その可能性を示したくて、改変と呼ぶのには変更が大きすぎるのですが、思い描いたものを書きました。
大きすぎる変更と言うのは、死の方向性でなく生の方向性を持たせたことです。それは私の夢、誰も悪い人がいない世界を現出させること、の表れで、あるいはそのためだけに『乾燥胎児』の題材を使ったことが本当の動機なのかもしれません。
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蛹
がんばらなくて良い――ドア越しに先生の声が聞こえる。嘘。先生だってがんばって私が出てくるのを待ってるじゃない。私は強く目をつむり、耳をふさいだ。このまま消えてしまいたかった。
がんばらなければこの世界では生きていけない。当たり前のことだ。だからお父さんもお母さんも、クラスメイトも先生も、それぞれのことでみんながんばっている。だけど私は――勉強だって運動だって、芸術だって家事だって、何ひとつみんなのようにできない。がんばっているのに、できない。みんなができていることができないのは、辛い。私はここにいて良いのだろうかと、どこからでもない重圧をいつだって感じる。だけど実際には誰も私を責めないし叱らないし、優しくしてくれる。こんなに優しくされても、私は何ひとつお返しすることができないのに。返せない恩に埋もれて、窒息してしまいそう。おぼれてしまわないように私はがんばり続けてきたけれど、まるでやっと浮かんでいる頭に水を浴びせかけられるように、苦しさばかりが増していく。
教室までの階段を上るたびに重くなる足、授業ごとに荒くなる呼吸、四限目の途中で目の前の景色が色を失い、ついに私は席を立った。先生の呼ぶ声を振り切って、足には力が入らなかったけれど、トイレまで何とか歩ききって、鍵をかけた。今までずっとがんばり続けてきたのに、ついにがんばることをやめてしまった。泣きたいなんて思っていなかったのに、涙を止められなかった。声を止められなかった。そこにいつの間にか先生がいて、言った――がんばらなくて良い。
なんで私はこうなんだろう。普通に過ごせないんだろう。教室から逃げてしまったことで、いつもの苦しさは重さに痛さを増して私を激しく襲った。もう教室には戻れない。でも進む道も居場所もない。そんな世界なんかこれ以上見たくも聞きたくもなくて、私はこのまま消えてしまいたかった。だけどそんなことなんかできるはずもなくて、だからドア越しにはまだ先生がいる。私のことを責めもせず叱りもせずに、いる。
そして私は知ってしまった。どんなにがんばっても無駄なことがある。どんなにがんばっても、がんばらないことなど絶対にできないのだ。ドア越しでがんばって私を待ってくれている先生のために、私はがんばってドアを開けなければいけなかった。ドアを開けた私を、先生はただ優しく慰めてくれた。私は絶望だけを抱いて、ただ泣いていた。
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『乾燥胎児』の感想ですが、一読したときは長編で描かれた背景があってこのひと場面があるはずのもののように読めました。しかしその後、そうではなくて、ひとつの心情を描くのであれば、ひとつの言葉から出立するなりひとつの言葉に収束させるなりするべきだと思いました。この作品の言葉の中からそれをひとつだけ選ぶとすれば、私は「頑張らなければこの世界では生きていけない」であるべきだと思い、だから『蛹』はしつこいほどに『がんばる』という言葉を使っています。
それから、時系列がわかりませんでした。最初と最後が同じ時点であるために時間の輪ができてしまっているように見えて、心情の推移がわからなかったのです。これは私の読み方が間違っているか、作中の現在形と過去形の遣い分け方が間違っているかのどちらかであると思います。