」
と書いています。つまり彼のいう「作家」というのは当然、作品を世間に広く発表して職業としている者、のことです。つまり「短編」投稿者はぜんぶ、彼から言えば作者でも何でもないただの人です(笑)
 不快だと言われると反論のしようもないのですが、このリズールというのはそんじょそこらにいるものでもないんでしょう。三島の想定ではどうも批評家として店を張れるくらいなレベルを指しているらしい。
 しかし私の考え方では、これは「意識」の問題と言いたいのです。私なんか新聞の連載小説を読むときなどは明らかに粗い読みで、レクトゥール状態ですが、「短編」の作品を読んで投票しようとか感想を書こうとかなると明らかに意識が高くなります。それでも大したこたあないでしょうが、そういう気の持ち方が人を段々進歩させていくんじゃないでしょうかね。

 それから私がどうにも疑問なのが、

〉つまり、「読者」のいない小説は小説ではなく“チラシの裏”ってことです。

 これはタンソ説ということであるけれども、チキンさんも同じ考えでしょうか。

〉「イラストレーターになりたいのだったら、今日から『私の職業はイラストレーターだ』と公言すればいい」といってましたが、イラストレーターが小説家でも同じことなんですから。

 であれば、読者がいるかどうかなど気にする必要ないと思うんですがね。チラシの裏で何も構わないはずなんです。
 大体これでいいと思いますが、最後に、「馬鹿には小説は書けない」といったのは私でなく水村美苗です(典拠が思い出せないのが残念ですが)私も個人的には反感を覚えないではないですが、そういう風に一般大衆を見下した風な作家並びに批評家はいくらもいます。それに対してグレてても仕様がないんで、闘わないといけないのよ。自分も物を書きたいと思うなら。

チキンさん(Re*2:)

チキンさん、こんにちは。

チキンさんのおっしゃることはなかなか正しいことだと思います。

〉 自己判断。それは、一歩間違えると自己満足、独りよがりと呼ばれるたぐいになってしまいます。しかも、自分がリズールであると思っておられる方ほどその迷宮から抜け出しにくいのも事実です。やはり、第三者が読んではじめて成り立つのではないでしょうか?

まず、私は作品は「自己満足」で「独りよがり」で構わないと思ってます。そこはチキンさんと違うかもしれませんね。「チラシのうら」でいいと思ってるんですよ。というのは、本当に優れている作品というのは、たとえばーーまあ、有名どころでゴッホを出しましょうか。ゴッホは生前、ほとんど絵が売れずに死んだわけでしょう。耳切り落としたりして、まあアホだったわけですが、絵が好きだった。後年、「画商」なり「批評家」が彼を発掘して、いまでは大ゴッホになった。

私にとっては小説もその路線でいくのが正当だと思っている。村上春樹だって、吉行淳之介あたりが選考委員じゃなかったら最初の群像を受賞してなかったんじゃないでしょうか。でも彼はおそらく当時の日本文壇に媚びるような作品は書いてないですよね(たぶん)。今でこそ「みんな大好きムラカミハルキ」になってるものの、はじめはとても異端だったと思いますよ。

つまり、私は作品は「自己満足」からはじまって、問題は作者がその「自己満足」の質を高める努力をしていけるか、ということにかかってるんだと思うんですが、そういうところどう思いますか? 私もチキンさんと同じように、小説は読者あってのものだとは思う。けれども、ここから少し矛盾も入りますが、読者を意識せずに書き上げてそれでも読者が読んだら満足してしまう・・・・・・そういう作品が後世に残っていくような気がするわけですよ。

だから、コピーライター出身の作家(原田なんとかとか?)の場合、デビュー作品はよくても10年くらいで消えてしまってますよね。読者に何がうけるか、うけるか、と考えているのって、なんだか電車の中のスリの目つきみたいに、だんだんみえてくるように思えるわけですよ。

〉 プロの場合、一級のリズールである「編集者」と呼ばれる方々がいるゆえに、普遍的な作品が残せるのだと思います。
〉 ただ、「短編」に投稿される作者さん達の何人が友人や家族など、身近に「編集者」を持っているのかは非常に疑問です。

そのとおりだと思います。ですから、「短編」では書き手(といっても、ほとんどが素人同然のやや読書好きの集まり)がそれぞれの作品を批評していくのはいいことだと思うわけですよ。それで私が「否定的な意見」を嫌うのは、それが今回のチキンさんの指摘のような「まとも」だったら歓迎なわけだけど、ただうっぷんばらしと受け取れかねないような否定ばかりだったらそれはサイトつぶしじゃないか、と思った次第です。

〉 私的には、己の感じたまま「面白い」「つまらない」だけで判断する方が一流の「読者」だと思います。そこから“なぜ”面白いのか、“なぜ”つまらないのかを述べる方が「批評家」です(プロの批評家はほとんどが“褒める”方向で仕事をしてらっしゃいますよね)

そのとおりです。そのとおりですよ。だから私は本来「短編」に投票制度はいらないんじゃないか、と思ってるくらいです。だいたいこの「あいまいな」決勝やら優勝やらは、本来の「おもしろいかつまらないか」の読者には興味ないんじゃないんですかね? それでも、書き手にもハリがでてくるので一応機能しているとは思うのですが、あまりここでの予選突破やら全作品感想にこだわる必要はないと思う。長月さん同様、私もタイトルと始まりの一文で「肌にあわないな」と思うのは読まないときもありますし、それが「読者」なんじゃないでしょうか。

運営: 短編 / 連絡先: webmaster@tanpen.jp